ケストナー作 『飛ぶ教室』(1933年)抜粋

引用1 der Autor / the author / 著者

Die zweite Abteilung des Vorwortes

Es kommt im Leben nie darauf an, worüber man traurig ist, sondern nur darauf, wie sehr man trauert. Kindertränen sind, bei Gott, nicht kleiner und wiegen oft genug schwerer als die Tränen der Großen. Keine Mißverständnisse, Herrschaften! Wir wollen uns nicht unnötig weich machen. Ich meine nur, daß man ehrlich sein soll, auch wenn’s wehtut. Ehrlich bis auf die Knochen.

Dressler, S.15

The Second Part of the Prologue

[...] It makes no difference what causes your unhappiness; what matters is how unhappy you are. Children’s tears are, God knows, no smaller and often weigh heavier than the tears of grown-ups. Do not misunderstand me. We don’t want to get all sentimental, but we must be honest even if it hurts. Honesty before all things.

Kodansha International (Trans. by Cyrus Brooks), p.19

まえがき その二

(前略)人生(じんせい)では、なにを悲(かな)しむかということは、けっして問題(もんだい)ではなくて、どんなにひどく悲(かな)しむかということだけが問題(もんだい)なのです。子どもの涙(なみだ)は、けっしておとなの涙(なみだ)より小さいなんてことはなく、おとなの涙より重(おも)い場合(ばあい)もたくさんあります。かんちがいをしないでください、みなさん。ぼくたちは不必要(ふひつよう)に涙(なみだ)もろくなろうなんて思ってはいけません。ぼくのいうのはただ、人間(にんげん)は、どんなにつらくても正直(しょうじき)でなければいけない、ということです。骨(ほね)のずいまで正直(しょうじき)でなくては、とね。

国土社(植田敏郎訳), p.17

第(だい)二のまえがき

この人生(じんせい)では、なんで悲(かな)しむということはけっして問題(もんだい)でなく、どんなに悲(かな)しむかということだけが問題(もんだい)です。子どもの涙(なみだ)はけっしておとなの涙(なみだ)より小さいものでなく、おとなの涙(なみだ)より重いことだって、めずらしくありませ[p.19/p.20]ん。誤解(ごかい)しないでください、みなさん! 私(わたし)たちは何も不必要(ふひつよう)に涙(なみだ)もろくなろうとは思いません。私(わたし)はただ、つらい時でも、正直(しょうじき)でなければならないというのです。骨(ほね)のずいまで正直(しょうじき)で。

岩波世界児童文学集(高橋健二訳), pp.19-20

まえがき—その二

(前略)この世の中では、なにを悲しむかということは、すこしも問題ではなく、どれほどふかく悲しむか、ということだけが問題なのです。子どものなみだは—これは誓っていいますが—おとなのなみだより小さいというものではありません。おとなのなみだより重いことだって、いくらもあるのです。思いちがいをしないでくださいよ、みなさん。わたしたちは、なにも不必要に、なみだもろくなろうというのではありません。わたしがいうのは、ただ、人間はどんなにつらく悲しいときでも、正直でなければいけないということです。骨のずいまで正直でなければいけない、ということなのです。

講談社文庫(山口四郎訳), p.18

「はじめに」のふたつめ

(前略)なぜかなしんだかということでなく、どれだけかなしんだかが人生(じんせい)ではたいせつだ。子どもの涙(なみだ)がおとなの涙より小さいなんてことはけっしてないし、ずっと重いことだってある。だけど誤解(ごかい)しないで! めそめそしようといっているのではない。ただ、つらくても、ちゃんとものごとをみつめてほしい。ほんとうに心の底(そこ)からしっかりと。

偕成社文庫(若松宣子訳), p.18

まえがき その2

(前略)人生で大切なのは、なにが悲しいかではなく、どれくらい悲しいか、だけなのだ。子どもの涙が大人の涙より小さいなんてことは絶対にない。ずっと重いことだってよく[p.18/p.19]ある。どうか誤解しないでもらいたい。不必要にメソメソしようと言っているのではない。つらいときにも、正直に言ってほしいだけなのだ。骨の髄まで正直に。

光文社古典新訳文庫(丘沢静也訳), pp.18-9

まえがき その二

(前略)人生、なにを悲しむかではなく、どれくらい深く悲しむかが[p.19/p.20]重要(じゅうよう)なのだ。誓(ちか)ってもいいが、子どもの涙(なみだ)はおとなの涙よりちいさいなんてことはない。おとなの涙より重いことだってlいくらでもある。誤解(ごかい)しないでくれ、みんな。なにも、むやみに泣()けばいいと言っているのではないんだ。ただ、正直であることがどんなにつらくても、正直であるべきだ、と思うのだ。骨(ほね)の髄(ずい)まで正直であるべきだ、と。

岩波少年文庫(池田香代子訳), pp.19-20

物語(ものがたり)の前に2

(前略)たいせつなことは、どうしてかなしいかじゃない。どれだけかなしいかってことだ。

子()どもの涙(なみだ)が、おとなの涙(なみだ)よりちいさいなんてことはない。ずっと重(おも)たいことだってある。

でも、みなさん、どうか誤解(ごかい)しないで。だからといって、ぼくは、やたらにめそめそすればいいといっているのではないんだよ。

ただ、どんなに胸(むね)が痛(いた)むようなつらいことがあったとしても、かくしたりしないで、あったことはありのまま、うけとめてほしい。ごまかしたりしないで、すべてありのままに。

角川つばさ文庫(那須田淳訳), p.20

第二の前書き

(前略)人生に大切なのは、何を悲しんだかではなくて、どれほど深く悲しんだかということなのだ。神かけて言うが、子どもの涙が大人の涙よりも小さいなんてことはなく、しばしばずっと重いものだ。世の方々よ、誤解しないでいただきたい! ことさらおセンチなのがいいなどと申しているのではない。たとえつらくとも正直であってほしいのだ。骨の髄まで正直であってほしいのだ。

新潮文庫(池内紀訳), p.21

引用2 der Autor / the author / 著者

Die zweite Abteilung des Vorwortes

[...] Und schreibt euch hinter die Ohren, was ich jetzt sage: Mut ohne Klugheit ist Unfug; und Klugheit ohne Mut ist Quatsch! Die Weltgeschichte kennt viele Epochen, in denen dumme Leute mutig oder kluge Leute feige waren. Das war nicht das Richtige.

