西曆1905年3月11日(土)、夏目漱石講演記錄「倫敦のアミユーズメント」(後篇)

中篇( https://sites.google.com/site/xapaga/home/amusementsoflondon2 )からの續き。

今度(こんど)御話(おはなし)をするのは、cockpit と云()ふ、蹴合(けりあひ)です。モウどぅせ今日(けふ)は碌(ろく)な御話(おはなし)は出來(でき)ない斯()ういふ下卑(げび)た御話(おなはし)ばかり、cockpit 鷄(にはとり)の蹴合(けりあひ)、此鷄(このにはとり)の蹴合(けりあひ)が非常(ひじやぅ)なる勢力(せいりよく)のあるもので、決(けつ)して日本(につぽん)見()たやうな汚(きた)ならしい鷄(にはとり)ではない。大變(たいへん)なものです。又(また)鷄(にはとり)の歷史(れきし)を硏究(けんきぅ)して見()ますといふと、・・・・・・隨分(ずいぶん)さぅいふと大層(たいそぅ)ですけれども、或人(あるひと)の說(せつ)に依()ると是()れは希臘(ギリシヤ)から傳(つた)はつたものだと斯()んなことを言()つて居()ります。それは果(はた)してさぅか、どぅかは分(わか)りませんが、何(なん)でも希臘(ギリシヤ)の Themistocles [註25] が戰爭(せんさぅ)に行()く時(とき)に田舍(いなか)を通(とほ)つたのです。するといふと、鷄(にはとり)が二人(ふたり)で—二人(ふたり)ではないな、二羽(には)で喧嘩(けんくゎ)をして居()た。さぅするとそれが Themistocles の目()に留()まつたといふ。Themistocles がどぅも鷄(にはとり)でさえもあゝいふ風(ふぅ)に喧嘩(けんくゎ)をして居()る。況(いはん)や人間(にんげん)たる者(もの)が喧嘩(けんくゎ)せざるを得()んではないか。諸君(しよくん)あれ見()給(たま)へと言()つた(の)です。見()ると一生懸命(いつしやぅけんめい)に蹴合(けりあひ)をやつて居()る。あの鷄(にはとり)は國(くに)の爲(ため)に鬪(たゝか)ふのか恨(うら)みの爲(ため)に鬪(たゝか)ふのか、何(なん)の爲(ため)に鬪(たゝか)ふのか分(わか)らないぢやないか。彼(かれ)は喧嘩(けんくゎ)する爲(ため)に喧嘩(けんくゎ)をするのではないか。武士(ぶし)の標本(へうほん)[註26]だ。戰(たゝか)へ/\と言()つて大(おほ)いに戰爭(せんさぅ)をした。それから Themistocles の催(もよお)しで每年(まいとし)一囘(いつくゎい)鷄(にはとり)の蹴合會(けりあひくゎい)を拵(こしら)へた。是()れは希臘人(ギリシヤじん)の勇気(ゆぅき)を助(たす)ける爲(ため)にさぅ云()ふ吉例(きちれい)としまして每年(まいとし)一囘(いつくゎい)づゝ鷄(にはとり)を蹴合(けりあ)はしたと云()ふ。是()れが抑(そもそ)も蹴合(けりあひ)の濫觴(らんしやぅ)(=始まり、起源)であるといふやぅなことが書()いてある。(笑聲起る) 噓(うそ)かも知()れません、—噓(うそ)かも知()れませんが、兎()に角(かく)東洋(とぅやぅ)[註27]から來()たものだと、斯()ういふことだけは確(たし)かなやぅでありますが、その東洋(とぅやぅ)からして如何(いか)なる人(ひと)が傳(つた)へたか、それもマア分(わか)らないとあります。分(わか)らないけれども、Henry二世[註28]などは大(おほ)いに之(これ)を獎勵(しやぅれい)して、そして悅(よろこ)んでやられたと云()ふ話(はなし)ですから大變(たいへん)古(ふる)くからあつたものに違(ちが)ひないのです。

註25: Themistocles (c.524 BC - 459 BC) とは、ギリシアの政治家・軍人のテミストクレース(Θεμιστοκλής = Themistoklēs)のことだが、講演の中で漱石は英語読みしてセミストクレスと呼んだ。

註26: 「標本」とはお手本のこと。

註27: 漱石は当時の英国人の感覚でギリシアを「東洋」と位置付けた。

註28: イ ングランド国王ヘンリー二世(Henry II, 1133-89; 在位1154-89)のこと。ウィリアム征服王(William I of England or William the Conqueror, c.1028-87; 在位1066-87)の四男ヘンリー一世(Henry I, c.1168-1135; 在位1110-35)の外孫に当たる。

