27「イギリス文化論」(2022/ 1/18) アイルランド問題キーワード集

https://news.yahoo.co.jp/articles/42d3a793c39f851fe2766c40fc58a5d888b8b773/comments

北アイルランド 英当局と「癒着」の殺害事件、公的調査を行わないと政府決定 遺族は「侮辱」と表明

ヤフーニュース個人

在英ジャーナリスト 小林恭子(こばやし ぎんこ, b.1958)署名コラム

2020年12月3日(木)

https://news.yahoo.co.jp/byline/kobayashiginko/20201203-00210672/

小見出し1: 日曜日の夕食時、侵入者が襲ってきた

小見出し2: 背景にある北アイルランド紛争

小見出し3: どんな弁護士だったのか

小見出し4: 殺害の実行犯は誰だったのか

小見出し5: 国とプロテスタント過激派との癒着への疑惑

小見出し6: 最高裁の判断は

小見出し7: 2つの調査の実効性は?

小見出し8: 複数の北アイルランドの政党が公的調査を支持

貧しかったアイルランドはこうして富める国になった

【連載】ビジネスに効く! 世界史最前線(第59回)

JB Press

玉木俊明(たまき としあき, b.1964)京都産業大学経済学部教授署名コラム

2020年12月12日(土)

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63245

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63245?page=2

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63245?page=3

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63245?page=4

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63245?page=5

https://news.yahoo.co.jp/articles/0027352b47a6ec528d5a88536c883172dcd047f9

https://news.yahoo.co.jp/articles/0027352b47a6ec528d5a88536c883172dcd047f9?page=2

https://news.yahoo.co.jp/articles/0027352b47a6ec528d5a88536c883172dcd047f9?page=3

https://news.yahoo.co.jp/articles/0027352b47a6ec528d5a88536c883172dcd047f9?page=4

https://news.yahoo.co.jp/articles/0027352b47a6ec528d5a88536c883172dcd047f9/comments

小見出し1: 100万人以上が命を落とす大飢饉を経験

小見出し2: 第二次大戦後も絶えない人口流出

小見出し3: アイルランド経済、急変貌

小見出し4: ダブル・アイリッシュ・ダッチ・サンドイッチ

小見出し5: 変貌迫られるタックスヘイブン

【イギリスの新聞に載った最新の遺伝子研究】

DNA map of Ireland reveals the Irish have Viking and Norman ancestry and are far more genetically diverse than previously thought

(アイルランド島のDNAマップが、

アイルランド人はヴァイキングとノルマン人の先祖を持ち、以前考えられていたよりも遥かに遺伝的多様性があることを示す)

・ It reveals lasting contributions from British, Scandinavian and French invasions

(それ=そのDNAマップはブリテン島とスカンディナビア半島とフランスからの侵略を示している)

・ Researchers compared genetic data from 1,000 Irish and 2,000 British people

(研究者たちはアイルランド人一千人と英国人二千人の遺伝データを比較した)

・ They found 50 distinct genetic clusters, separated by geographical boundaries

(彼ら=研究者たちは地理的境界で分かれた50種の性質の異なる遺伝子群を発見した)

・ These are most distinct in western Ireland, but less pronounced in the east

(これらの遺伝子群はアイルランド島西部で最も顕著であり、東部でははっきりしない)

・ The findings are significant because they could be used in future studies to identify the underlying genetics of various diseases in specific regions

(今回の発見は、或る地域に於ける様々な疾病の根底に潜む遺伝子を特定する将来の研究で使われうるため有意義である)

日刊メイル紙(Daily Mail)

セシル・ボーカタリア(Cecile Borkhataria)記者署名記事

2018年1月25日(木) 19:09 GMT 掲載

2018年1月26日(金) 13:18 GMT 更新

http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-5312697/DNA-map-Britain-Ireland-reveals-Viking-genes.html

http://i.dailymail.co.uk/i/pix/2018/01/26/10/4899160800000578-5312697-image-a-9_1516961455229.jpg

http://i.dailymail.co.uk/i/pix/2018/01/25/18/4893A13500000578-5312697-Researchers_have_found_23_distinct_Irish_genetic_clusters_in_Ire-a-9_1516903595271.jpg

http://video.dailymail.co.uk/video/1418450360/2014/03/1418450360_3295653420001_Vikings.mp4

研究者たちがブリテン島とアイルランド島の住民の遺伝子を調査し、類似したグループに分けた。南部イングランドはアングロ・サクソン人(ゲルマン系のアングル人、サクソン人、ジュート人の総称)が侵略して入植した土地なので非常にはっきりとアングロ・サクソン人の遺伝子が確認できる。他方、イングランド北東部のデーンロー(Dalelaw)地帯はデーン人(ゲルマン系のヴァイキング)が侵略して入植した土地なので非常にはっきりとデーン人(ヴァイキング)の遺伝子が確認できる。古代ブリトン人(ケルト系の先住民)の文化や言語が長く残ったウェールズやコーンウォールやスコットランドはケルト系の遺伝子が強いが、一方で遺伝子の中間地帯も大きく、婚姻(雑婚)を含む人的交流や移動もあったことが見て取れる。

英愛関係史年表

五世紀(401-500年) ウェールズ生まれの聖パトリック(Saint Patrick, 387?-461)、羅典(ラテン)語名パトリキウス(Patricius, 387?-461)がアイルランド島でキリスト教を布教。

1166-72年 イングランド王ヘンリー二世(Henry II, 1133-89; 在位1154-89)がアイルランド島に侵攻。(詳細は次項へ)

1494年 イングランド王ヘンリー七世(Henry VII, 1457-1509; 在位1485-1509)がアイルアンド人のアイルランド総督を罷免(ひめん)し、新たにイングランド人のアイルランド総督を派遣。土着のケルト文化を否定し、アイルランド全島をイングランド化(anglicise)しようとする。

1536年 イングランド王ヘンリー八世(Henry VIII, 1491-1547; 在位1509-47)がアイルランド王の称号を得てアイルランド島を統治。二年前の1534年国王至上法(Act of Supremacy 1534)によりカトリックを捨ててプロテスタント派の国教をつくり、自らが教皇(ローマ法王)に代わり宗教界のトップに君臨していたため、アイルランドにも宗教改革を強要する。カトリック信仰の強固なアイルランド人やイングランドから渡って来たアングロ・ノルマンの領主たちはヘンリー八世に反撥。

1594年4月~1603年3月31日 第2代ティロン伯ヒュー・オニール(Hugh O’Neill, 2nd Earl of Tyrone, c.1565-1616)率いるアイルランド人領主連合(Confederation of Irish Lords)がカトリック国のスペイン王国を味方につけた上でアイルランド九年戦争(Nine Years’ War in Ireland)を起こし、イングランド女王エリザベス一世(Elizabeth I, 1533-1603; 在位1558-1603)の軍勢に抗して戦うも負け戦となる。

1603年以降、イングランド女王エリザベス一世(Elizabeth I, 1533-1603; 在位1558-1603)が世継ぎなく1603年3月24日に世を去り、チューダー朝(House of Tudor)がお家断絶。親戚であるスチュアート朝(House of Stuart)のスコットランド国王ジェイムズ六世(James VI of Scotland, 1566-1625; 在位1567-1625)が、ロンドンのイングランド議会の招きでイングランド国王ジェイムズ一世(James I of England, 1566-1625; 在位1603-25)を兼務する。この新国王との和平交渉に、上記の第2代ティロン伯ヒュー・オニール(Hugh O’Neill, 2nd Earl of Tyrone, c.1565-1616)がロンドンへ赴(おもむ)くも欧州大陸へ逃走し、カトリックの総本山ローマに亡命する。叛乱が収まった後、ジェイムズ一世はアルスター地方(今日の北アイルランドと一部の隣接地)にイングランド教会やスコットランド教会(長老派教会)の信徒を次々と入殖させ、地主にする。アルスター地方に居たカトリック信徒は追放されるか、小作農に身を落とす。

