西曆2008年 1月 7日(月) 「ぜんぜん大丈夫?(ウルフ): ことば会議室」へコメント

「ぜんぜん大丈夫?(ウルフ): ことば会議室」へコメント

http://kotobakai.seesaa.net/article/8174240.html

「全然+肯定」も「全然+否定」同様に明治大正期には共存していたが、昭和軍国主義の中で「全然+否定」だけが生き残った。

興味深いことに大正末期から昭和初期にかけて三河方言とされる「とても+肯定」が、標準語法の「とても+否定」に加えて並立するようになり、現在に至るわけであるが、これについて現在誰も目くじらを立てたり、不信感を抱かないのは何故だろう。

平成の現在、恰も先祖返りの如く「全然+肯定」が使われるようになった現象を私はむしろ歓迎したい。目くじらを立てている輩は単に歴史音痴な無知である。

Posted by xapaga at 2008年01月07日 01:17

以下に

加藤重広(かとう しげひろ, b.1964)北海道大学大学院教授の著書

『日本人も悩む日本語』(朝日新聞出版 朝日新書, 2014年)から一部抜粋(pp.160-163)

http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%82%82%E6%82%A9%E3%82%80%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E-%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0%E3%81%AE%E8%AA%A4%E7%94%A8%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%87%8D%E5%BA%83/dp/402273583X/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1447230051&sr=1-1

文法を、法律の条文のように、ことばで示すことができる「規則」にする単純化はわかりやすいが、ときに思わぬ危険を招くことがある。例えば、「全然大丈夫です」 のように肯定文の強調として「全然」を用いる言い方をする人がいると、「最近の若者は、全然を肯定で使っている。全然は、全然~しない、と否定文で使うの が正しい」と言って、顔をしかめる向きがある。ここには新しいことばづかいへの嫌悪があるのは事実だとしても、いくつかの誤解が含まれている。

まず「全然」を肯定文で使う例は江戸時代から見られ、近代になってからもそれほど珍しくはない。夏目漱石の『坊っちゃん』では、主人公が「一体生徒が全然 悪いです」と言う場面が出てくる。「全然」は、江戸時代に口語体中国語で書かれた白話(はくわ)小説の影響で使われ始めたというが、戦前の小説などでは 「すっかり」「まったく」というふりがなをつけて使うことも多かった。永井荷風の『つゆのあとさき』には、「これまで考えていた女性観の全然誤っていた事 を知って」という表現が出てくる。

実態としては、肯定文でも使われているのに、否定と呼応させて使うという「迷信」が「全然」に付与されたのは なぜだろうか。明治後半から終戦くらいまで、おおむね二十世紀前半は、文法教育が確立していく時代でもあった。例えば、英文法なら、「at all は否定文で用いて否定を強める」、ドイツ語なら「gar は nicht の直前に置き、否定を強める」のように、否定の呼応規則として教授することも多かった。日本語でも、同じような文法規則があると想定されるようになり、 at all や gar の訳語に使うことも多かった「全然」に否定呼応規則のイメージが染み込んでいったと考えられる。

実は、at all や gar も否定でのみ使うわけでもないのだが、規則は単純なほうが教えやすく、習得しやすい。強調の副詞は他にもたくさんあるから、「全然」が否定文でしか使えな くなっても、現実に困ることはまずないわけである。ここで興味深いのは、現実のことばの使用から抽出するはずの文法規則が、いつのまにか主客転倒して、文 法規則に合うように現実のことばの使用が制限されるようになってしまったことである。

なお、最近の国語辞典の多くは、「全然」は否定文でのみ使 うという誤解を解くための補足を載せている。国語辞典など新しくなっても大差がないと言う人がいるが、ことばの変化に合わせた更新を除いても、新しい知識 や知見、新しい説明などが加わり、辞書は新しいほどよくなっていくのである。面白いのは、最近の「全然」が否定の想定を打ち消す配慮の機能を持っている点 である。若者から広まる新しいことばは、知らないことや誤解から生じる場合もあるが、むしろ新しい配慮のかたちの現れであることも少なくない。

例えば、「全然おいしい」などは、最初から誰もがおいしいとわかっている場合には使わないのが普通である。「新しくできた~ってレストランがおいしいって評判だから、早速食べに行ったんですが、やっぱり、すごくお いしくて感動してしまいましたよ」と言うときに、「すごく」の代わりに「全然」を使う人はまずいないだろう。一方で、「私がつくったんですが、おいしくな いでしょ?」と言いながらすすめられたものを味見しているなら、「全然おいしいですよ」はうまく合致する。誰かが「おいしくない」と思っている状況で、そ れを打ち消して「全然おいしい」と相手に配慮するのが、さきほど述べた「否定の想定を打ち消す配慮」にあたる。

こういう使い方が、ことばの微妙 な解釈への感受性が強い若年層から始まることはあるから、齢(よわい)と経験を重ねた気になって年長者が深く考えずに若者に小言を言うのは考え直したほう がいいと、私も日々自戒しているところである。コンビニで飲み物を買ったときに「ストローをおつけしますか」と聞かれ、「要りません」ではなく「全然大丈 夫です」と答えるのは、「ストローがないと困るのではないかという配慮に対して、なくても困らないと否定の想定を打ち消しながら、問題がないことを配慮し つつ言う」ことなのだという(呉泰均氏の研究による)。齢を重ねて無粋な中高年になって来ると、そんなに配慮し合う必要があるのかと思わないでもないが、 配慮そのものは美徳だから、少なくとも小言は控えなければなるまい。

上掲書から一部抜粋(pp.215-6)

現代では「とてもおいしい」 は日本語として間違っていると言っても誰も信じないかもしれない。しかし、大正時代の国語辞典には「とても」を肯定文で「非常に」の意味で使うのは不適切 だと記しているものがある。「とても」はもともと「とてもかくても」の省略形で、「どうしてもこうしても」「いずれにしても」「どうやっても」ほどの意 だった。これは、否定と呼応させて、「とてもできない」「とてもかなわない」のように使った。「とてもできるとは思えない」「とてもかなう相手ではない」 のように、呼応すべき否定表現があればよい。

「とにかくおいしい」「どうやってもおいしい」の意なら「とてもおいしい」も成立しそうだが、ちょ うど国文法で呼応の副詞が教育されていた時代でもあり、規範的な態度が強められ、「肯定文で『とても』を使うのは間違い」という踏み込んだ記述になったの かもしれない。芥川龍之介は特に肯定で使われる「とても」を嫌ったという。確かに、芥川の作品を読んでいても、「とても」は否定文で使われている例しか見 当たらない。「とても」の変化を嘆き批判した作家や学者も、その後、むしろ肯定文で使うほうが多くなるとは予想だにしなかったことだろう。

世の 中でどの程度広まれば、問題視されなくなるのかはわからないが、やはり九割を超える人が誤りや不適切だと思わなくなり、その状況が三十年ほど続けば、正用 扱いしても問題にならなくなると考えてよさそうだ。「とても」は、一九一〇年代には肯定文で使うべきでないという注意が示されているが、戦後になるとその 種の批判はあまり見られなくなっている。