Erst wenn die Mutigen klug und die Klugen mutig geworden sind, wird das zu spüren sein, was irrtümlicherweise schon oft festgestellt wurde: ein Fortschritt der Menschheit.

Dressler, S.19

The Second Part of the Prologue

[...] And make a careful note of this: Courage without common sense is all rot; and common sense without courage is all bosh! History tells us of many periods when stupid people were brave or sensible people cowardly. But none of them was much good.

Not till the brave become sensible and the sensible become brave shall we have what people have often erroneously observed: the progress of humanity.

Kodansha International (Trans. by Cyrus Brooks), p.24

まえがき その二

これからぼくのいうことを、おぼえてください。つまり、かしこさをもたない勇気(ゆうき)はらんぼうで、勇気(ゆうき)をもたないかしこさなんかくだらないものだ、ということを! 世界史(せかいし)には、おろか者が勇敢(ゆうかん)だったり、かしこい者がいくじなしだった時代(じだい)が、いくらもあります。これは正(ただ)しいことではありません。

勇気(ゆうき)のある者がかしこく、かしこい者が勇敢(ゆうかん)になってはじめて、人類(じんるい)に進歩(しんぽ)のあることがわかるでしょう。人類(じんるい)の進歩(しんぽ)は、これまでにたびたび、ありもしないのにたしかにあると思いちがいされていました。

国土社(植田敏郎訳), p.22

第(だい)二のまえがき

私(わたし)がいまいうことを、よく頭にいれておきなさい。かしこさのともなわない勇気(ゆうき)は、不法(ふほう)です。勇気(ゆうき)のともなわないかしこさは、くだらんものです! 世界史(せかいし)には、ばかな人々が勇(いさ)ましかったり、かしこい人々が臆病(おくびょう)だったりした時が、いくらもあります。それは正しいことではありませんでした。

勇気(ゆうき)のある人々がかしこく、かしこい人々が勇気(ゆうき)をもった時、はじめて人類(じんるい)の進歩(しんぽ)は確(たし)かなものになりましょう。これまでたびたび人類(じんるい)の進歩(しんぽ)と考えられたことは、まちがいだったので[p.24/p.25]す。

岩波世界児童文学集(高橋健二訳), pp.24-5

まえがき—その二

(前略)わたしがつぎにいうことを、みなさんは、よくよくおぼえておいてください。

かしこさをともなわない勇気はらんぼうであり、勇気をともなわないかしこさなどはくそにもなりません! 世界の歴史には、おろかな連中が勇気をもち、かしこい人たちが臆病だったような時代がいくらもあります。これは、正しいことではありませんでした。勇気のある人たちがかしこく、かしこい人たちが勇気をもったときにはじめて—いままではしばしばまちがって考えられてきましたが—人類の進歩というものが認められるようになるでしょう。

講談社文庫(山口四郎訳), p.23

「はじめに」のふたつめ

(前略)いまからいうことをきちんと心にとめておいてほしい。知恵のない勇気は、ただの暴力(ぼうりょく)。勇気のない知恵は、役(やく)たたず。世界の歴史(れきし)には、勇気しかないばか者(もの)や、知恵があるだけのおくびょう者がたくさんいた。それは正しい状態(じょうたい)ではなかった。

勇者(ゆうしゃ)がかしこくなって、賢者(けんじゃ)が勇気をもったら、これまでなんどもまちがいがくりかえされたとわかって、やっと人類(じんるい)は一歩前にふみだせるだろう。

偕成社文庫(若松宣子訳), p.22

まえがき その2

(前略)これから言うことをよく覚えておいてもらいたい。賢さのない勇気は、乱暴にすぎない。勇気のない賢さは、冗談にすぎない。世界の歴史には、勇気はあるけれど馬鹿な人間や、賢いけれど臆病な人間がたくさんいた。それはおかしな状態だった。

勇気のある人間が賢くなり、賢い人間が勇気をもってはじめて、人類の進歩というものが感じられるようになるだろう。これまではしばしば、まちがって別のことが人類の進歩だと言われてきたけれど。

光文社古典新訳文庫(丘沢静也訳), p.23

まえがき その二

(前略)ぼくがこれから言うことを、[p.24/p.25]よくよく心にとめてほしい。かしこさをともなわない勇気(ゆうき)は乱暴(らんぼう)でしかないし、勇気をともなわないかしこさは屁()のようなものなんだよ! 世界の歴史(れきし)には、かしこくない人びとが勇気(ゆうき)をもち、かしこい人びとが臆病(おくびょう)だった時代がいくらもあった。これは正しいことではなかった。

勇気(ゆうき)ある人びとがかしこく、かしこい人びとが勇気をもつようになってはじめて、人類(じんるい)も進歩したなと実感されるのだろう。なにを人類(じんるい)の進歩と言うか、これまではともすると誤解(ごかい)されてきたのだ。

岩波少年文庫(池田香代子訳), pp.24-5

物語(ものがたり)の前に2

(前略)このことをどうか心(こころ)にとめておいてほしい。

勇気(ゆうき)があっても、かしこくなければ、ただのやばん人(じん)。かしこくても、勇気(ゆうき)がなければ、意味(いみ)がない。これまでの歴史(れきし)のなかには、やたらに勇気(ゆうき)だけあるおばかさんや、かしこいけれど、いざとなったらなにもできないおくびょうものがいた。でも、それはまちがっている。

勇気(ゆうき)がある人(ひと)がかしこくなり、かしこい人(ひと)が勇気(ゆうき)をもつ。そのときはじめて、人類(じんるい)が進歩(しんぽ)したと、ほんとうにいえるだろう。これまでは、べつのことが人類(じんるい)の進歩(しんぽ)だといわれてきたけれど。

角川つばさ文庫(那須田淳訳), p.26

第二の前書き

(前略)いま私のいうことを、心に刻んでもらいたい。知恵のない勇気は暴れ者にすぎないし、勇気のない知恵はたわごとにとどまる! 世界の歴史には愚かな連中が恐(こわ)いもの知らずで、知恵ある者たちが臆病(おくびょう)である時代がくり返しめぐってきた。それはゆがんだ状態なのだ。

勇気ある人々が知恵深く、知恵深い人たちが勇気を出したときようやく、これまでしばしば、まちがって使われてきたあの言い廻し、「人類の進歩」というものを感じとれるのではなかろうか。

新潮文庫(池内紀訳), p.25

引用3 Professor Kreuzkamm / Herr Kreuzkamm / クロイツカム先生 / クロイツカム教授(きょうじゅ)

Das siebente Kapitel

„An allem Unfug, der passiert, sind nicht etwa nur die Schuld, die ihn tun, sondern auch die, die ihn nicht verhindern“, erklärte der Professor. „Diesen Satz schreibt jeder bis zur nächsten Stunde fünfmal auf.“

„Fünfzigmal?“, fragte Sebastian spöttisch.