1641-53年 アイルランド同盟戦争(Irish Confederate Wars)=別名 アイルランド十一年戦争(Eleven Years’ War in Ireland)と呼ばれる叛乱で数千人のプロテスタント入殖者が虐殺される。

1649年 オリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599-1658; 護国卿在任1653-58)がアイルランド島を制圧。(詳細は下記の次々項へ)

1691年 イングランド王ウィリアム三世(William III, 1650-1702; 在位1689-1702)がアイルランド島全土を殖民地化。(詳細は下記の次々項へ)

1707年5月1日 イングランド(ウェールズを含む)王国とスコットランド王国が統合されグレートブリテン王国が成立(1800年12月31日まで)。

1798年5月24日(木)~9月24日(月) 連合アイルランド人の会(Society of United Irishmen)が武装蜂起するも四ヶ月でグレートブリテン王国によって鎮圧される。

1801年1月1日(木) グレートブリテン王国がアイルランド島全土を併合し、グレートブリテン及びアイルランド連合王国(UK: United Kingdom of Great Britain and Ireland)が成立。ダブリン(Dublin)のアイルランド議会(Irish Parliament)は解散させられ、アイルランドのプロテスタント系議員はロンドンの英国議会(UK Parliament)に議席を持つことになるが、カトリック系議員は議席を失う。

1803年7月23日(土) 英領アイルランドでの武装蜂起(Irish Rebellion of 1803)が鎮圧される。首謀者のエメット(Robert Emmet, 1778–1803)は捉えられ、同年9月19日(月)に大逆罪(high treason)で有罪判決を受け、同年9月20日(火)に公開処刑される。当局は絞首刑の後に胴体から頭部を切り落としたという。満25歳だった。

1829年4月13日(月) アイルランド人下院議員オコンネル(Daniel O’Connell, 1775-1847)の尽力によって可決された1829年カトリック信徒解放法(Roman Catholic Relief Act 1829)に勅裁(Royal Assent)が下りて成立。

1830年代 アイルランド人の小作化が進む。

1845-52年 英国統治下のアイルランドでジャガイモ飢饉(ききん)が発生。英国政府の無為無策によって百万人を超える餓死者と百万人を超える移民を出す。移民たちは着のみ着の儘(まま)で英本土ブリテン島や北米大陸や遠く豪州へと移り住むことになる。

1848年7月29日(土) 青年アイルランド党(Young Irelander)による武装蜂起が鎮圧される。

1864年8月8日(月)~23日(火) 英領アイルランドの都ダブリン(Dublin)の中心地でアイルランド人下院議員、故オコンネル(Daniel O’Connell, 1775-1847)の銅像の除幕式があり、それを見物しに北アイルランドのベルファスト(Belfast)からカトリック信徒たちがダブリンを訪れた。ところがベルファストに帰ると、オレンジ男たち(Orangemen)を名乗る約5,000人のプロテスタント系過激派が鉄道駅で待ち構えていて、カトリック信徒への暴力を開始した。地元の警察は見て見ぬふりをしたが、一部のカトリック信徒が反撃すると、それには銃撃で応じた。犠牲者の数は不明。

1867年3月5日(火) アイルランド共和兄弟会(IRB: Irish Republican Brotherhood)によるフィーニアン蜂起(Fenian Rising of 1867)が鎮圧される。

1870年8月1日(月) 自由党(Liberal Party)のグラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809-98; 首相在任1868-74, 1880-85, 1886 & 1892-94)内閣がアイルランド人の小作権を保障するべく議会で通した1870年地主・小作人(アイルランド)法(Landlord and Tenant (Ireland) Act 1870)、通称 第一次アイルランド土地法(First Irish Land Act)に勅裁(Royal Assent)が下りて成立。

1880年8月~12月1日(水) ボイコット事件。英領アイルランドの領地管理人(land agent)で英国陸軍(British Army)に所属するボイコット大尉(Captain Charles Boycott, 1832-97)を排撃する運動(ボイコット事件)が起きる。主導したのはアイルランド国民土地連盟(Irish National Land League)で、小作料の引き下げを要求し、立ち退きに反対しボイコット大尉の使用人たちに労働を拒否するよう説く。拒否運動は近在の商店にも及び、ボイコット大尉は店で買い物もできなくなる。なお、現代英語の動詞 boycott (ボイコット: 「不買運動する」「抗議して参加を拒否する」「ボイコットする」の意)は、このボイコット大尉に由来する。同年12月1日(水)にボイコット大尉はアイルランドを去る。

1881年8月22日(水) アイルランド人下院議員でアイルランド国民土地連盟(Irish National Land League)会長のパーネル(Charles Stewart Parnell, 1846-91)が尽力し、自由党(Liberal Party)のグラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809-98; 首相在任1868-74, 1880-85, 1886 & 1892-94)内閣がアイルランド人の土地購入権を認めるべく議会で通した1881年土地法規(アイルランド)法(Land Law (Ireland) Act 1881)、通称 第二次アイルランド土地法(Second Irish Land Act)に勅裁(Royal Assent)が下りて成立。

1885年8月14日(金) 保守党(Conservative Party)のソールズベリー(Robert Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury, 1830-1903; 首相在任1885-86, 1886-92 & 1895-1902)内閣が上記のパーネル(Charles Stewart Parnell, 1846-91)の気を引いて議会で多数派を形成すべく、1885年土地購入(アイルランド)法(Purchase of Land (Ireland) Act 1885)、通称 アッシュボーン法案(Ashbourne Act)を議会で可決したことを受け、これに勅裁(Royal Assent)が下りて成立。この法律が成立したことで、アイルランドの小作人が英国から年利4.0%という低金利で借金して土地を獲得することが可能になる。

1886年4月8(木)~6月8日(火) 自由党(Liberal Party)のグラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809-98; 首相在任1868-74, 1880-85, 1886 & 1892-94)内閣が1886年アイルランド政府法案(Government of Ireland Bill 1886)、通称 第一次自治法案(First Home Rule Bill)を議会で通そうとするも反対多数で否決される。

1889年末~’90年初 上記の1881年土地法規(アイルランド)法(Land Law (Ireland) Act 1881)、通称 第二次アイルランド土地法(Second Irish Land Act)の成立に当たって活躍したパーネル(Charles Stewart Parnell, 1846-91)が不倫関係を暴露されて失脚。パーネルは翌’91年に満45歳の若さで病歿。

1893年4月21日(金)~9月1日(金) 自由党(Liberal Party)のグラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809-98; 首相在任1868-74, 1880-85, 1886 & 1892-94)内閣が1893年アイルランド政府法案(Government of Ireland Bill 1893)、通称 第二次自治法案(Second Home Rule Bill)を通そうし、下院(庶民院)では賛成多数で可決するも上院(貴族院)で否決され失敗に終わる。

1914年8月4日(火)~’18年11月11日(月) 第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)の勃発で、20万人を超えるアイルランド人が英軍、或(ある)いは1917年4月6日(金)以降は米軍に入隊し、敵の独墺土軍などと戦う。