御承知(しよぅち)の通(とほ)り、鷄(にはとり)の蹴合(けりあひ)の運命(うんめい)にも餘程(よほど)消長(せうちやぅ)(=流行(はや)り廃(すた)り)がありまして、或時(あるとき)は非常(ひじやぅ)に流行(はや)り、或時(あるとき)は非常(ひじやぅ)に流行(はや)らなかつたと言()ひます。彼()の Cromwell [註29] などといふ先生(せんせい)[註30]が出()た時(とき)は鷄(にはとり)を蹴合(けりあ)はせる(の)は怪()しからん、止()めて仕舞(しま)へと云()つて鷄(にはとり)を一羽(いちは)も蹴合(けりあ)はせなかつたと云()ふ。(此の時校外へ號外賣り來る)所(ところ)へ號外(がぅぐゎい)が來()た。(笑聲起る) どうもあんなものが來()るといふと、奉天(ほぅてん)[註31]の方(ほぅ)が面白(おもしろ)いですからな。鷄(にはとり)の蹴合(けりあひ)より日本(につぽん)と露西亞(ロシア)の蹴合(けりあ)つてる方(ほぅ)が餘程(よほど)面白(おもしろ)いです。(笑聲起る) 何處(どこ)をやつてるんだか一向(いつかぅ)分(わか)らない。—鷄(にはとり)の蹴合(けりあひ)ですな。鷄(にはとり)の蹴合(けりあひ)のことを敍(じよ)したものがあります。鷄(にはとり)の蹴合(けりあひ)のことに付()ひて大(おほ)いに書()いたものがあります。是()れは御承知(しよぅち)の通(とほ)り Pepys [註32] といふ人(ひと)がありまして、Pepys といふ人(ひと)が昔(むかし)の日記(につき)を書()いたのであります。其(その) Pepys の 日記(につき)は有名(いぅめい)なものでありまして、今(いま)でも文學者(ぶんがくしや)、歷史家(れきしか)の材料(ざいれう)には大變(たいへん)なるものです。何月(なんがつ)何日(なんにち)何處(どこ)そこへ行()つてどんなことがあつたとか、誰(だれ)がいやな奴(やつ)だとか自分(じぶん)のことでも他人(たにん)のことでも遠慮(ゑんりよ)無()しに書()いてある。これは人(ひと)に見()せる爲(ため)に書()いた物(もの)でもありますまいが、どぅいふ具合(ぐあひ)か遺(のこ)つて居()る。此中(このなか)に pit (=闘鶏)の話(はなし)が書()いてある。Pepys 先生(せんせい)が書()いたので、それは千六百六十三年(せんろつひやくろくじふさんねん)に Shoe Lane [註33] ヘ行()つて見()たといふ、其時(そのとき)の話(はなし)が長(なが)く書()いてありますが、面倒(めんだぅ)ですからそんなことは略(りやく)して仕舞(しま)つて大體(だいたい)の御話(おはなし)を申(まぅ)しますと、かぅです。

註29: 1649年に国王チャールズ一世(Charles I, 1600-49; 在位1625-49)を処刑してイングランドの最高位に就いたクロムウェル(Oliver Cromwell, 1599-1658; 護国卿在任1653-1658)のこと。

註30: この場合の「先生」は教員ではなく、殿方(とのがた)程度の意。

註31: 漱石が明治大学で講演したのは日露戦争(Russo-Japanese War, 1904-05)の真最中だった。しかも講演前日の明治38年=西暦1905年3月10日(金)には日本の帝國陸軍(IJA: Imperial Japanese Army)が滿洲(Manchuria)の中心都市だった奉天(ほうてん: 当時の英語名 Mukden; 現在の瀋陽市; 沈阳市; Shěnyáng)で帝政ロシア陸軍と衝突し、日本側が大勝利した。外で聞こえる号外売りの声は奉天での大勝利を伝える新聞だが、当時の号外は現在とは違って有料だった。これ以降、昭和20年=西暦1945年の敗戦まで毎年3月10日は陸軍記念日となった。なお、海軍記念日は同じ1905年の日本海海戦で帝政ロシア海軍のバルト海艦隊に大勝利した5月27日である。

註32: 英国海軍(Royal Navy)の官吏(かんり)で国会議員にもなったサミュエル・ピープス(Samuel Pepys, 1633-1703)のことだが、漱石は誤って「ぺピス」と発音していた様子が明治大学の記録から分かる。ピープスは、十七世紀(1601-1700年)のイングランド社会を伝える貴重な記録を残してくれた日記作者として今日(こんにち)では名高い。その日記は赤裸々(せきらら)な内容が多く盛り込まれていて、他人が読めないように暗号や速記を使用して書かれているが、今日(こんにち)ではほぼ全て解読されている。