„Nein, fünfmal“, erwiderte der Professor. „Wenn man einen Satz fünfzigmal aufschreibt, hat man ihn zum Schluß wieder vergessen. Nur Sebastian Frank schreibt ihn fünfzigmal auf. Wie lautet der Satz, Martin?“ [S.103/S.104]

Martin sagte: „An allem Unfug, der geschieht, sind nicht nur die Schuld, die ihn begehen, sondern auch diejenigen, die ihn nicht verhindern.“

„Wenn du wüßtest, wie recht du hast!“, meinte der Professor und lehnte sich zurück. [...]

Dressler, SS.103-4

The Seventh Chapter

‘When wrong is done it is the fault of those who fail to prevent it,’ said the master, ‘as well as those who do it. Each of you will write out that sentence five times before our next lesson.’

‘Fifty times?’ asked Sebastian cheekily.

‘No. Five times,’ replied the master. ‘If you write out a sentence fifty times you are sure to have for-[p.134/p.135]gotten it before you get to the end. Sebastian Frank will write it out fifty times; the rest, five. What was the sentence, Martin?’

‘When wrong is done,’ said Martin, ‘it is the fault of those who do not prevent it, as well as of those who do it.’

‘If you only knew how true that is,’ said the master, leaning back in his chair. [...]

Kodansha International (Trans. by Cyrus Brooks), pp.134-5

第七章

「おこなわれるどんならんぼうにたいしても、それをやる者ばかりでなく、それをとめない者にも責任(せきにん)がある。」と、先生は、はっきりいいました。「この文章(ぶんしょう)を、つぎの時間までにめいめいが五回(かい)ずつ、書いてきなさい。」

「五十回(かい)ですか?」[p.149/p.150]

と、ゼバスチアンが、いやみたっぷりにたずねました。

「いや、五回(かい)だ。」と、先生は答(こた)えました。「一つの文章(ぶんしょう)を五十回(かい)も書いたら、しまいにはまた忘(わす)れてしまう。ゼバスチアン・フランクだけは、五十回(かい)書くんだぞ。文章(ぶんしょう)は、どういうのだったね、マルチン?」

「おこなわれるどんならんぼうにたいしても、それをやる者ばかりでなく、それをとめない者にも責任(せきにん)がある。」

「きみのいうことが正しい、ということが、きみにわかっていさえすればよかったがね!」

と、先生はいうと、うしろによりかかりました。

国土社(植田敏郎訳), pp.149-50

第(だい)七章(しょう)

「おこなわれたいっさいの不当(ふとう)なことにたいして、それをおかしたものに罪(つみ)があるばかりでなく、それをとめなかったものにも罪(つみ)がある。」と、教授(きょうじゅ)は説明(せつめい)しました。「この文章(ぶんしょう)をめいめいこのつぎの時間(じかん)までに五へんずつ書いてこい。」

「五十ぺんですか。」と、ゼバスチアンがあざけるようにたずねました。

「いや五へんだ。」と、教授(きょうじゅ)は答えました。「一つの文章(ぶんしょう)をを五十ぺんも書けば、しまいにはまた忘(わす)れてしまう。ゼバスチアン・フランクだけは五十ぺん書け。文章(ぶんしょう)はわかってるか、マルチン?」

マルチンは答えました。[p.142/p.143]

「おこなわれたいっさいの不当(ふとう)なことにたいして、それをおかしたものに罪(つみ)があるばかりでなく、それをとめなかったものにも罪(つみ)があります。」

「そのとおりだということを心得(こころえ)ていれば!」と、教授(きょうじゅ)はいい、うしろにもたれました。

岩波世界児童文学集(高橋健二訳), pp.142-3

第七章

すると先生は、

「すべてわるいことをしたばあいには、それをやった者ばかりでなく、それをとめなかった者にも責任がある」と宣言すると、「この文章を、つぎの時間までに、めいめい五回ずつ書いてくるんだ」

といいました。

「五十回ですか」

とゼバスチアンが、ひやかすようにききました。

「ちがう、五回だ」

先生は答えました。

「一つの文章を五十回も書いたら、最後にはまたわすれるにきまっている。ただし、ゼバスチアン・フランクだけは五十回書け。書く文章はわかっているか、マルチン」

マルチンはいいました。

「すべてわるいことをしたばあいには、それをやった者ばかりでなく、それをとめなかった[p.146/p.147]者にも責任がある、です」

「どうしてそれくらいのことがわからんのだ。それさえわかれば問題はないのに」

と先生はいうと、いすの背にずうっとからだをもたせかけながら、(後略)

講談社文庫(山口四郎訳), pp.146-7

7章

「すべての事件(じけん)は、やった者(もの)だけではなく、とめなかった者にも責任がある。さあ、この[p.136/p.137]文章(ぶんしょう)をつぎの時間までに全員(ぜんいん)が五回ずつ書いてきなさい。」

「五十回ですか?」

セバスチャンがひやかすようにいった。

「いや、五回だ。五十回も書けば、さいごにはまたわすれてしまう。ただセバスチャン・フランクだけは五十回書くこと。なんという文章だったかな、マルティン?」

「すべての事件(じけん)は、やった者(もの)だけではなく、とめなかった者にも責任がある。」

「この言葉(ことば)がほんとうだとわかればいいがね。」先生はいすにもたれた。

偕成社文庫(若松宣子訳), pp.136-7

第7章

「どんな迷惑行為も、それをやった者にだけ責任があるのではなく、それを止めなかった者にも責任がある」と、先生が宣告した。「このセンテンスを全員、つぎの時間までに5回書いてくること」

「50回ですか?」と質問して、セバスティアンがからかった。

「いや、5回だ」と、先生が答えた。「50回も書けば、最後には忘れてしまうだろう。だが、セバスティアン・フランクだけは50回書いてくること。マルティン、どういうセンテンスだった?」

マルティンが言った。「どんな迷惑行為も、それをやった者にだけ責任があるのではなく、それを止めなかった者にも責任がある」

「そのセンテンスの意味が正しいと知っていればな」と言って、先生は椅子にもたれた。(後略)