1914年9月18日(金) 自由党(Liberal Party)のアスキス(Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith, 1852-1928; 首相在任1908-16)内閣が二年半前の1912年4月11日(木)に議会に提出していた1914年アイルランド政府法案(Government of Ireland Act 1914)、通称 第三次自治法案(Third Home Rule Act)が議会で可決されたことを受けて、これに勅裁(Royal Assent)が下りて成立。しかしながら一ヶ月半前に勃発していた第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)のため延期され、その儘(まま)執行されずに新たな法律が成立することとなる。

1916年4月24日(月)~同29日(土) 英領アイルランドの都ダブリン(Dublin)市にて十一年前の1905年に組織されたシンフェイン党(Sinn Féin: アイルランド・ゲール語で「我ら自身」の意)の率いるアイルランド独立派が英軍に対するイースター蜂起(Easter Rising)を決行。アイルランド共和軍が、第一次世界大戦で忙しい英国のスキを衝いて独立を勝ち取ろうとした武装蜂起だったが、ドイツ帝国(イギリスの敵国)の本格的な協力を得ることに失敗し、僅か一週間で鎮圧されて投降。首謀者の一部が英当局に処刑され、また別の一部首謀者は英国本土の刑務所に収監されて事件は収束。

1919年1月21日(火)~’21年7月11日(月) アイルランド独立戦争(Irish War of Independence, 1919-21)、または英愛戦争(Anglo-Irish War, 1919-21)。第一次世界大戦の戦火が停止されて僅か二ヶ月十日後、アイルランド共和軍がイギリスの支配者に対して独立戦争を起こす。二年半に及ぶ戦闘の後、アイルランド独立の願いは英愛条約を結ぶことで不完全ながらも達成されることになる。

1920年11月21日(日) 英領アイルランドの都ダブリン(Dublin)市で「血の日曜日事件」(Bloody Sunday (1920))。アイルランド独立戦争(Irish War of Independence; Anglo-Irish War, 1919-21)中、クローク・パーク競技場(Croke Park Stadium)にて、イギリスの警察組織である王立アイルランド警察(RIC: Royal Irish Constabulary)が無防備のアイルランド人観客に向けてライフル銃と回転式拳銃をいきなり発砲し、14人の死者と60人以上の負傷者を出す。英国政府も事件を重く見て二件の軍法会議を開き、RICによる発砲は命令なしに、状況の許す限度を超えて行なわれたと結論づけたが、法廷での評定は八十年間 も秘密にされ、西暦2000年になるまで公表されなかった。2007年2月、クローク・パーク競技場でのラグビー・シックス・ネイションズの国際試合、アイルランド対イングランド戦が平穏に行なわれる。イギリス国歌の演奏に当たりアイルランド側から一つのブーイング(boos)もなく、イギリスとアイルランドの歴史的和解の象徴となる。2011年5月18日(水)には、エリザベス女王が和解のためにここを訪れたことが大きなニュースになる。

1920年12月23日(木) 自由党(Liberal Party)の初代ドワイフォー伯ロイド・ジョージ首相(David Lloyd George, 1st Earl Lloyd-George of Dwyfor, 1863-1945; 首相在任1916-22)首相が議会に提出した1920年アイルランド政府法(Government of Ireland Act 1920)、通称 第四次自治法案(Fourth Home Rule Bill)が可決されたことを受け、これに勅裁(Royal Assent)が下りて成立。

1921年12月6日(火) アイルランド独立戦争(Irish War of Independence; Anglo-Irish War, 1919-21)を正式に終結させる英愛条約(Anglo-Irish Treaty)に英国とアイルランドの代表団が調印。但し、条約発効は翌年(1922年)12月5日(火)のこと。

1922年12月6日(水) 前年(1921年)12月6日(火)に調印された英愛条約(Anglo-Irish Treaty)の発効を受けて、カトリック信徒が多数派を占める26州(アイルランド島の大部分)が連合王国から離脱して新国家、アイルランド自由国(Irish Free State)を形成。しかしプロテスタント信徒が辛うじて多数派を占める北部6州は、今日に至るも連合王国(UK)の一部であり続け、北アイルランドとして知られている。

1927年4月12日(火) 四年四ヶ月前の1922年12月5日(火)にアイルランドの大部分が既に連合王国から離脱していた実態を反映させるべく、国号をグレートブリテン及びアイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Ireland)からグレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)へと若干の変更を加える。つまり「北」を表すNorthernという単語が新たに加えられる。

1937年12月29日(水) アイルランド憲法(Constitution of Ireland)の発効を受け、十五年前の1922年12月5日(火)に独立していたアイルランド自由国(Irish Free State)は、遂(つい)に英国王(British monarch)を国家元首(Head of State)として戴(いただ)く立憲君主制(constitutional monarchy)の国家であることをやめ、大統領制(presidency)の共和国(republic)であるエール(Éire)、または英語でアイァランド(Ireland)に成る。

1939年9月3日(日)~’45年8月15日(水) 連合王国(イギリス)とフランスがナチス・ドイツに宣戦布告することで第二次世界大戦(the Second World War; World War II, 1939-45)が勃発するも、当時のエール(アイルランド)は英連邦に留まっていたにも拘(かか)わらず中立を宣言。

1949年4月18日(月) 十年余り前の1938年12月29日(水)に英国王 (British monarch)を国家元首(Head of State)として戴(いただ)く立憲君主制(constitutional monarchy)の国家であることをやめ、大統領制(presidency)の共和国(republic)であるエール(Éire)、または英語でアイァランド(Ireland)に成っていたアイルランド(愛蘭)が、今度は英連邦(Commonwealth of Nations; 通称 Commonwealth or British Commonwealth)を離脱し、完全に独立した共和制国家に成る。

1972年1月30日(日) 北アイルランドのロンドンデリー(Londonderry)市、またはカトリック側の言い方でデリー(Derry)市で「血の日曜日事件」(Bloody Sunday (1972))。アメリカの黒人市民権運動に影響され た非武装・非暴力のデモ隊に対して英国陸軍落下傘連隊が発砲し、13人死亡、14人負傷(負傷者の内の1人も4ヶ月半後に死亡)。

1973年1月1日(月・祝) 連合王国(UK: United Kingdom)がスペインと陸続きの英国海外領土(a British Overseas Territory)ジブラルタル(Gibraltar)と同時に、現在の欧州連合(EU: European Union)の前身である欧州共同体(EC: European Communities)に加盟。デンマーク王国(及びデンマーク王国海外郡グリーンランド)とアイルランド共和国も同時に加盟。グリーンランドは1979年にデンマーク王国海外郡からデンマーク王国自治領に昇格し、加盟から約十二年後の1985年2月1日(金)に当時のEC(現EU)から脱退することになる。

1998年4月10日(金) 聖金曜日のベルファスト合意(Good Friday Agreement (GFA), or Belfast Agreement)。この合意を受けてアイルランド共和国政府は国民投票を行ない、北アイルランド6州(英国領)の領有権を放棄。テロ組織の武装解除も徐々に進み、1968年から続いた三十年にも及ぶアイルランド紛争(Irish Trouble, 1968-98)は、ほぼ終息。

