西曆2006年 5月22日(月) 個人電子書簡(斎藤氏への質問状)

英語一辺倒の「英語帝国主義」を担う言説に反対する立場から、東京大学専任講師(2009年7月から同大学院教授)の斎藤兆史(さいとう よしふみ, b.1958)氏に質問状を送信せるも完全無視さる。ついでながら元国連副事務総長・群馬県立女子大学外国語教育研究所所長の明石康(あかし やすし, b.1931)氏にも同じ質問状を送っているが、こちらも返答がない。

Date: 2006年 5月22日(月) 17時43分53秒 JST

From: HARADA Toshiaki

Subject: ありがとうございます

To: TANJI Ai

日本英文学会事務局長

丹治愛先生

お手を煩わせて申し訳ございません。明石先生の件、了解しました。

会員

原田俊明

>原田さま

>

>了解しました。ただし、明石先生のメールアドレスは事務局として把握しておりませんので、斎藤先生にのみお送りし、明石先生への転送は斎藤先生にお願いしたいと思います。

>

>取り急ぎ。

>

>事務局長

>丹治 愛

Date: Mon 22 May 16:37:48 JST 2006

Subject: 特別シンポジアム「このままでいいのか大学英語教育」雑感

日本英文学会事務局御中

大変不躾ではありますが、このメールを斎藤兆史、明石康の両先生に転送していただければ幸甚に存じます。

斎藤兆史先生、明石康先生

過日、中京大学にて聴衆の1人として先生方の特別シンポジアム「このままでいいのか大学英語教育」を興味深く拝聴しました。パネリストの先生方のユーモアと示唆に富むお話と質問者(特に最初の質問者)のボンクラ振りとの対比が際立っており、これこそが大学英語教育の抱える問題を奇しくも端的に表していたように思われます。ここでお世辞を言う積もりは毛頭ありませんが、パネリストの先生方に習っている学生は少数の果報者であり、対するに質問者のような教員(これが大多数でしょうが)に英語を習う羽目になった学生が気の毒に思えてなりません。

さて、我が国の英語教育の問題点が無節操で行き過ぎた「英米文学否定」や「文法・訳読方式の否定」であることは心ある教員の間では自明のことですが、私見ではそれよりもまずは教員という人的資源の質こそ最大の問題であると考えます。ここで私は敢えて「質の低下」とは呼ばず、「(過去から現在に亘る)質の低さ」としたいと存じます。私が学生だった1980年代バブル期も、そして二十一世紀の現在も、相も変わらず学生に間違えばかり教えている英語教員が大学の教育現場に多々散見されます。私が大学に入った頃、literature を「リテレイチャー」、Huxley を「ハックスレイ」と読んで憚らない「英文学教授」が居ることに驚き呆れたものです。また、論文以外で大学英語教員の書いた英文(電子メール、ファックス、それに講義概要(!)その他の雑文等、英語母語話者の添削を受けていない作文)は本当に惨憺たるものです。例えば英国ロマン派文学の研究で我が国では重鎮とされている或る邦人教授が英国の大学教授に送信した国際ファックスには開口一番、*Please teach me the whereabouts of John.とありました。たまたまそのファックスを目にした英人の奥方は「これが本当に英文学の教授なのですか」と呆れておられました。呆れるのも至極当然ですが、私は日本語では動詞「教える」が teach と tell と show の意を兼ねているので斯様な間違いをする日本人が多いのです、と弁明しておきました。後で英人教授から聞いた話では、その邦人教授の寄越す手紙やファックスは常に1行中3つ程度の(例えば、*I was delightful to see you.のような)「吹き出したくなるような」エラーがあるそうです。困ったものですが、この偉いセンセイは既に定年で退官されました。

話は変わりますが、シンポジアムの質疑応答時間が不足していて質問できなかったことをここでお尋ねしたいと存じます。まず明石先生の仰られた昨今の「日本語の乱れ」は、本当に斯程に目に余るものでしょうか。例えば今から百年ほど前の洋行帰りのエリートの書いた文章なんぞはカタカナやら羅典文字(英独仏羅等)が不必要に混在していて(尤も当時は適当な訳語が見当たらなかった例も有りますが)、大した文章とは思えません。また、明石先生は「カタカナ語をなくすべき」と仰いましたが、これは「減らすべき」という意味での言葉の綾と考えて宜しいでしょうか。と申しますのも、例えば「ネクタイ」や「ベルト」や「ハンドル」などのカタカナ語を大東亜戦争(アジア太平洋戦争)中のように排除しようとすれば、可笑しなことに成りはしませんでしょうか。「ネクタイ」は差し詰め「首絞め」で、「ベルト」は「革帯」で、「ハンドル」は「舵取り輪」(本来はsteering wheelのため)でしょうか。いやいや戦時中の大日本帝國陸軍ですら「エンジンの音轟々と」と歌っているではありませんか。