光文社古典新訳文庫(丘沢静也訳), p.128

「平和を乱(みだ)すことがなされたら、それをした者だけでなく、止めなかった者にも責任(せきにん)はある」と、先生は言った。「つぎの授業(じゅぎょう)までに、全員、この分を五回書きなさい」

「五十回ですか?」と、セバスティアーンがふざけた。

「ちがう、五回だ」先生は言いかえした。「おなじ文を五十回も書いたら、結局(けっきょく)忘(わす)れてしまうものだ。ただし、セバスティアーン・フランクだけは五十回書きなさい。どんな文だったかね? マルティン」

「平和を乱(みだ)すことがなされたら、それをした者だけでなく、止めなかった者にも責任(せきにん)はある、です」と、マルティンは答えた。

「それさえわかっていれば、きみたちがまちがいをおかすことはないのだが!」と、先生は言って、いすの背()にもたれた。(後略)

岩波少年文庫(池田香代子訳), p.143

7時間目(じかんめ)

すると、クロイツカム先生(せんせい)はいった。

「どんな悪(わる)いことも、その責任(せきにん)はおこなったものだけでなく、それをとめなかったものにもある」それから、先生(せんせい)はつづけた。「この文章(ぶんしょう)を、つぎの授業(じゅぎょう)までに全員(ぜんいん)が五回(かい)ずつ書()いてくること」

「五十回(かい)ずつのまちがいですか?」と、セバスチャンがふざけていった。

「いや、五回(かい)ずつでよろしい。おなじ文章(ぶんしょう)を五十回(かい)も書()いたら、しまいにはわすれてしまうものだ。だが、セバスチャン、きみはせっかくだから五十回(かい)書()いてきなさい。さて、どんな文(ぶん)だったかね、マーティン!」

「どんな悪(わる)いことも、その責任(せきにん)はおこなったものだけでなく、それをとめなかったものにもある」

「まったくそのとおりだ。ちゃんとおぼえておきなさい」[p.146/p.147]

クロイツカム先生(せんせい)はいって、いすにこしかけた。

角川つばさ文庫(那須田淳訳), pp.146-7

第七章

「すべて乱暴狼藉(ろうぜき)は、はたらいた者だけでなく、とめなかった者にも責任がある」先生は言った。「これを次の時間までに五回書いてくる」

「五十回でしょう?」ゼバスティアンがひやかした。[p.125/p.126]

「いや、五回だ」先生が言った。「五十回も書くと、結局のところ忘れたのと同じことだ。ゼバスティアン・フランクだけは五十回とする。どんな文だったか、マルティン?」

マルティンは答えた。「すべて乱暴狼藉は、はたらいた者だけでなく、とめなかった者にも責任がある」

「その正しさを、わかってくれさえしたら!」先生は呟(つぶや)いて、椅子の背にもたれた。

新潮文庫(池内紀訳), pp.125-6

引用4 Sebastian Frank / ゼバスチアン・フランク / セバスティアン・フランク / セバスティアーン・フランク / ゼバスティアン・フランク / セバスチャン・フランク

Das neunte Kapitel

[...] Sebastian überlegte eine Weile. Dann fuhr er fort: „Eigentlich geht euch das, was ich jetzt sagen will, gar nichts an. Aber, habt ihr schon einmal darüber nachgedacht, ob ich Mut habe? Ist euch schon einmal aufgefallen, daß ich ängstlich bin? Nichts ist euch aufgefallen! Ich will euch deshalb vertraulich mitteilen, daß ich sogar außerordentlich ängstlich bin. Ich bin aber ein gescheiter Mensch und laß es mir nicht anmerken. Mich stört mein Mangel an Mut nicht besonders. Ich schäme mich nicht darüber. Und das kommt wieder daher, daß ich gescheit bin. Ich weiß, daß jeder Mensch Fehler und Schwächen hat. Es kommt nur darauf an, diese Fehler nicht sichtbar werden zu lassen.“

Dressler, S.121

The Ninth Chapter

[...] Sebastian reflected for a moment, then he went on: ‘What I’m going to say now is really none of your business. But have you ever asked yourselves whether I’m plucky? Has it ever occurred to you that I am a coward? You’ve never noticed anything, and so I’ll tell you in confidence that I am extraordinarily timid. But I’m a sensible chap and don’t allow people to notice it. My timidity does not trouble me much. I’m not ashamed of it, because, you see, I have some common sense. I know that everyone has his own faults and failings, and the main thing is simply to prevent people noticing them.’

Kodansha International (Trans. by Cyrus Brooks), p.159

第九章

(前略)ゼバスチアンは、ちょっと考えこみました。それからつづけました。

「ぼくがいまいおうとしていることは、ほんとはきみたちには、なんのかかわりもないことなんだよ。でも、きみたちはいつか、ぼくに勇気(ゆうき)があるかどうか、考えてみたことがあるかい? それとも、ぼくは気が小さいんだってことに、気づいたことがあるかい? なんにも気づきはしな[p.176/p.177]かったろう! だから、ぼく、こっそりきみたちに話しておこうと思うんだ。ぼくがそれどころか、とっても気が小さいんだってことをな。でもねえ、ぼくはりこうな人間(にんげん)だから、それを人に気()どらせない。ぼくは、自分に勇気(ゆうき)がないからといっても、べつにそれがさまたげにならないんだ。ぼくは、それを恥()ずかしいなんて思ってないよ。それはまた、ぼくがりこうだってところからきている。人間(にんげん)は、だれにも欠点(けってん)や弱点(じゃくてん)があることを、ぼくは知っている。問題(もんだい)はただ、この点を人に見せないようにするってことだけさ。」

国土社(植田敏郎訳), pp.176-7

第(だい)九章(しょう)

(前略)ゼバスチアンはちょっと考えてからいいつづけました。「ぼくがいまいおうとすることは、じっさいはきみたちにはまったく関係(かんけい)がない。だが、きみたちは、ぼくに勇気(ゆうき)があるかどうか、いつか考えてみたことがあるかい? ぼくが小心(しょうしん)だということに気づいたことがあるかい? きみたちはぜんぜん気づいたことがない! だからないしょでうちあけるが、ぼくはなみはずれて小心(しょうしん)なんだ。だが、ぼくはりこう者(もの)だから、それを気づかせないのだ。勇気(ゆうき)の欠()けていることはとくにぼくをなやましはしない。ぼくはそれを恥()じない。それがまたぼくのりこうなところからきているのだ。だれでも欠点(けってん)と弱点(じゃくてん)があることは、ぼくだって知っている。その欠点(けってん)をお[p.167/p.168]もてにださないということだけが問題(もんだい)なんだ。