註33: 倫敦(ロンドン)の艦隊街(Fleet Street)の一角で、闘鶏場で有名だった。「靴横丁」。

どぅも其鷄(そのにはとり)は非常(ひじやぅ)に頑固(がんこ)な奴(やつ)で、一遍(いつぺん)蹴合(けりあひ)をしだしたらば何時(いつ)まで經()つても止()めない。何時(いつ)までもやるひどい鷄(にはとり)だと書いてある。さぅして側(そば)の者(もの)がワイ/\八釜(やかま)しく言()つて始終(しじゆぅ)賭(かけ)をして喧嘩(けんくゎ)をする。どうも厄介(やつかい)な所(ところ)だとも書()いてある。そこで此鷄(このにはとり)の蹴合(けりあひ)をする場所(ばしよ)は、今の Pepys 先生の description (=記述)でも大分(だいぶ)分(わか)りますが、實(じつ)に下(くだ)らない。大變(たいへん)亂暴(らんぼぅ)な野蠻(やばん)な物(もの)であつたらしいです。それから其構造(そのこぅざぅ)は—cockpit、此處(こゝ)に繪()がありますが、(此時書中の繪を示す) 小(ちい)さいから迚(とて)も分(わか)りますまい。一寸(ちよつと)面白(おもしろ)い繪()です。日本(につぽん)の蹴合(けりあひ)と違(ちが)ひません。家(いへ)が圓形(ゑんけい)に出來(でき)て居()るのです。圓(まる)く出來(でき)て居()りまして、中央(ちゆぅあぅ)が低(ひく)くなつて居()つて周圍(しうゐ)が階段(かいだん)になつて居()ります。さぅして上(うへ)から見()るやぅに出來(でき)て居()ります。

此(この) cockpit の繪()には、有名(いぅめい)な Hogarth [註34] といふ人(ひと)が書()いたのがあります。それは有名(いぅめい)な繪()です。今日(けふ)は持()つて來()ようと思(おも)つたのですけれども忘(わす)れて仕舞(しま)ひました。持()つて來()たつて、此位(このくらい)な大(おほ)きさの繪()ですからあなた方(がた)に御分(おわか)りになりますまいが、持()つて來()れば宜()かつたけれども忘(わす)れましたから序(ついで)の時(とき)に、或(あるひ)は普通(ふつぅ)の時間(じかん)に御見(おみ)せ申(まぅ)しても宜(よろし)いです。但(たゞし)構造(こぅざぅ)は今(いま)御話(おはなし)する通(とほ)り圓(まる)く段々(だん/\)になつて其處(そこ)で蹴合(けりあひ)をやるやぅな仕組(しくみ)になつて居()るのです。

註34: イングランドの画家のホガース(William Hogarth, 1697-1764)のこと。

それから、—何(なん)かツイ其諸方(そのしよほぅ)(=あちこち)をチヨイ/\言()ひますから途切(とぎ)れ/\で甚(はなは)だ續(つゞ)かないから聽()き苦(ぐる)しいかも知()れませぬが、マア御勘辨(ごかんべん)を願(ねが)つて聽()いて戴(いたゞ)く(の)ですが、此(この) cock-fighting は、英吉利(イギリス)ヘ移(うつ)つてどぅいふ風(ふぅ)にやつたかといふと、英吉利(イギリス)では初(はじ)めは田舍者(いなかもの)がやつたものです。市街(しがい)の者(もの)、都(みやこ)の者(もの)は斯()ういふ事(こと)を好(この)まなかつたものと見()ゑまして先()づ田舍(いなか)で鷄(にはとり)でも飼()つて居()る者(もの)、或(あるひ)は鷄屋(にはとりや)の亭主(ていしゆ)見()たやうな者(もの)がやつたものと見()ゑます。

娛樂(ごらく)として田舍(いなか)に限(かぎ)つたものが、漸々(ざん/\)後(のち)になつて都(みやこ)の人(ひと)、身分(みぶん)の高(たか)い人(ひと)、雲上人(うんじやぅびと)までもやるやぅになつた。日本(につぽん)の鷄(にはとり)の蹴合(けりあひ)は近頃(ちかごろ)はやりませぬが、あれは鷄屋(にはとりや)の親方(おやかた)がおもにやる。華族(くゎぞく)さん杯(など)が鷄(にはとり)を蹴合(けりあ)はせるといふことはない樣(やう)です。所(ところ)が英吉利(イギリス)では、上等社會(じやぅとぅしやくゎい)(=上流回階級)もやつたのですから隨(したが)つて鷄(にはとり)の種類(しゆるい)、—後(のち)に御話(おはなし)しますが—又(また)あの蹴合(けりあひ)をする時(とき)の扮裝(ふんさぅ)や何(なん)かは鷄(にはとり)に扮裝(ふんさぅ)などはありませんけれども、—大變(たいへん)なものですよ。そこで此鷄(このにはとり)の蹴合(けりあひ)といふのは殊(こと)に英吉利人(イギリスじん)の非常(ひじやぅ)に熱中(ねつちゆぅ)したもので、大陸(たいりく)の方(ほぅ)では餘(あま)りなかつたのです。あつたかは知()りませんけれども英吉利(イギリス)ほど盛(さか)んでなかつた。獨逸人(ドイツじん)が英吉利(イギリス)ヘ來()て cockpit を見()て非常(ひじやぅ)に驚(おどろ)きまして、其(その)盛(さか)んなること皆(みな)が熱中(ねつちゆぅ)して居()ることに驚(おどろ)いて、故鄕(こきやぅ)へ手紙(てがみ)を遣()つたといふ話(はなし)がある。英吉利(イギリス)で英吉利人(イギリスじん)が狂氣(きよぅき)の樣(やぅ)に騷(さわ)ぐのは、國會議員(こくくゎいぎいん)の選擧(せんきよ)と、それから鷄(にはとり)の蹴合(けりあひ)だと書()いてある。ですから非常(ひじやぅ)に熱心(ねつしん)にやつたものと思(おも)はれるのです。