2011年5月17日(火)~20日(金) 英女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)によるアイルランド共和国公式訪問が実現。英国国家元首(UK Head of State)による百年ぶりのアイルランド訪問。前回は1911年、現女王の祖父ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)によるものであり、当時アイルランドは連合王国(UK: United Kingdom)の一部だった。したがって独立したアイルランド共和国を英国の元首が訪れるは歴史上初のこと。訪問二日目(2011年5月18日(水))、約九十年前の1920年11月21日(日)に英軍が「血の日曜日事件」(Bloody Sunday (1920))を起こした現場、クローク・パーク競技場(Croke Park Stadium)を訪れて英愛両国の和解を演出し、同日夜には共和国大統領マッカリーズ(Mary McAleese, b.1951; 大統領在任1997-2011)女史による歓迎晩餐会の席で、英女王が冒頭だけながらアイルランド・ゲール語で「大統領とご友人の皆さん」とスピーチを始め( https://www.youtube.com/watch?v=xgLAHYMLs6s )、 周囲は驚きと感動に包まれる。大統領は全く予期しなかった展開に呆気(あっけ)に取られるも、それはすぐに心からの讃嘆と大きな拍手となる。この一件でアイルランド側の張り詰めていた緊張状態が解け、英女王による訪問が大成功に終わることを関係者全員に予感させる。英愛関係の改善(歴史的わだかまりの解消)を内外に印象づけ、訪問は成功裡に終わる。

2020年1月31日(金) 23:00 連合王国(UK: United Kingdom)が欧州連合(EU: European Union)から離脱。EUの事実上の首都ブリュッセルの時刻(中欧時間)では一時間早いため、2020年1月が終わると共にブレグジット(Brexit: 「英国の離脱」)が遂に実現。アイルランド島にEU加盟国であるアイルランド共和国と、非加盟国の英領北アイルランドが存在するため、同島にはEUの境界線が新たに引かれてしまう。但し、この時点では完全な離脱ではなく、2020年12月31日(木)までの十一ヶ月間の移行期間に入ったことになる。

浜島書店[編] 『ニューステージ世界史詳覧』(浜島書店, 1998年)を基本資料として依拠した上で大幅に加筆修正

【参考】

世界史の窓 アイルランド問題

https://www.y-history.net/appendix/wh1202-047.html

世界史の窓 北アイルランド紛争

https://www.y-history.net/appendix/wh1701-044.html

十二世紀(1101-1200年)にまで遡(さかのぼ)る火種

歴史上唯一のイングランド出身のローマ教皇ハドリアーヌス四世(羅 Hadrianus IV; 英 Adrian IV, c.1100-59; 教皇在位1154-59)が、プランタジネット朝の開祖であるイングランド王(フランスのアンジュー伯も兼務)ヘンリー二世(Henry II, 1133-89; 在位1154-89)にアイルランド征服を承認する教皇勅書(Bulla apostolica)を送ったのが1155年のこと。勅書はカトリックの制度に基づいて教会の統治と改革を進め、アイルランド全島の教化を図(はか)るよう促(うなが)す内容だった。教皇の承認を得たヘンリー二世だったが、ただちに行動を起こしたわけではなかった。

アイルランド島で在地領主たちの間の抗争が続く中、1166年にアイルランド島東部のレンスター(Leinster)王の地位を追われたダーモット・マクモロ(Diarmait Mac Murchada or Dermot MacMurrough, c.1100-71; レンスター王在位1126-66 & 1169-71)がヘンリー二世に軍事援助を求め、ヘンリー二世はイングランド王国内での募兵を許可した。ダーモット・マクモロは南ウェールズでストロングボウ(Strongbow: 直訳「強弓」)の異名(いみょう)をもつ第二代ペンブルック伯リチャード・ド・クレア(Richard de Clare, 2nd Earl of Pembroke, 1130-76)と同盟関係を結んだ。ストロングボウはアイルランド侵攻に乗り出し、盟友ダーモット・マクモロの失地を回復してやり、ダーモット・マクモ ロの娘と結婚し、1171年に老王ダーモット・マクモロの死を受けてレンスターの地を継承した。

こうしてイングランド、ウェールズ、フランスの領地に加えてアイルランドにも勢力を拡げたストロングボウのことをイングランド王ヘンリー二世は大いに警戒するに至った。危機感を強めたヘンリーは南 ウェールズでストロングボウと会見した。この場でストロングボウは一切反抗することなく、ヘンリーへの忠誠をあっさり誓って、アイルランドで得た領地をヘ ンリー二世に献じ、その上でヘンリーは改めてこれを封土(fief)としてストロングボウに与えた。この後でヘンリー二世はアイルランド島に渡り、この島 に実際に上陸した最初のイングランド王となった。これに対してアイルランド各地の領主たちはヘンリー二世への忠誠・臣従(しんじゅう)を誓った。1172 年のことで、これがイングランド王ヘンリー二世による「アイルランド征服」とされているが、当時は中世の封建社会だったので、上の身分の者には簡単に屈する習わしがあり、外国から来た王への抵抗感はなかった。

しかしヘンリー二世はまだアイルランドの盟主を名乗っておらず、羅典(ラテン)語で Dominus Hiberniae (ドミヌス・ヒベるニアェ)=「アイルランドの盟主」の肩書を持つようになるのはヘンリー二世の五男に当たるジョン王(King John, 1166-1216; 在位1199-1216)からである。

十六世紀(1501-1600年)と十七世紀(1601-1700年)のイングランドによるアイルランド侵略

エリザベス一世(Elizabeth I, 1533-1603; 在位1558-1603)や、1649年にピューリタン革命の一環として王制を倒したクロムウェル(Oliver Cromwell, 1599-58; 護国卿在任1653-58)の下(もと)で、イングランド王国による本格的なアイルランド侵攻があり、現地カトリック信徒の虐殺が行なわれた。

特に後者(クロムウェル)による1647-51年の侵略によってアイルランド島は実質的にイングランドの殖民地になった。アイルランド島南部のカッシェル(Cashel)の町をイングラ ンド議会派軍が攻め落とし、約600人の兵士と数百人の民間人を虐殺(1647年)。同島東部のドロヘダまたはドロイーダ(Drogheda)の町をクロムウェル軍が攻め落とし、敗軍(イングランド王党派)の兵士、捕虜、アイルランドの民間人を合わせて3,000人近くを虐殺(1649)。クロムウェルは庶民院(衆議院=下院)議長への書簡の中で、「私はこれ(=ドロヘダの虐殺)が、夥(おびただ)しい血で手を汚してきたこれら野蛮なクズどもに対する神の正義の判断であると確信する者であります。[後略]」(I am persuaded that this is a righteous judgement of God on these barbarous wretches, who have imbrued their hands with so much innocent blood; [後略])と書いて、自分たちの残虐行為を神(一神教の絶対者)の名に於(お)いて正当化した。

その一ヶ月後には同島南東部の ウェクスフオッド(Wexford)の町をクロムウェル軍が攻め落とし、敗軍(アイルランド・カトリック同盟軍とイングランド王党派)の兵士と捕虜を合わせた約2,000人と民間人約1,500人を虐殺し、町に火を放って破壊した(1649年)。

十七世紀にイングランド人やスコットランド人のプロテスタント信徒が大挙してアイルランド北部に入殖し、カトリック信徒から土地を奪った。そのためアイルランドの大地主はプロテスタント信徒という法則ができた。反対にカトリック系住民は小作農民にとどまった。

イングランド王国では1688年の無血革命(世に言う「名誉革命」)で最後のカトリック信徒の国王ジェイムズ二世(James II, 1633-1701; 在位1685-88)が議会によって退位させられた。代わりにイングランド議会はオランダ人のプロテスタント信徒オレンジ公ヴィレムをウィリアム三世 (William III, 1650-1702; 在位1689-1702)として、そしてそのイングランド人の后のメアリーを女王メアリー二世(Mary II, 1662-94; 在位1689-94)として共同で統治することを要請した。こうして1689-94年は英国史上最初で最後の二頭体制(同時に2人の国家元首が共同で統治)になった。