岩波世界児童文学集(高橋健二訳), pp.167-8

第九章

ゼバスチアンはこういうと、ちょっと考えこみました。それから、彼はまた話をつづけました。

「じつは、これからぼくがいうことは、きみたちには元来なんの関係もないことだ。だがきみたちは、ぼくが勇気のある人間かどうか、いつか考えてみたことがあるか。ぼくが小心者だということに、いつか気づいたことがあるかね。ぜんぜんないだろう。だから、これはここだけの話にしてうちあけるが、ぼくはおそろしく小心者なんだ。だがぼくは、そこはぬかりのない人間だから、それを人に気づかせたりはしないだけの話だ。勇気が自分には欠けていても、ぼくはかくべつなやみもしない。それをぼくは、恥とも思わない。それというのがまた、ぼくがぬかりのない人間だというところからきているんだ。どんな人間にだって、欠点と弱点のあることをぼくは知っている。問題はただ、そうした欠点や弱点を、人に気づかせないということだけなんだ」

講談社文庫(山口四郎訳), p.172

9章

(前略)しばらく考えこんで、また話しはじめた。「ほんとうは、この話は、みんなにはまったく関係(かんけい)ないけどね、だけど、みんなはぼくに勇気があるかなんて、一度だって考えたことあるかい? ぼくがいつもびくびくしてるって、気づいた人はいるかい? だれも気づいてないだろう。ここだけの話だけど、ぼくはひどくこわがりなんだ。だけど、うまくふるまって、気づかれないように[p.160/p.161]してる。それに勇気がなくったって、あまり気にしてない。はずかしいとも思わない。それもうまく考えているからだ。だれだって欠点(けってん)や弱点(じゃくてん)はある。問題(もんだい)は、その欠点を気づかせるかどうかということだ。」

偕成社文庫(若松宣子訳), pp.160-1

第9章

(前略)セバスティアンはしばらく考えてから、話をつづけた。「実際、これから話すことは、みんなにはまったく無関係なんだけどね。これまでにさ、ぼくに勇気があるかどうか、考えたことってある? ぼくが臆病者だって、気づいたことある? ぜんぜんないよね。だからこそここだけの話だが、ぼくって、ものすごい臆病者なのさ。でもね利口だから、誰にも気づかれないようにしてるんだ。ぼくはさ、勇気がないからって、特別に悩んだりしない。恥ずかしいとも思わない。それもまた、ぼくが利口だからなんだ。どんな人間にも欠点や弱点がある、ってわかってるからさ。その欠点を気づかせないよう[p.148/p.149]にする、ってことだけが問題なんだよ」

光文社古典新訳文庫(丘沢静也訳), pp.148-9

セバスティアーンは、ちょっと考えこんで、また話しはじめた。

「いまからぼくが言うことは、もともとみんなにはまるで関係(かんけい)ないんだけどさ。ねえ、僕に勇気(ゆうき)があるかなんて、考えたことがある? 僕が不安(ふあん)がってるなんて、気がついたことある? 思いもよらなかっただろ? ここだけの話、ぼくはすごく気がちいさいんだ。でも、ぼくは要領(ようりょう)がいいんでね、気づかれないようにしてるんだ。自分がいくじなしだってことは、そんなに気にしていない。いくじなしだってことを、恥()ずかしいとも思っ[p.167/p.168]てない。それもやっぱり、ぼくは要領(ようりょう)がいいからだ。欠点(けってん)や弱みは、だれにだってあると思うよ。問題は、それをごまかすかどうかってことだ」

岩波少年文庫(池田香代子訳), pp.167-8

9時間目(じかんめ)

セバスチャンはちょっと考(かんが)えてから、つぶやくようにいった。

「おれがこれから話(はな)すことなんて、あんたらには関係(かんけい)ないことだけど、なあ、おれにどきょうがあるかどうか考(かんが)えたことがあるかい?

おれって、実(じつ)はすごく小心(しょうしん)ものなんだぜ。気()がついていたか? 思(おも)ってもみなかったろう! 白状(はくじょう)するが、ほんとうのおれは、とんでもない、いくじなしなんだ。でも、ごまかして、さとられないように、うまく立()ちまわってきた。それに、いくじなしだってこと、そんなに気()にしてこなかったし、はずかしいとも思(おも)わなかった。ごまかすことさえできれば、そんなのなにも問題(もんだい)にならないだろ。欠点(けってん)とか弱(よわ)みなんて、だれにだってあるんだし。つまり、ばれなきゃいいって思(おも)っていたんだ」

角川つばさ文庫(那須田淳訳), p.171

第九章

(前略)ゼバスティアンはしばらくじっと考え、それから言葉をつづけた。「いまぼくの話すことは、本来きみたちとは関係がない。ぼくに勇気があるかどうか、きみたちは一度でも考えたことがあるのかな? ぼくがこわがりだと気づかなかったか? 思ってもみなかっただろう! だからこっそり打ち明けるのだけど、ぼくはとてもこわがりなんだ。ただ頭がいいから、それを悟らせないだけだ。勇気がないってことを、あまり気にしない。恥じたりもしない。それも頭のいいせいだろう。人には誰でも欠点や弱点がある。それをわからせないかどうかが問題なんだ」

新潮文庫(池内紀訳), p.145

引用5 Martin Thaler / マルチン・ターラー / マルティン・ターラー / マーティン・ターラー

Das neunte Kapitel

‚Aber ich‘, dachte Martin, ‚ich bin doch gesund! Ich habe kein Bein gebrochen und kann trotzdem nicht fort. Ich habe meine Eltern sehr lieb, und sie lieben mich, und trotzdem dürfen wir am Heiligen Abend nicht zusammen sein. Und warum eigentlich nicht? Wegen des Geldes. Und warum haben wir keins? Ist mein Vater weniger tüchtig als andere Männer? Nein. Bin ich weniger fleißig als andere Jungen? Nein. Sind wir schlechte Menschen? Nein. Woran liegt es dann? Es liegt an der Ungerechtigkeit, unter der so viele leiden. Es gibt zwar nette Leute, die das ändern wollen. Aber der Heilige Abend ist schon übermorgen. Bis dahin wird es ihnen nicht gelingen.‘

Dressler, S.123

The Ninth Chapter

But, thought Martin, I am perfectly well. I haven’t broken my leg and yet I’ve got to stay here. I’m very fond of my father and mother, and they’re very fond of me, and yet we can’t spend Christmas Eve together. And why not? Because we haven’t any money? Is my father less clever than other men? No. Do I work less hard than other boys? No. Are we bad people? No. Then why is it? It is because of the injustice from which so many people suffer. Of course, there are good men and women who want to change all that. But Christmas Eve is only two days off, and [p.162/p.163] they won’t succeed in changing it before then.