是()れからどんな鷄(にはとり)を選(えら)ぶかといふことに付()ひて一寸(ちよつと)御話(おはなし)をしますが、先()づ第一(だいいち)形(かたち)ですね。それから色(いろ)、それからどの位(くらい)鷄(にはとり)が强(つよ)いかといふこと、强(つよ)くなければ駄目(だめ)ですからね。それから蹴爪(けりづめ)です。其等(それら)の點(てん)を綜合(そぅがふ)して是()れは良()い鷄(にはとり)だ、是()れは惡(わる)い鷄(にはとり)だといふやぅなことを判斷(はんだん)をして仕立(した)てるのです。先()づ形(かたち)の方(ほぅ)から言()ひますといふと餘(あま)り大(おほ)きくつてはいけないですな。後(あと)で御話(おはなし)をしますが、此鷄(このにはとり)を蹴合(けりあ)はせるに付()ひては目方(めかた)を量(はか)る(の)です。何(なん)ポンド[註35]以上(いじやぅ)のものは這入(はい)れない。何(なん)ポンド以下(いか)のは這入(はい)れない。好()い加減(かげん)な重(おも)さの鷄(にはとり)でなければいけないのですから、餘(あま)り大(おほ)きな鷄(にはとり)も小(ちい)さな鷄(にはとり)もいけない。色(いろ)は鼠色(ねずみいろ)、黃色(きいろ)、或(あるひ)は赤色(せきしよく)、或(あるひ)は胸(むね)だけが黑(くろ)いといふ。黃色(きいろ)の鷄(にはとり)などといふのがあるでせうか[註36]。併(しか)し本(ほん)にはチヤンと書()いてある。それから鷄(にはとり)がどの位(くらい)强(つよ)いかといふことは鷄(にはとり)のチヤンと立()つて居()る姿勢(しせい)で分(わか)るといふ。歩(ある)き方(かた)などが鷹揚(おぅやぅ)に歩(ある)く鷄(にはとり)は强(つよ)いだらぅ。それから嗚()き方(かた)で分(わか)るだらぅといふ。そんなことから是()れは良()い、是()れは惡(わる)いといふことを極()めるのです。

註35: ポンド(pound パウンド)はイギリスの重さの単位で、メートル法に換算すると、0.45359237キログラム(=453.59237グラム)に相当。

註36: 日本で言う「茶封筒」(茶色い封筒)は、イギリスでは a yellow envelope (ァイェロウエンヴェロウプ: 「黄色い封筒」の意)であるから、yellow cocks (イェロウコックス: 「黄色い鶏(ニワトリ)たち」の意)も辻褄(つじつま)が合う。

それから爪(つめ)ですな。此爪(このつめ)は銳(するど)い爪(つめ)である。或(あるひ)は鈍(にぶ)い爪(つめ)であるといふ鑑定(かんてい)をつける。そんなことで何()うか斯()うか其鷄(そのにはとり)の善惡(ぜんあく)(=良()し悪()し)を極()める。併(しか)しながら其鷄(そのにはとり)がさぅいふ風(ふう)に大切(たいせつ)な鷄(にはとり)でありますから初(はじ)めから卵(たまご)から孵(かへ)すこともやるのです。買()ふこともありませうが、途中(とちゆぅ)から卵(たまご)を孵(かへ)すときになると、誰(だれ)と誰(だれ)の卵(たまご)だといふことを大變(たいへん)吟味(ぎんみ)するのです。どの鷄(にはとり)とどの鷄(にはとり)でつがつて出來(でき)た卵(たまご)だと斯()ういふのです。それからそれを孵(かへ)しますな。それから養育(やぅいく)をするといふ。或(あるひ)は卵(たまご)を盗(ぬす)みに行()くといふ騷(さわ)ぎになる。大變(たいへん)な騷(さわ)ぎ、非常(ひじやぅ)に熱心(ねつしん)なものです。そこで卵(たまご)が手()に入(はい)つて由緒(ゆいしよ)正(ただ)しい卵(たまご)だといふ認(みと)めが付()くと孵(かへ)します。孵(かへ)しますときには非常(ひじやぅ)に注意(ちゆぅい)して見()て居()るのです。其(その)見()て居()つて駄目(だめ)なのがある。適當(てきたぅ)な徴候(てうこぅ)を現(あら)はさない。すると仕樣(しやぅ)がないから是()れは絞()めて食()つて仕舞(しま)ふといふ。斯()ういふ譯(わけ)、當然(たぅぜん)の話(はなし)ですが。どぅいふのが惡(わる)い徴候(てうこぅ)かと申(まぅ)しますと斯()ういふことが書()いてあります。