元国王ジェイムズ二世に忠実なカトリック信徒と、新国王ウィリアム三世に忠実なプロテスタント信徒との間で、アイルランドを舞台にして戦闘が起こった。1689年にジェイムズ二世(元国王)を擁立するカトリック軍勢がロンドンデリー(頭に「ロンドン」の付くこの名を嫌うカトリック 信徒が単に「デリー」と呼んでいる北アイルランドの都市)を攻撃したが、手中に収めるのは失敗した。十五週間にも及ぶ籠城の末にプロテスタントのウィリアム三世(新国王)軍が駆けつけて町を解放したのが、同年8月12日のことだった。翌’90年7月12日にはカトリック信徒はボイン川の戦い(Battle of the Boyne)でプロテスタント信徒に対して最終的に敗北した。こうして十七世紀末から十八世紀のアイルランドではプロテスタント優位とカトリック差別の政治が行なわれた。

北アイルランドのプロテスタント信徒「オレンジマンたち(Orangemen)」は三百年以上経過した今でも、戦勝の記念に毎年夏(7月12日と8月12日)に凱旋行進する。記念行進は戦いの翌年からすぐに始まったわけではなく、合戦から百年ほど経過した十八世紀末のオレンジ団(Orange Order or Orange Institution)の結成に端を発していると考えられる。これに対してカトリック信徒たちは行進を忌み嫌って大抵は家に籠るが、それに耐えられなくなった一部の者が反撃に出るため、毎年暴力沙汰などのトラブルが絶えない。

(参考)外部サイトhttps://ja.wikipedia.org/wiki/クロムウェルのアイルランド侵略

Acts of Union 1707

1707年連合法

https://en.wikipedia.org/wiki/Acts_of_Union_1707

https://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Great_Britain

この法律によってイングランド(ウェールズを含む)とスコットランドが統合されグレートブリテン王国が成立(1707年5月1日から1800年12月31日まで)。

Acts of Union 1800

1800年連合法

https://en.wikipedia.org/wiki/Acts_of_Union_1800

https://en.wikipedia.org/wiki/United_Kingdom_of_Great_Britain_and_Ireland

この法律によって1801年1月1日(木)にグレートブリテン王国がアイルランド島全土を併合し、グレートブリテン及びアイルランド連合王国(UK: United Kingdom of Great Britain and Ireland)が成立した。ダブリン(Dublin)のアイルランド議会(Irish Parliament)は解散させられ、アイルランドのプロテスタント系議員はロンドンの英国議会(UK Parliament)に議席を持つことになるが、カトリック系議員は議席を失った。

その百十八年後の1919年1月21日(火)から1921年7月11日(月)にかけてアイルランド独立戦争 (Irish War of Independence, 1919-21)、または英愛戦争(Anglo-Irish War, 1919-21)が勃発(ぼっぱつ)し、アイルランド共和軍がイギリスの支配者に対して二年半に亘(わた)る戦いを挑(いど)んだ。アイルランド独立の願いは英愛条約(Anglo-Irish Treaty)を1921年12月6日(火)に結ぶことで不完全ながらも達成され、1922年12月5日(火)にカトリック信徒が多数派を占める26州(アイルランド島の大部分)が連合王国から離脱して新国家、アイルランド自由国(Irish Free State)を形成した。1927年4月12日(火)には四年四ヶ月前にアイルランドの大部分が既に連合王国から離脱していた実態を反映させるべく、イギリスは国号をグレートブリテン及びアイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Ireland)からグレートブリテン及びアイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)へと若干の変更を加えた。1938年12月29日(水)にはアイルランド憲法(Constitution of Ireland)の発効を受け、アイルランド自由国(Irish Free State)は、遂(つい)に英国王(British monarch)を国家元首(Head of State)として戴(いただ)く立憲君主制(constitutional monarchy)の国家であることをやめ、大統領制(presidency)の共和国(republic)であるエール(Éire)、または英語でアイァラ ンド(Ireland)に成った。そして1949年4月18日(月)にアイルランドは英連邦(British Commonwealth)を離脱し、完全に独立した共和制国家に成った。このように段階的にイギリスから離れて行ったアイルランドだが、アイルランド人は「1948年12月31日の時点でアイルランド共和国の市民であり、英国王の臣民(しんみん)=英国籍者であり続ける権利を主張した場合には英国王の臣民である。」(You’re a British subject if you were a citizen of the Republic of Ireland on 31 December 1948 and made a claim to remain a British subject.)という規定が適用される。しかしその子や子孫には適用されない。国籍の権利の世襲制の否定である。このような理由でアイルランド人の一部も連合王国(イギリス)の選挙や国民投票に参加できる。詳しくは英国政府公式ウェブサイト( https://www.gov.uk/types-of-british-nationality/british-subject )とアイルランド共和国外務省公式ウェブサイト( https://www.dfa.ie/irelanduk-citizenshipandpassports/ )が説明している。

Great Irish Famine

Irish Potato Famine 1845-52

1845-52年 アイルランド・ジャガイモ飢饉(ききん)

https://en.wikipedia.org/wiki/Great_Irish_Famine

https://www.independent.co.uk/news/blair-issues-apology-for-irish-potato-famine-1253790.html

英国政府の無為無策によって、英支配下のアイルランドでは百万人の餓死者と百万人の移民を出した。それから一世紀半が経過した1997年5月31日(土)から6月1日(日)にかけてアイルランド共和国南西部のミルストリート(Millstreet)町で開かれた「大飢饉イベント(Great Famine Event)」の場で、当時英首相になったばかりのブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007)氏の手紙がアイルランド人俳優によって朗読された。その文面は、「飢饉はアイルランドと英国の歴史の中で決定的な出来事でし た。それは深い傷跡を残しました。百万人もの人々が当時世界一裕福で世界最強だった国の一地方で死なねばならなかったことは、今日(こんにち)それを省 (かえり)みるにつけ今でも苦痛を齎(もたら)します。当時ロンドンに在()って国を統治していた者たちは人民の期待に背(そむ)いたのです。(The famine was a defining event in the history of Ireland and Britain. It has left deep scars. That one million people should have died in what was then part of the richest and most powerful nation in the world is something that still causes pain as we reflect on it today. Those who governed in London at the time failed their people.)」という実質的な謝罪だった。

Legacy of the Great Irish Famine

アイルランド・ジャガイモ飢饉の影響

https://en.wikipedia.org/wiki/Irish_potato_famine_(legacy)

Easter Rising

1916年4月24日(月)から同29日(土)のイースター蜂起

https://en.wikipedia.org/wiki/Easter_Rising

英国からの離脱派(nationalists)であるアイルランド共和軍(IRA: Irish Republican Army)が、第一次世界大戦で忙しい英国のスキを衝いて独立を勝ち取ろうとした武装蜂起だったが、ドイツ帝国(イギリスの敵国)の本格的な協力を得ることに失敗し、僅か一週間で鎮圧されて投降した。首謀者の一部が英当局に処刑され、また別の一部首謀者は英国本土の刑務所に収監されて事件は収束。

Irish War of Independence

Anglo-Irish War

1919年1月から1921年7月のアイルランド独立戦争、または英愛戦争

https://en.wikipedia.org/wiki/Irish_War_of_Independence

第一次世界大戦の戦火が停止されて僅か二ヶ月十日後、アイルランド共和軍(IRA: Irish Republican Army)がイギリスの支配者に対して独立戦争を起こした。二年半に及ぶ戦闘の後、アイルランド独立の願いは英愛条約を結ぶことで不完全ながらも達成された。