Kodansha International (Trans. by Cyrus Brooks), pp.162-3

第九章

(でも、ぼくはぴんぴんしてるんだ! 足だって折()ってなんかいない。それなのに出発(しゅっぱつ)できないんだ。ぼくは、お父(とう)さんもお母(かあ)さんも大好(だいす)きだ。お父さんだって、お母さんだって、ぼくをかわいがってくれている。それなのにぼくたちは、クリスマスイブにいっしょになれない。いったい、なんだっていっしょにいられないのか。お金(かね)のためだ。なんだって、ぼくたちにはお金がないんだ。お父さんが、ほかの男の人たちより腕(うで)がないというのか。そんなことはない。ぼくが、ほかの男の子たちより勉強家(べんきょうか)でないというのか。そんなことはない。ぼくたちはわるい人間(にんげん)なのか。そんなことはない。そんなら、なんのせいなのだ。世()の中が正しくないせいだ。そのために、とてもおおぜいの人が苦(くる)しんでいる。たしかに、なかにはそれを変()えようとする、心のやさしい人たちもいる。でも、クリスマスイブはもうあさってだ。そういう人たちには、あさってまでにはできっこあるまい。)

とマルチンは考えました。

国土社(植田敏郎訳), p.180

第(だい)九章(しょう)

「ぼくは」と、マルチンは考えました。「ぼくはぴんぴんしている! 足を折()ってなんかい[p.170/p.171]ないのに、出発(しゅっぱつ)できないんだ。ぼくはおとうさんやおかあさんを愛(あい)している。おとうさんやおかあさんもぼくを愛(あい)している。それだのに、ぼくたちはクリスマスの晩(ばん)にいっしょになれないんだ。いったいなぜか。お金のためだ。なぜぼくたちにはお金がないのか。ぼくのおとうさんはほかの人たちより働(はたら)きがないんだろうか。そんなことはない。ぼくはほかの少年(しょうねん)たちより勤勉(きんべん)でないだろうか。そんなことはない。ぼくたちは悪(わる)い人間なのか。そんなことはない。それなら、どこに原因(げんいん)があるのか。それは、世()の中(なか)が正しくないためだ。そのためひじょうに多くの人が苦(くる)しんでいる。それを変()えようとする親切(しんせつ)な人たちもいるけれど、クリスマスの晩(ばん)はもうあさってにせまっている。それまでに世()の中(なか)を変()えることはできないだろう。」

岩波世界児童文学集(高橋健二訳), pp.170-1

第九章

<だけど、ぼくは>

とマルチンは考えました。

<ぼくはぴんぴんしている。足だって折ってやしない。それなのに帰れないんだ。ぼくは両親をとても愛している。両親だってぼくを愛している。それなのに、ぼくたちはクリスマス[p.175/p.176]イブにいっしょになれないんだ。いったいなぜか。お金のためだ。じゃあ、なぜうちにはお金がないのか。ぼくのお父さんは、ほかの人より働きがないのだろうか。いや、そんなことはない。またぼくは、みんなほど勤勉でないだろうか。そんなことだってない。ぼくたちはわるい人間だろうか。ちがう。

じゃあ、原因はどこにあるのか。世の中が不公平だからだ。そのために、じつにたくさんの人たちが苦しんでいる。それを変えようとしているしんせつな人たちもいるが、クリスマスイブはもうあさってだ。それまでには、できっこない>

講談社文庫(山口四郎訳), pp.175-6

9章

(前略)(だけど、ぼくは、こんなに元気(げんき)なのに! 足だって折れてないのに、かえれない。両親(りょうしん)のことがだいすきだし、かわいがってもらってるのに、クリスマスイブをいっしょにす[p.163/p.164]ごせないんだ。いったい、なぜ? お金のせいだ。どうしてうちにはお金がないんだろう。父さんはふつうよりも力がないのか? ちがう。ぼくはふつうよりも、がんばりがたりないだろうか? ちがう。ぼくたちは悪(わる)い人間なのか? ちがう。じゃあ原因(げんいん)はなんだろう。不公平(ふこうへい)な世の中のせいなんだ。だから、たくさんの人がくるしんでいる。それをかえようとする親切(しんせつ)な人もいる。でも、クリスマスイブはもうあさってだ。それまでにかえるなんて、ぜったいむりだ。)

偕成社文庫(若松宣子訳), pp.163-4

第9章

「ところがこのぼくは」と、マルティンは考えた。「こんなに元気なんだ。足を骨折してるわけじゃないのに、帰れない。お父さんやお母さんのことが大好きだし、ぼく[p.151/p.152]もかわいがられてる。なのに、いっしょにクリスマスイブを過ごせない。それはどうしてなのか。お金のせいだ。どうしてうちにはお金がないのか。お父さんが有能じゃないから? いや、そんなことはない。僕が怠け者だから? いや、そんなことはない。ぼくたちが悪い人間だから? いや、そんなことはない。じゃ、なぜなんだ。世の中が不公平だからだ。不公平だから、たくさんの人が苦しんでるんだ。そんな世の中を変えようと思ってる、優しい人もいる。でも、クリスマスイブはもうあさってだ。それまでに変えたりできないだろう」

光文社古典新訳文庫(丘沢静也訳), pp.151-2

でもぼくは、とマルティンは考えた。ぼくはどこも悪くない。足が折()れてるわけじゃないのに、うちに帰れない僕は母さんと父さんが大好(だいす)きだ。母さんと父さんも僕を愛(あい)してくれている。なのに、ぼくたちはクリスマスイブに会えない。いったいなぜだ? お金のためだ。どうしてうちにはお金がないんだ? 父さんがほかの人より能(のう)なしなのか? そんなことはない。ぼくはほかの子たちより勉強をがんばってない? それもちがう。ぼくたちは、人間のできが悪いのか? まさか。じゃあ、いったいなぜだ? 社会が不公正(ふこうせい)だからだ。そのために、たくさんの人が苦しんでいる。こんな社会をなんとかしようと思っている、いい人もいる。でも、クリスマスイブはもうあさってだ。まにあいっこないよ。

岩波少年文庫(池田香代子訳), p.171

9時間目(じかんめ)

だけどぼくは、とマーティンは思(おも)った。

ぼくは健康(けんこう)そのものでけがをしているわけでもない。それでも、うちに帰(かえ)れないのだ。

母(かあ)さんのことも父(とう)さんのことも大好(だいす)きだし、ふたりともぼくを愛(あい)してくれている。[p.174/p.175]

なのに、クリスマスをいっしょにすごせない。どうして?