しかし実は私自身も書き言葉では成るだけカタカナ語を避けて漢字を使うように努めています。ご多分に漏れず巷で流行の「コミュニケーション」というカタカナ語は特に嫌いです。「意志疎通」や「情報伝達」或いは単に「伝達」という語で置き換えています。

それから斎藤先生は「体が痩せる」意味での「ダイエット」や、「体が痩せている」意味での「スマート」や、「体型」の意味での「スタイル」という和製英語を槍玉に挙げられておられましたが、勿論英語の文章に使うべきではないという点で私も先生に同意します。しかしこと日本語の文章中のカタカナ語としては、複雑なアンビヴァレント(片仮名ですみません)な気持ちを抱いております。前述したように私も英語教師の端くれとして斯様なカタカナ語は書き言葉では極力避けています。が、よくよく考えれば我々が範としている英人こそいい加減な英国製羅典語崩れやら英国製フランス語崩れを多用しているのではないでしょうか。

何が云いたいかと申しますと、例えば中島義道著『英語コンプレックス脱出』(NTT出版)にもありますように、英語が得意な人は日本人が大型や中型の鉄筋集合住宅を指して「マンション」と呼ぶことを諫めます。が、このmansion なる単語は本来「住居」の意味だったものを英国という辺境の島国の人間が勝手に「大邸宅」の意味で使っているのでありまして、同語源の語を maison(家)として用いているフランス人の方がまだ健全と云えましょう。挙げれば際限がありませんが、style にしても羅典語の stylus(鉄筆)が本来の意味です。また、library を「図書館」の意味に使う英米人というのも異常だと思います。「書店」の意味に用いるべきです。他にも大学関連の単語としては、lecture を「講義」の意味で用いる英米人は狂っているとしか思えません。「読書」の意味で用いるべきです。明石先生の分野に関連する単語では、例えば veto は「我は禁ず」の意味でしかありませんので、これを「拒否権」の意味で用いる英米人は和製英語のカタカナ語を用いる日本人と同様に唾棄・断罪されるべきでしょう。

しつこくいろいろな単語の例を挙げましたが、私が上記に書いたことは勿論間違った議論であり、単なる水掛け論です。David Crystal, The English Language (Second Edition) (Penguin Books) にも有りますように、これは「語源学の誤謬(etymological fallacy)」ということになりましょう。したがって英語の得意な人間や英語教員がいつまでも日本人のカタカナ英語・和製英語に目くじらを立てるのは英語や「英語帝国主義」に対する奴隷根性でしか有りません。英人が羅典語やフランス語に斯様な劣等感を抱く時代はおそらく二百年程前に終焉したのではないでしょうか。尤もそうした劣等感は日本国民が英語文化圏に対して圧倒的な優位に立たねば消えることも癒えることもないでしょう。

最後に、明石先生が仰っていた「日本人は諸外国の人の例に倣って英国にやや傾いた英語を身に着けるべきだ」とする議論には大賛成です。これを身に着ければ欧州の白人にナメられる確率が減り、北米では尊敬や羨望の目で見られるようになりましょう。損得で語学をやることには批判もありましょうが、米国流英語を身に着けた日本人は世界では蔑みの対象にしか成らず、投資した時間やお金や労力の大損です。悲しいかな「米語を身に纏ったサル」と見られるでしょう。今後の日本人は中身の薄いトフル・トイック偏重の誤謬(尤もトフルのほうがトイックに比べれば数倍ましですが)に気づき、英連邦のアイエルツ(IELTS)重視に政策・舵取りを切り替えるべきです。

長々と駄文を綴り認め失敬いたしました。先生方の声が役人や大衆に届くよう切に願いつつ、

日本英文学会会員

原田俊明

註:第1段落中の「質問者」とは、挙手して意味不明なことを述べたどこかの地方私大教員(姓名不詳)のこと。第2段落中の「英文学教授」とは、SK(b.1935)D大名誉教授のことであり、「我が国では重鎮とされている或る邦人教授」とはYD(b.1929)W大名誉教授のこと。