Bloody Sunday 1920

1920年11月21日(日)、血の日曜日事件

https://en.wikipedia.org/wiki/Bloody_Sunday_(1920)

アイルランド独立戦争中、英領アイルランドの都ダブリン(Dublin)市内のクローク・パーク競技場(Croke Park Stadium)にて、イギリスの警察組織である王立アイルランド警察(RIC: Royal Irish Constabulary)が無防備のアイルランド人観客に向けてライフル銃と回転式拳銃をいきなり発砲し、14人の死者と60人以上の負傷者を出す。英国政府も事件を重く見て二件の軍法会議を開き、RICによる発砲は命令なしに、状況の許す限度を超えて行なわれたと結論づけたが、法廷での評定は八十年間も秘密にされ、西暦2000年になるまで公表されなかった。

2007年2月、クローク・パーク競技場でのラグビー・シックス・ネイションズの国際試合、アイルランド対イングランド戦が平穏に行なわれる。イギリス国歌の演奏に当たりアイルランド側から一つのブーイング(boos)もなく、イギリスとアイルランドの歴史的和解の象徴となった。2011年5月18日(水)には、英女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)が和解のためにここを訪れたことが大きなニュースになる。

Irish Republican Army (IRA)

英国からの離脱派(nationalists)の武装闘争組織「アイルランド共和軍」

1919年1月から1922年3月

https://en.wikipedia.org/wiki/Irish_Republican_Army

Anglo-Irish Treaty

英愛条約

https://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Irish_Treaty

1921年12月6日(火)調印、翌’22年12月5日(火)発効。この条約の発効を受けて、カトリック信徒が多数派を占める26州が独立した新しい国、アイルランド自由国(Irish Free State)を形成した。しかしプロテスタント信徒が辛うじて多数派を占める北部6州は、今日に至るも連合王国(UK)の一部であり続け、北アイルランドとして知られている。この条約発効から四年四ヶ月後の1927年4月12日(火)に英国は自国の正式名称を1801年元日以来続いていた「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」(United Kingdom of Great Britain and Ireland)から「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)へと若干の修正を余儀なくされた。つまり「北」を表すNorthernという単語が新たに加えられた。南北に分断されたアイルランド島の 英国統治下の「北」では、プロテスタント系住民とカトリック系住民が憎しみ反目しあう生活が続き、それが紛争の火種となった。

動画で説明(英語のみ)

Why Ireland split into the Republic of Ireland & Northern Ireland

(なぜアイルランド島は、アイルランド共和国と北アイルランドに分かれたのか)

https://www.youtube.com/watch?v=dCJMQgfHXNI

Irish Civil War

1922年6月から1923年5月のアイルランド内乱

https://en.wikipedia.org/wiki/Irish_Civil_War

上記の英愛条約をめぐってアイルランド共和軍内部で条約容認派(穏健派)と反対派(強硬派)で対立し、十一ヶ月弱に及ぶ内乱(同国人同士の殺し合い)にまで発展した。最終的には条約容認派が勝利した。

Ulster Volunteer Force (UVF)

プロテスタント信徒・王制主義者・忠誠派・英国との統合持続派(loyalists; unionists)側のテロ組織「アルスター志願軍」「アルスター義勇軍」

活動時期1966~2007年

https://en.wikipedia.org/wiki/Ulster_Volunteer_Force

プロテスタント系住民は、北アイルランドのことを好んでアルスター(Ulster)と呼び習わしている。

Provisional Irish Republican Army (Provisional IRA)

カトリック信徒・共和主義者(Irish nationalist; Republican)側のテロ組織「IRA暫定派」

活動時期1969年12月~1997年

https://en.wikipedia.org/wiki/Provisional_Irish_Republican_Army

かつて独立戦争で勝利を手にしたアイルランド共和軍の名を騙(かた)る、英国からの離脱派(nationalists)のテロ集団。子供を含む一般市民を多数巻き込む爆弾テロを展開した。

Sinn Féin

シン・フェイン(アイルランド・ゲール語で「我ら自身」または「我ら自身のみ」の意)党

http://en.wikipedia.org/wiki/Sinn_Féin

https://ja.wikipedia.org/wiki/シン・フェイン党

1905年にアーサー・グリフィス(Arthur Griffith, 1871-1922)らに結成された組織で、アイルランド紛争(The Troubles or Irish Troubles, 1968-98)中は、上記のカトリック系テロ組織であるIRA暫定派(Provisional IRA)の政治部門として機能した。現在ではアイルランド共和国の下院(Dáil Éireann ドイル・エアラン)で160議席中37議席、北アイルランド議会(通称 Stormont トーモント)で90議席中26議席を占める。英国議会下院(the Lower House of Parliament)=庶民院(the House of Commons: 日本で言う「衆議院」)にも7人の当選者を出しているが(2021年1月26日(火)授業後に議席数を修正)、英女王への宣誓を拒否して登院していない。

Irish National Liberation Army (INLA)

カトリック信徒・共和主義者(Irish nationalist; Republican)側のテロ組織「アイルランド国民解放軍」

活動時期1974年12月~1998年(正式には2009年まで)

https://en.wikipedia.org/wiki/Irish_National_Liberation_Army

Bloody Sunday (1972)

血の日曜日事件

https://en.wikipedia.org/wiki/Bloody_Sunday_(1972)

1972年1月30日(日)、北アイルランドのロンドンデリー(Londonderry)市、またはカトリック側の言い方でデリー(Derry)市で、アメリカの黒人市民権運動に影響された非武装・非暴力のデモ隊に対して英国陸軍落下傘連隊が発砲し、13人死亡、14人負傷(負傷者の内の1人も4ヶ月半後に死亡)。

U2, “Sunday Bloody Sunday” (1983)

アイルランドのロックバンドU2によるヒット曲、直訳「日曜日、血の日曜日」、邦題「ブラディ・サンデー」

https://en.wikipedia.org/wiki/Sunday_Bloody_Sunday

https://www.youtube.com/watch?v=Yv5U0A10hrI

https://www.youtube.com/watch?v=EM4vblG6BVQ

The assassination of Lord Mountbatten (Louis Mountbatten, 1st Earl Mountbatten of Burma)

1979年8月27日(月)、マウントバッテン伯爵・元帥暗殺事件

https://en.wikipedia.org/wiki/Louis_Mountbatten

チャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948)の大叔父(父方の祖母の弟)であり、同皇太子のメンター(mentor: 日本の辞書では通常「良き指導者」「恩師」と訳されるが、実際は「魂の師匠であると同時に心の友でもある人物」の意)として知られた初代ビルマ伯ルイ・マウントバッテン卿(Lord Louis Francis Albert Victor Nicholas Mountbatten, 1st Earl Mountbatten of Burma, 1900-79)が、アイルランド共和国北西部のドネゴール湾にて休暇中にヨットで出航直後、IRA暫定派の仕掛けた爆弾テロに遭い、14歳の孫と15歳の船員と、長女の83歳の義母と共に死亡した(但し、長女の義母は翌日死亡)。