鷄(にはとり)が六ケ月(ろつかげつ)以前(いぜん)に鳴()いてはいかない。妙(めう)なことですな。六ケ月(ろつかげつ)以前(いぜん)に鳴()いてはいけず、然(しか)も其鳴方(そのなきかた)が明(あきら)かなる聲(こゑ)を出()してさぅして太(ふと)い聲(こゑ)を出()して鳴()いてはいかない。それから時(とき)を限(かぎ)らないで鳴()いてはいかない。朝(あさ)か晩(ばん)か分(わか)らないで無暗(むやみ)にコケコツコ[註37]と鳴()く鷄(にはとり)は迚(とて)も駄目(だめ)です。そんな時(とき)を知()らない鷄(にはとり)は迚(とて)も物(もの)に成()れない。是()れは蹴合(けりあひ)には使(つか)へない。是()れは臆病(おくびやぅ)で、さぅして噓(うそ)を吐()くやぅな鷄(にはとり)だと云()ふ。成程(なるほど)夜明(よあ)けに鳴()くべき鷄(にはとり)が夜(よる)鳴()くと噓(うそ)を吐()いて居()る。さぅいふことはいけないと云()ふ。

註37: 日本で言う「コケコッコー」が英語では、cock-a-doodle-doo (コッドゥードゥルドゥー)となる。

それと反對(はんたい)で、本統(ほんとぅ)の鷄(にはとり)になりますといふとどぅも時(とき)を限(かぎ)つて何時(いつ)でも間違(まちが)ひのない所(ところ)を鳴()くと斯()ういふのです。さぅいふ鷄(にはとり)は十分(じふぶん)仕立(した)てるといふ譯(わけ)です。其(その)仕立(した)てる方法(はぅはふ)が、マア大變(たいへん)難(むづか)しいのですな。

先()づマア pit と云(い)ひまして、蹴合(けりあひ)をさせる場所(ばしょ)に入()れる前(まへ)にはいろ/\な養育(やぅいく)が要()る(の)ですな。Training、ちやぅど今(いま)で云()ふと運動會(うんどぅくゎい)の training 或(あるひ)は短艇(たんてい)(=ボート) race をやる前(まへ)に皆(みな)が食物(たべもの)とか飲物(のみもの)に非常(ひじやぅ)に氣()を付()けるのと同(おな)じことのやぅに鷄(にはとり)でも、それが六週間(ろくしぅかん)掛(かゝ)ります。初(はじ)めの四日(よつか)は何(なに)を食()はせるかと云()ひますと、麵麭(パン)を食()はせる。麵麭(パン)を四角(しかく)に切()りまして此位(このくらい)な小(ちい)さな四角(しかく)な片(へん)にして食()はせる。それを其(その)、日()の出()る時(とき)位(ぐらい)に食()はせる(ん)ですな。それから晝(ひる)丁度(ちやぅど)ドン[註38]が鳴()ると食()はせる。日()が沒(ぼつ)すると食()はせる。三遍(さんべん)食()はせる。さぅいふ風(ふぅ)に四日間(よつかかん)麵麭(パン)を食()はせて置()いて、それから今度(こんど)五日目(いつかめ)になりますと外(ほか)の鷄(にはとり)と假()りに試合(しあひ)をさせる、本統(ほんとぅ)にさせるのではない。マアどの位(くらい)喧嘩(けんか)が出來(でき)るかといふ、是()れは spar (=闘鶏)と云()つて外(ほか)の鷄(にはとり)と假()りに試合(しあひ)をさせる。其時(そのとき)には手袋(てぶくろ)のやぅな物(もの)を嵌()めて蹴合(けりあひ)をさせる。滅多(めつた)に(=滅多なことでは)引掻(ひつか)いてはいかない。手袋(てぶくろ)ではない。足(あし)へ嵌()めますから足袋(たび)と言()ひますか、皮(かは)で拵(こしら)へた袋(ふくろ)を嵌()めて蹴合(けりあひ)をさせて見()るのです。それが濟()むといふと今度(こんど)は汗(かせ)を發()かせます。汗(あせ)を發()かせるといふのはどぅいふことかと云()ふと、桶(おけ)の中(なか)ヘ藁(わら)を一杯(いつぱい)詰()めまして其中(そのなか)ヘ鷄(にはとり)を入()れる。藁湯(わらゆ)をつかはせるといふ位(ぐらい)に溫(あたゝか)い所(と ころ)へ入()れてやる(の)です。さぅして砂糖水(さたぅみず)を飮()ませます。それから牛酪(バター)を舐()めさせます。大變(たいへん) な手數(てすぅ)です。それから夕刻(ゆふこく)になるといふと stove の中(なか)から出()してやります。Stove の中(なか)から出()してやつて眼()と頭(かしら)を飼主(かひぬし)が舐()めてやる。何故(なぜ)舐()めるんだか分(わか)らないと此本(このほん)に書()いてあります。(笑聲起る) 分(わか)らないでせうな。併(しか)しながら舐()める方(ほぅ)が强(つよ)くなると云()ふ。元來(ぐゎんらい)日本(につぽん)でも鷄冠(とさか)などを舐()めて居()ますよ。是()れがマア其修業(そのしぅげふ)の第一期(だいいつき)です。