お金(かね)がないからだ。どうして?

父(とう)さんがほかの人(ひと)より仕事(しごと)ができないというのか? いや、ちがう。

ぼくが、ほかの子()より勉強(べんきょう)をがんばらなかったというのか? いや、ちがう。

ぼくたち家族(かぞく)が、悪(わる)い人間(にんげん)だというのか? そんなことはぜったいない。

じゃあ、どうして?

世()の中(なか)が不公平(ふこうへい)だからだ。たくさんの人(ひと)がそれで苦(くる)しんでいる。もちろんこの世()の中(なか)を変()えようといっしょうけんめいがんばってくれる、いい人(ひと)たちだっている。でも、クリスマス・イブはもうあさってなんだ。とてもまにあわない。

角川つばさ文庫(那須田淳訳), pp.174-5

第九章

「このぼくは」とマルティンは考えた。「病気じゃないし、足の骨を折ったりもしていない。だのに出発できない。両親が大好きだし、両親もぼくをとても愛している。にもかかわらずいっしょにクリスマスイヴを過ごすことができない。どうしてそれができないのか? お金のせいだ。どうしてぼくたちにはお金がないのか? 父さんはほかの男たちと較べて怠け者か? 違う。ぼくはほかの仲間より自堕落か? 違う。ぼくたちは悪い人間か? 違う。原因は何か。世の中が公正でないからだ。そのために多くの人が苦しんでいる。どうにかしようといているいい人々がいるが、クリスマスイヴはあさってなのだ。とてもそれまでに世の中を直せやしない」

新潮文庫(池内紀訳), p.148

引用6 der „Nichtraucher“, od. Dr. Robert Uthofft / the ‘Non-Smoker’, or Dr. Robert Uthofft / 禁煙(きんえん)先生(せんせい) / 禁煙さん

Das neunte Kapitel

„[...] Und komme mir bloß nicht mit der Redensart, daß man nicht ohne Ehrgeiz leben solle. Es gibt nämlich viel zu wenig Menschen, die so leben, wie ich’s tue. Ich meine natürlich nicht, daß sie alle Klavierspieler in zweifelhaften Lokalen werden sollten. Ich wünschte aber, es gäbe mehr Menschen, die Zeit hätten, sich an das zu erinnern, was wesentlich ist. Geld und Rang und Ruhm, das sind doch kindische Dinge! Das ist doch Spielzeug und weiter nichts. Damit können doch wirkliche Erwachsene nichts anfangen. Hab ich recht, Alter?“ Er machte eine Pause.

Dressler, S.130

The Ninth Chapter

‘[...] And don’t come to me with a yarn that a man can’t live without ambition. There are far too few who live as I do. Of course I don’t mean that they all ought to play the piano in low-down beershops. [p.170/p.171] But I wish there were more people who had time to remember the things that are important. Money and rank and fame—these are childish things—toys and nothing more. They are not the sort of things for genuine adults. Am I right, old man?’ He paused.

Kodansha International (Trans. by Cyrus Brooks), pp.170-1

第九章

「(前略)野心(やしん)をもたずに生活(せいかつ)するものではない、なんていうきまり文句(もんく)をもちだすのはやめてくれ。ぼくがやっているような、そういう生活(せいかつ)をしている者が、つまり、少なすぎるんだな。もちろんぼくは、そういう人たちがみんな、あやしげなレストランのピアノひきにならなければならない。[p.191/p.192]なんて、いわない。でもぼくは、たいせつなことを思い出すひまのある人間(にんげん)が、もっとたくさんいてほしいと思うんだよ。金(かね)と、地位(ちい)と、名誉(めいよ)、そんなものは、やっぱり子どもじみたものさ! それは、ただのおもちゃ(、、、、)にすぎないんだ。そんなものは、ほんとのおとなには、なんにもならんものだよ。ねえ、ぼくのいうことは、もっともじゃないかい、きみ。」

禁煙(きんえん)先生(せんせい)は、ひと息(いき)つきました。

国土社(植田敏郎訳), pp.191-2

第(だい)九章(しょう)

「(前略)生活(せいかつ)に野心(やしん)を失(うしな)ってはならないなんていう、きまりもんくだけは、もち[p.180/p.181]ださないでくれたまえ。ぼくのような暮()らしかたをする人間がすくなすぎるんだ。むろんぼくは、みんながみんな、あやしげな料理店(りょうりてん)のピアノひきになれ、とはいわないよ。だが、ほんとにたいせつなことを思いだす時間(じかん)をもつ人が、もっと多くいてほしい、と思うんだ。金と位(くらい)と名誉(めいよ)なんて、子どもじみたものじゃないか! そんなものは、たかがおもちゃにすぎないよ。ほんとにおとなはそんなものをあいてにしやしない。どうかね、ぼくのいうことは?」彼(かれ)はひと息(いき)つきました。

岩波世界児童文学集(高橋健二訳), pp.180-1

第九章

「(前略)それからまた、人生に野心をうしなうななんて、月並みなせりふだけは持ちださないでくれよ。だいたい、ぼくみたいな生活をする人間が、世の中にはすくなすぎるんだ。もちろんぼくは、みんながみんな、いかがわしい酒場のピアノひきになれなんていってるんじゃない。だが、なにがほんとにたいせつな問題か、それを思いだすゆとりのある人間が、もっといてほしいと思うんだ。金だ、位だ、名誉だなんていったって、そんなものは子どもじみたものだよ。たかがおもちゃだ。それ以上のなんでもありゃしない。ほんとのおとなにとっちゃ、なんにもならんしろものだ。ぼくのいうことはどうかね、きみ?」[p.186/p.187]