なお、元来マウントバッテン家は在英ドイツ人の名門貴族バッテンベルク家(das Haus Battenberg)だったが、第一次世界大戦(1914-18年)中の1917年(マウントバッテン伯が満十七歳の頃)、英国内の反独感情(anti-German sentiments)を意識して、ドイツ語の Berg (ふク)=「山」を英訳して Mount (マウン)=「山」とし、家名をマウントバッテン家(the House of Mountbatten)に改名した。その五年後の1922年=大正十一年には英国皇太子(後の国王エドワード八世、退位後転じてウィンザー公)の随員と して初来日を果たし、行く先々で大歓迎を受け、日本国皇太子裕仁親王(こうたいし ひろひと しんのう; Crown Prince Hirohito of Japan, 1901-89)=後の昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito; the Showa Emperor, 1901-89; 在位1926-89)とも会見した。しかしその二十年後の1942年=昭和十七年には運命のいたずらで、部下のパーシヴァル中将(Lieutenant-General Arthur Percival, 1887-1966)が英領シンガポールで日本軍に屈服して無条件降伏(英国史上最悪の敗北)したことを受けて、英領印度(British India)を拠点にビルマ戦線(1942-45年)で日本軍に対する反転攻勢に出て、最終的に勝利を収めた。マウントバッテン伯は1945年9月には勝者として東南アジア各地に進駐し、日本軍の武装解除と身柄拘束と戦犯裁判に動いた。対日戦勝から四半世紀以上が経過した1971年、昭和天皇の半世紀ぶりの訪英に際してバッキンガム宮殿での女王主催天皇皇后両陛下歓迎晩餐会に招待されながら、マウントバッテン伯は「部下を拷問し虐殺した日本軍の首謀者であるヒロヒト(裕仁)を歓迎することなど私にはできない。」として、その招待を蹴った。マウントバッテン伯はそれまでは傲慢(ごうまん)な人物として英国民の受けは良くなかったが、晩餐会への招待を拒否したことで英国民は拍手喝采し、マウントバッテン人気が急上昇した。実はマウントバッテン伯はマスコミを遮断して秘密裡(ひみつり)には昭和天皇と四十九年ぶりに会見したことが後に判明しているが、殆(ほとん)ど何も言葉を交わさない 冷淡な会見に終始したと伝えられている。それから約八年後の1979年8月27日(月)、マウントバッテン卿はアイルランド共和国北西部のドネゴール湾にて休暇中にヨットで出航直後、IRA暫定派(Provisional IRA)の仕掛けた爆弾テロに遭い、満14歳の孫ニコラス(The Hon. Nicholas Timothy Charles Knatchbull, 1964-79)と15歳の船員と、長女の83歳の義母と共に死亡した(但し、長女の義母 は翌日死亡)。一緒に乗船していたマウントバッテン卿の長女で、チャールズ皇太子の名付け親(Prince Charles’ godmother)であるパトリシア(Patricia Knatchbull, 1924-2017)=後の第二代ビルマのマウントバッテン女伯爵パトリシア(Patricia Knatchbull, 2nd Countess Mountbatten of Burma, 1924-2017)は五男ニコラス(The Hon. Nicholas Timothy Charles Knatchbull, 1964-79)を殺され、自身も重傷を負ったが一命を取りとめ、事件から約三十八年後の2017年6月13日(火)に満93歳で死去するまで「子供との死別UK」(Child Bereavement UK)と「苦しみを共有する友人たち」(Compassionate Friends)という子供を亡くした親のための慈善団体(charities)を支援し続けた。

マウントバッテン卿を含む4人爆殺のテロ実行犯は、死刑を廃止した英国で最高刑である終身刑(life imprisonment)となったが、1998年、聖金曜日のベルファスト合意(Good Friday Agreement: 下記参照)を受けて釈放された。

Harrods bombing

1983年12月17日(土)、ハロッヅ百貨店爆破事件

https://en.wikipedia.org/wiki/Harrods_bombing

IRA暫定派(Provisional IRA)によるロンドンのハロッヅ百貨店(Harrods department store)爆弾テロ事件で6人死亡。

Brighton hotel bombing

1984年10月12日(金)、ブライトン爆破事件

https://en.wikipedia.org/wiki/Brighton_hotel_bombing

IRA暫定派(Provisional IRA)によるサッチャー首相暗殺未遂事件(イングランド南海岸のブライトン市に在るグランド・ホテル爆破事件)で5人死亡・31人負傷。首相は偶然にも難を逃れ、翌日(土曜)に同じホテルで予定通り保守党の年次党大会を行なうことで支持率上昇。

この事件に激怒したサッチャーはこれ以後、シン・フェイン(Sinn Féin: 1905年創設の組織でIRA暫定派の政治部門、上記も参照)のスポークスマンの声明をテレビやラジオで放送するのを禁止しようとしたが、言論の自由(freedom of speech)の原則に抵触(ていしょく)してしまうため、英国的な妥協(だきょう: compromise コンプろマイス)の産物として、シン・フェインのスポークスマンの生の声を放送することを禁止した。そのため英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)をはじめとした報道各社は、専属の声優を雇(やと)い、アイルランド訛りの吹替版を放送することで対処した。

1996 Manchester bombing

マンチェスター商業地区爆破事件

https://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/june/15/newsid_2527000/2527009.stm

https://en.wikipedia.org/wiki/1996_Manchester_bombing

https://www.manchestereveningnews.co.uk/news/greater-manchester-news/manchester-ira-bomb-20-years-11425324

https://www.bbc.com/news/uk-england-manchester-36474535

英国夏時間の1996年6月15日(土) 11:20 BST、アイルランド・カトリック系のテロ組織であるIRA暫定派(Provisional IRA)が、英国で3番目に大きな都市マンチェスター中心街にて路上駐車したヴァン(van)に仕掛けた1,500kgの時限爆弾(a time bomb)でテロ事件を起こし、商業地区を壊滅させた。

英国政府と結んでいた停戦合意を同年(1996年)2月に一方的に破棄していた同テロ組織は、その後4ヶ月の間に6回もの小さな爆弾テロ事件を起こしていたが、今回の7番目の炸裂(さくれつ)は比較にならないほど大規模で、しかも第二次世界大戦(the Second World War; World War II, 1939-45)後としても英国最大規模だった。事件直後の保険会社の見積もりで7億ポンド(£700m = seven hundred million pounds: 当時の為替レートで約1190億円)もの損害が出た。

商業地区で店のショーウィンドー(イギリス英語で shop windows)が多く存在する地区であることから、爆風は半径半マイル(約800メートル)に砕(くだ)け散ったガラスの雨を降らせた。記録的な低温と日照不足という異常気象が続いていたイギリスで突然夏がやって来たのがこの日(1996年6月15日(土))であり、多くの人が週末ということもあって浮かれていて半袖の薄着だったため、腕に多くのガラスの切り傷を負った人が多かった。爆発の90分前に同テロ組織は警察に電話を入れ、いつものアイルランド訛りの暗号のような警告を与えていたため、現地警察はそのメッセージを正しく解読し、少なくとも7万5千人を中心街から避難させていた。しかしながら爆弾の特定には間に合わなかったため、事件そのものを防ぐことはできなかった。幸いにも死者は皆無(ゼロ)だったが、爆発の規模からすれば奇跡のようなものだった。

マンチェスター商業地区では事件後に再開発が進み、イギリスにしては近代的な趣(おもむき)の繁華街に生まれ変わった。

Real IRA (RIRA)