註38: 明治期の日本では正午に大砲から空砲(くうほう)を鳴らして時を告げた。また、平成に入り週休二日制が定着する以前の昭和期の日本語では土曜に半日で帰宅できることを「半ドン」と言ったのも明治期の空砲に由来する。

それから後(あと)に食()はせる物(もの)は先()づ biscuit を食()はせたり、或(あるひ)は麥(むぎ)の粉(こな)を食()はせる。或(あるひ)はビールを飮()ませますな。(笑聲起る) それから卵(たまご)の白味(しろみ)を食()はせる。鷄(にはとり)のくせに卵(たまご)を食()ふのは妙(めう)ですな。自分(じぶん)で自分(じぶん)を食()つて居()るやぅなものですな。尤(もつと)も白味(しろみ)だけを食()ふのです。それから運動(うんどぅ)をさせる。其運動(そのうんどぅ)の方法(ほぅはふ)は、此位(このくらい)の圍(かこ)つた所(ところ)ヘその鷄(にはとり)を入()れて置()きまして、私(わたくし)なら私(わたくし)が蹴合(けりあひ)の出來(でき)ない極()く駄鳥(だちやう)ですな、役(やく)に立()たない鷄(にはとり)を抱()いて見()せる。さぅして追駈(おつか)けさせる。私(わたくし)が鷄(にはとり)を持()つて逃()げると其鷄(そのにはとり)が跡(あと)を駈()けて來()ませう。さぅいふ風(ふぅ)にして日々(ひゞ)運動(うんどぅ)をする。時々(とき/\゛)は其鷄(そのにはとり)を出()して突()つかして見()るといふことをする。それから後(あと)に又(また)菜葉(なつぱ)を食()はせる。牛酪(バター)を舐()めさせるといふ。斯(かく)の如(ごと)く training を重(かさ)ねて行()きまして、それから先()づ第一ケ月(だいいつかげつ)が濟()んで愈々(いよ/\)試合(しあひ)の始(はじ)まる二週間(にしぅかん)ばかり前(まへ)になるといふと、斯()んなに運動(うんどぅ)させては身體(からだ)に障(さは)るといふので止()めるのです。それから戲談(げだん)(=冗談)の蹴合(けりあひ)、是()れも暫(しばら)く止()めさせます。唯(たゞ)時々(とき/\゛)下(くだ)らない鷄(にはとり)を追駈(おつか)けさしたりするのです。愈々(いよ/\)四日前(よつかまへ)から碌(ろく)に運動(うんどぅ)もしなければ、何(なに)もしないでも宜(よろし)い。唯(たゞ)遊(あそ)ばして寐()かせて置()くのです。それから四日目(よつかめ)には、今度(こんど)は愈々(いよ/\)蹴合(けりあひ)をさせるといふので愈々(いよ/\)身體(からだ)を飾(かざ)る(の)です。其(その)飾(かざ)り方(かた)は面白(おもしろ)いのですがな。頭(あたま)の毛()は坊主(ぼぅず)にヂヨキ/\切()つて仕舞(しま)ふ。クリ/\坊主(ぼぅず)にする。五分刈(ごぶがり)(=9ミリに刈り込んだ短い髪形)三分刈(さんぶがり)(=6ミリに刈り込んだ短い髪形)にする。それから頸(くび)の所(ところ)も切()つて仕舞(しま)ふ。其他(そのた)尻尾(しつぽ)は丁度(ちやぅど)扇(あふぎ)を開(ひら)いた如(ごと)く切()ります。