禁煙さんは、ちょっとここで間をおきました。

講談社文庫(山口四郎訳), pp.186-7

9章

「(前略)それに野心(やしん)をなくすな、などというきまり文句(もんく)もやめてくれ。わたしのように生きる人がすくなすぎるんだ。もちろん、だれもがうさんくさい居酒屋(いざかや)でピアノひきをするべきだなんて思ってやしない。だけど、もっと、たいせつなことに思いをはせるゆとりのある人がいてほしいんだ。金や地位(ちい)、名声(めいせい)なんてくだらない。そんなもの、ただの遊(あそ)び道具(どうぐ)だ。ほんもののおとなは、そんなことにこだわらない。ごくあたりまえのことだ、そうだろう?」と、息(いき)をついだ。

偕成社文庫(若松宣子訳), p.173

第9章

「(前略)それに、『野心をなくすな』なんて決まり文句は聞かせないでもらいたい。ぼくみたいに行きている人間が少なすぎるだけなんだから。といって、もちろん、誰も怪しげな居酒屋でピアノを弾くべきだ、なんて言ってるわけじゃない。ただね、大切なことに思いをはせる時間をもった人間が、もっとふえれば[p.160/p.161]いいと思うだけだ。金や、地位や、名誉なんて、子どもっぽいものじゃないか。おもちゃにすぎない。そんなもの、本物の大人なら相手にしない。どうだ、ちがうかな?」。禁煙さんはちょっと間をおいた。

光文社古典新訳文庫(丘沢静也訳), pp.160-1

「(前略)人間、上昇志向(じょうしょうしこう)がたいせつだ、なんて話は、いっさいごめんだからな。とにかく、世間(せけん)にはぼくみたいな生き方の人間がすくなすぎるんだよ。もちろん、みんながいかがわしい酒場(さかば)のピアノ弾()きになれと言ってるんじゃない。ぼくが願(ねが)っているのは、なにがたいせつかということに思いをめぐらす時間をもつ人間が、もっとふえるといいということだ。金も地位(ちい)も名声も、しょせん子どもじみたことだ。おもちゃだ。それ以上(いじょう)じゃない。ほんもののおとななら、そんなことは意()に介(かい)さないはずだ。ぼくはまちがっているだろうか、ヨーハン?」

禁煙(きんえん)さんはことばを切った。

岩波少年文庫(池田香代子訳), p.180

9時間目(じかんめ)

「(前略)人(ひと)たるものは、向上心(こうじょうしん)をわするべからず、なんていうお説教(せっきょう)もごめんだ。世()の中(なか)、ぼくみたいな生()きかたをする人(ひと)がすくなすぎるんだよ。もちろん、みんながみんな、あやしげな酒場(さかば)のピアノひきになれっていうんじゃない。

ただ、たいせつなことはなにか、考(かんが)えるだけの時間(じかん)を持()った人(ひと)たちが、もっとたくさんいたら[p.184/p.185]いいのにって思(おも)うんだ。お金(かね)とか、地位(ちい)とか、名誉(めいよ)とかにこだわるなんて、子()どもじみたことだよ。おもちゃみたいなものさ。ほんとうのおとななら、そんなものを手()にするのは、どうでもいいことだ。そう思わないかい?」

禁煙(きんえん)さんはちょっと息(いき)をついた。

角川つばさ文庫(那須田淳訳), pp.184-5

第九章

「(前略)つねに上をめざして生きなくては、なんて言い草はごめんだよ。ぼくのような生き方をする人が少なすぎるんだ。だからって、ひどい居酒屋のピアノ弾きになるべしなんて言ってやしない。ぼくはただ、何が大切なことだか、考える時間をもつ人間がもっといてほしいだけなんだ。金、地位、名誉、みんな他愛(たわい)ないしろものだ! 子どものおもちゃのようなもので、ほんとうの大人には何の意味もない。そうじゃないかな?」そしてひと息ついた。

新潮文庫(池内紀訳), p.156

出典:

ドイツ語原典1種(1933年)

・ Dressler = Erich Kästner (1899-1974), Das fliegende Klassenzimmer. (Perthes (DVA), Stuttgart u. Berlin, 1933; Atrium Verlag, Zürich, 1935; Cecilie Dressler, Berlin, 1954; Dressler Verlag, Hamburg, 2017)

英訳本1種(1934年)

・ Kodansha International = Erich Kästner (1899-1974), The Flying Classroom. Trans. by Cyrus Brooks. (Jonathan Cape, London, 1934; Kodansha International, Tokyo, 2007)

和訳本8種(1953年、1960年、1983年、2005年、2006年×2種、2012年、2014年)

・ 国土社 = ケストナー(Erich Kästner, 1899-1974)作、植田敏郎(うえだ としろう, 1908-92)訳 (講談社, 1953年; 国土社, 1996年4月)

・ 岩波世界児童文学集 = ケストナー(Erich Kästner, 1899-1974)作、高橋健二(たかはし けんじ, 1902-98)訳 (東京創元社, 1960年; 岩波書店 世界児童文学集, 1993年12月)

・ 講談社文庫 = ケストナー(Erich Kästner, 1899-1974)作、山口四郎(やまぐち しろう, 1919-2008)訳 (講談社文庫, 1983年1月; 2003年12月)=(講談社 少年少女世界文学館 第15巻, 1987年; 21世紀版 少年少女世界文学館 15, 2011年1月)

・ 偕成社文庫 = ケストナー(Erich Kästner, 1899-1974)作、若松宣子(わかまつ のりこ, b.1973)訳(偕成社文庫, 2005年7月)

・ 光文社古典新訳文庫 = ケストナー(Erich Kästner, 1899-1974)作、丘沢静也(おかざわ しずや, b.1947)訳 (光文社古典新訳文庫, 2006年9月)

・ 岩波少年文庫 = ケストナー(Erich Kästner, 1899-1974)作、池田香代子(いけだ かよこ, b.1948)訳 (岩波書店 岩波少年文庫, 2006年10月)

・ 角川つばさ文庫 = ケストナー(Erich Kästner, 1899-1974)作、那須田淳(なすだ じゅん, b.1959)訳 (角川グループパブリッシング 角川つばさ文庫, 2012年9月)

・ 新潮文庫 = ケストナー(Erich Kästner, 1899-1974)作、池内紀(いけうち おさむ, 1940-2019)訳 (新潮社 新潮文庫, 2014年12月)

上記の他に、

・ ポプラ世界名作童話 = ケストナー(Erich Kästner, 1899-1974)作、最上一平(もがみ いっぺい, b.1957)文 (ポプラ社 ポプラ世界名作童話, 2016年11月)があるが、抄訳に過ぎず、ここに引用する価値を認めず。