カトリック信徒・共和主義者(Irish nationalist; Republican)側のテロ組織「真のIRA」

活動時期1997年11月~現在(250~300人の実働組織)

https://en.wikipedia.org/wiki/Real_Irish_Republican_Army

IRA暫定派が活動をやめたことに怒りや焦りを覚えた一部元メンバーが組織した。現在英当局が最も危険視する組織。

Good Friday Agreement

1998年4月10日(金)に結ばれた聖金曜日のベルファスト合意

https://en.wikipedia.org/wiki/Good_Friday_Agreement

この合意を受けてアイルランド共和国政府は国民投票を行ない、北アイルランド6州(英国領)の領有権を放棄した。テロ組織の武装解除も徐々に進み、紛争は終わったかのように見えた。

The Troubles

または Irish Troubles

アイルランド紛争または北アイルランド問題(1968-98年)

https://en.wikipedia.org/wiki/The_Troubles

https://ja.wikipedia.org/wiki/北アイルランド問題

三十年に及ぶプロテスタント信徒(英国統治存続派)とカトリック信徒(統一アイルランド推進派)との抗争で約三千人の死者を出したが、上記の合意で収束した。しかし散発的な暴力事件はその後も起きている。

Queen Elizabeth II’s visit to the Republic of Ireland

2011年5月17日(火)から同20日(金)、英女王エリザベス二世によるアイルランド共和国訪問

https://en.wikipedia.org/wiki/Queen_Elizabeth_II%27s_visit_to_the_Republic_of_Ireland

英女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)のアイルランド共和国訪問は、英国の国家元首(Head of State)による百年ぶりのアイルランド訪問ということになる。前回は1911年、現女王の祖父ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)によるものであり、その当時アイルランドは連合王国(UK: United Kingdom)の一部だった。したがって独立したアイルランド共和国を英国の国家元首が訪れるは歴史上初のことだった。訪問二日目、共和国大統領マッカ リーズ(Mary McAleese, b.1951; 大統領在任1997-2011)女史による歓迎晩餐会の席で、英女王が冒頭アイルランド・ゲール語で「大統領とご友人の皆さん」とスピーチを始めたため、 周囲は驚きと感動に包まれた。大統領は全く予期しなかった展開に呆気(あっけ)に取られたが、それはすぐに心からの讃嘆と大きな拍手となった。この一件でアイルランド側の張り詰めていた緊張状態が解け、英女王による訪問が大成功に終わることを関係者全員に予感させた。英愛関係の改善(積年の蟠(わだかま)りの解消)を内外に印象づけ、訪問は成功裡に終わった。

https://www.youtube.com/watch?v=HKz-6vn_i00

https://www.royal.gov.uk/LatestNewsandDiary/Speechesandarticles/2011/TheQueensspeechattheIrishStateDinner18May2011.aspx

2012-2013 Northern Ireland protests

2012年末から2013年初、ベルファスト市庁舎の英国旗掲揚問題

https://en.wikipedia.org/wiki/2012%E2%80%932013_Northern_Ireland_protests

https://www.bbc.co.uk/news/uk-northern-ireland-20940126

https://www.guardian.co.uk/uk/2013/jan/07/loyalist-rioting-belfast-fifth-night (リンク切れ)

https://www.telegraph.co.uk/news/uknews/northernireland/9787258/Ulster-flag-protests-Police-fire-baton-rounds-at-petrol-bomb-throwing-rioters.html

https://www.telegraph.co.uk/news/uknews/northernireland/9787056/Police-in-Northern-Ireland-deploy-plastic-bullets-and-water-cannon-in-fifth-night-of-rioting.html

https://www.afpbb.com/article/war-unrest/2917769/9989144 (日本語版)

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20130106/k10014607451000.html (リンク切れ)

https://news.tbs.co.jp/20130106/newseye/tbs_newseye5224619.html (リンク切れ)

紛争を終わらせるには――アイルランドで学んだこと。

ハフィントンポスト(Huffington Post)日本版

長野智子(ながの ともこ, b.1962)こと、本名 伊藤智子(いとう ともこ, b.1962)編集主幹署名コラム

2014年12月4日(木)

https://www.huffingtonpost.jp/tomoko-nagano/ireland_b_6260952.html

【近頃問題になっているEU離脱と新たなアイルランド問題】

英国「EU離脱危機」が、日本の消費増税を吹き飛ばす可能性

現代ビジネス

長谷川幸洋(はせがわ ゆきひろ, b.1953)安倍晋三内閣規制改革推進会議委員署名記事

2019年1月18日(金)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59467

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59467?page=2

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59467?page=3

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190118-00059467-gendaibiz-bus_all (リンク切れ)

小見出し1: 「合意なき離脱」へ進む英国

(改行・中略)

最大の焦点は、英国の一部である北アイルランドの取り扱いだった。英国とEUはすでに、英国の一部である北アイルランドと独立国であるアイルランドの間に「物理的な国境は作らない」ことで合意している。北アイルランド紛争の再燃を恐れたからだ。

カトリック教徒が中心のアイルランドとプロテスタント系が多い北アイルランド、それに英国は1980年代まで、血を血で洗う武力闘争を繰り広げた。とりわけ、アイルランド共和国軍(IRA)と英国特殊部隊の壮絶な戦いは映画や小説にもなっている。

合わせて3000人もの死者を出した末、英国とアイルランドは1998年、アイルランドのベルファストで合意を結び、ようやく和平に向けて決着した。

さて、現在はアイルランドも英国もEU加盟国なので、アイルランドと北アイルランドは、人やモノが自由に行き来できる。ところが、英国がEUを離脱するなら、双方で関税が発生し、貿易面に限ってみても国境での通関手続きが必要になる。

普通なら国境に検問所と通関施設を設置して、チェックすればいいのだが、話はそう簡単にいかない。北アイルランド(英国の一部)とアイルランドの間に検問所を設けると、双方にかつての対立を思い出させてしまう懸念があるからだ。

両国はカトリックとプロテスタントで宗教が違うので、もともと対立意識が強い。それで、英国もEUも「検問所の設置が紛争を再燃させかねない」と心配した。それが「物理的な国境(すなわち検問所)は作らない」という合意を導いた。

そうは言っても、英国がEUを離脱するなら、英国の一部である北アイルランドとEU加盟国であるアイルランドの国境措置をどうするか、という本質的な問題は残ってしまう。

そこで、メイ首相は「EU離脱後の移行期間が終わる2020年12月までに解決案が見つからなければ、北アイルランドはEU単一市場のルールに従う」という案をまとめた。これを「バックストップ」と呼んでいる。一種の安全策、セーフティネットだ。

もしも期限までに解決案が見つからなかったら、どうなるか。原理的には、EUルールが適用される北アイルランドとEUを離脱する英国本土(グレートブリテン島)の間で異なる関税が適用される形になる。しかも安全策がいったん発動されたら、EUの同意がない限り、解除できない仕組みになっていた。

これに保守派の強硬離脱派などが反対した。そうなったら「英国の一体化」が損なわれてしまう。加えて、英国の一部とはいえ北アイルランドが事実上、EUに残るなら、その抜け道を通じて、英国自身がEUに残ったも同然になってしまう懸念があるからだ。

強硬離脱派は「EUの単一市場ルールが適用される北アイルランドを利用して、メイ首相は実質的に英国をEUに残留させようとしているのではないか」とさえ疑った。意地悪く言えば、メイ首相は「根本的な解決策を探したけど、見つからなかった」と言えばいいからだ。奇策と言えば、奇策でもある。

小見出し2: 大混乱は必至

(改行・中略)

小見出し3: この数カ月で「リーマン級」が来る?

(改行・後略)

北アイルランド紛争の闇と、もう一つの「離脱」

毎日新聞

服部正法(はっとり まさのり)欧州総局長

2020年11月21日(土)