それから羽(はね)ですな。翼(つばさ)ですな。翼(つばさ)を一本(いつぽん)/\に、斜(はす)かけに切()る(の)です。一本(いつぽん)/\に切()るのです。是()れは羽搏(はゞた)きをしたときに敵(てき)の眼()を潰(つぶ)すためです。それから足(あし)へ以(もつ)て來()て、針(はり)を嵌()めます。吾々(われ/\)が靴(くつ)の此處(こゝ)へ嵌()めるやぅなもの、足(あし)で蹴()るのでせう。蹴()るときに普通(ふつぅ)の蹴()り方(かた)ではいかないから其處(そこ)へ以(もつ)て來()て外科醫者(げかいしや)の使(つか)ふやぅな曲(まが)つた針(はり)を嵌()めるのです。それは銀(ぎん)で出來(でき)て居()るのと、鋼(はがね)で出來(でき)て居()るのがあります。賭(かけ)の安(やす)い時(とき)には鋼(はがね)の方(ほぅ)を使(つか)ふ。といふのは鋼(はがね)の方(ほぅ)が强(つよ)うございますからウンとやると早(はや)く勝負(しよぅぶ)が着()いて仕舞(しま)ふ。銀(ぎん)は左程(さほど)に銳(するど)くないから長(なが)く戰爭(せんそぅ)(=戦い)が續(つゞ)くので大(おほ)きな賭(かけ)をする。百磅(ひやくポンド)とか二百磅(にひやくポンド)とかいふ大(おほ)きな金(かね)で賭(かけ)をする時(とき)は成()るべく鬪(たゝか)ひを長引(ながび)かせる方(ほぅ)が宜(よろし)いですから銀(ぎん)を嵌()める。

斯()うやつて初(はじ)めて蹴合(けりあひ)の場所(ばしよ)へ出()すのですから、なか/\金(かね)が要()る。貧乏人(びんぼふにん)には出來(でき)ないことです。日本(につぽん)の鷄屋(にはとりや)の親方(おやかた)などがやるのとは大變(たいへん)な相違(さぅい)です。非常(ひじやぅ)に金(かね)の掛(かゝ)る、手數(てすぅ)の掛(かゝ)ることをやらなければならんのです。それから鷄(にはとり)を愈々(いよ/\)出()すことが出來(でき)るといふ場合(ばあひ)になると、今度(こんど)は鷄(にはとり)の會(くゎい)といふものをやります。蹴合(けりあひ)をする會(くゎい)といふものが始(はじ)まる。

其會(そのくゎい)には幾通(いくとほ)りもありますが、其大(そのおほ)きなものを Main (=主要)と言()ひます。宇()の意味(いみ)から言()ふと、主(おも)なるものという義()であります。相撲(すまふ)なら相撲(すまふ)で云()ふと、それは大相撲(おほずまふ)というやつです。其中(そのなか)には Bye-battle、或(あるひ)は Welch、或(あるひ)は Battle Royal といふのがあります。それは後(あと)から說明(せつめい)しますが。

そこで、Main ということをやる前(まへ)に、卽(すなは)ち大相撲(おほずまふ)をやらせる前(まへ)には大變(たいへん)な儀式(ぎしき)が要()るものです。卽(すなは)ち鷄(にはとり)を澤山(たくさん)寄()せまして目方(めかた)を量(はか)らねばならぬ。誰(だれ)と誰(だれ)とを蹴合(けりあ)はせるということを極()めねばならぬ。卽(すなは)ち愈々(いよ/\)大相撲(おほずまふ)の始(はじ)まる一週間(いつしぅかん)前位(まへぐらい)或(あるひ)は何日(なんにち)か前(まへ)にそれをやるのです。其何月(そのなんがつ)何日(なんにち)に出會(であ)つて目方(めかた)を量(はか)るといふことは其個条書(そのかでうがき)があつて細々(こま/\゛)しいことに至(いた)るまで是()れは法律的(ほぅりつてき)の文句(もんく)でチヤンと認(したゝ)めてある。併(しか)しながら、此鷄(このにはとり)と此鷄(このにはとり)と蹴合(けりあ)はせることが極(きま)つて未()だ三日(みつか)なら三日(みつか)蹴合(けりあひ)をするまでは間()があれば其間(そのま)に目方(めかた)を增()さぅとも勝手次第(かつてしだい)。增()さぅと思(おも)へば美味(おい)しい物(もの)を食()はせたりして成()るべく精(せい)をつけてやる。それは當人(たぅにん)の勝手次第(かつてしだい)でありますけれども、其目方(そのめかた)を掛()け合()はせる時(とき)には、非常(ひじやぅ)に嚴重(げんぢゆぅ)な手續(てつゞ)きを要(えう)するのです。それで其目方(そのめかた)はどの位(くらい)あるかと云()ふと、先()づ三(さん)ポンド八(はち)オンス(=3.5ポンド=約1,588グラム)から四(よん)ポンド十(じふ)オンス(=4.625ポンド=約2,098グラム)と斯()ういふ。それよりも重(おも)い鷄(にはとり)、それよりも輕(かる)い鷄(にはとり)は皆(みな)掃󠄁出(はきだ)されて仕舞(しま)ふ。尤(もつと)も是()れはそれより重(おも)い鷄(にはとり)でも番組(ばんぐみ)(=大会)の中(なか)へ這入(はい)れないからして、番外(ばんがい)御好(おこの)みといふことでやらしても構(かま)はない。

それで此(この) Main といふのは三通(さんとほ)りあります。卽(すなは)ち今(いま)の大相撲(おほずまふ)といふのが三通(さんとほ)りありまして、一番(いちばん)長(なが)いのが一週間(いつしぅかん)續(つゞ)く、每日每日(まいにち/\)やつて一週間(いつしぅかん)續(つゞ)く。是()れは倫敦(ロンドン)に居()る總(すべ)ての鷄(にはとり)の持主(もちぬし)と地方(ちほぅ)の鷄(にはとり)の持主(もちぬし)との競爭(きやぅさぅ)の相撲(すまふ)です。倫敦(ロンドン)の鷄(にはとり)と地方(ちほぅ)の鷄(にはとり)と競爭(きやぅさぅ)する。一週間(いつしぅかん)の蹴合(けりあひ)だといふので地方(ちほぅ)から態々(わざ/\)出()て來()るのです。是(これ)を Long Main と唱(とな)へ(=称し)ます。それから短(みじか)いのになると三日(みつか)或(あるひ)は二日(ふつか)位(ぐらい)で濟()む。

それからもぅ一つ Welch というのがある。此(この) Welch には金盃(きんぱい)(=トロフィー)を賭()けたり豚(ぶた)何頭(なんとぅ)を賭()けたり其他(そのた)いろ/\な褒美(ほぅび)を遣()つてやるのですが、是()れは Welch Main となると稱(とな)へる(=称す)のです。是()れは十六羽(じうろくは)の鷄(にはとり)を選(えら)んで八羽(はちは)ずつ組合(くみあ)はせてやる。勝()つて殘(のこ)つた八羽(はちは)を又(また)四羽(よんは)づゝに分()けて又(また)やらせる。四羽(よんは)殘(のこ)つた鷄(にはとり)を、又(また)分()けて今度(こんど)は二羽(には)になるまでやつて、二羽(には)で何方(どつち)か勝()つたものが最後(さいご)の勝利(しよぅり)を占()めるといふ遣()り方(かた)です。

又(また) Battle Royal は十羽(じうは)とか二十羽(にじうは)の鷄(にはとり)を一度(いちど)に放(はな)し、勝手次第(かつてしだい)に喧嘩(けんくゎ)をさせる。誰(だれ)が誰(だれ)を突()つくやら、後(うしろ)から突()ついたり前(まへ)から突()ついたり何處(どこ)の敵(てき)を蹴()つて居()るか分(わか)らない。それから役人(やくにん)が立會(たちあ)ひます。行司(ぎやぅじ)という譯(わけ)で。それが二人(ふたり)でありまして、feeders 又(また)は setters-to と云()ふ名()であります。是()れは鷄(にはとり)と鷄(にはとり)が場所(ばしよ)(=リング)へ出()ますと鷄(にはとり)の態度(たいど)を拵(こしら)へてやる。鷄(にはとり)の嘴(くちばし)と嘴(くちばし)とを持()つて來()てチヤンと合()はせるやぅにしてやる。又(また)毛氈(もぅせん)や何(なに)かに足(あし)をからんだりすると直(なお)してやる。さぅいふ役(やく)をする人(ひと)が二人(ふたり)。モウ一(ひと)つは teller of the law と言()ひまして法律(はふりつ)を話(はな)す人(ひと)と譯(わけ)のつく役(やく)です。それは審判官(しんぱんかん)です。此審判官(このしんぱんかん)はどんなことをするかと云()ふと此場所(このばしよ)では大變(たいへん)な賭(かけ)をする。金錢(きんせん)の出入(でいり)でありますから頗(すこぶ)る八釜敷(やかまし)い。從(したが)つて其賭(そのかけ)をやるには非常(ひじやぅ) に六ケ敷(むつかし)い儀式(ぎしき)、細々(こま/\゛)しいことを覺(おぼ)えて居()らなければならぬ。滅多(めつた)なことをやると爭(あら そ)ひが出來(でき)ますから、專門(せんもん)にこんな役(やく)を作(つく)つて便宜(べんぎ)を計(はか)つたものと見()えます。さぅして其賭(そのかけ)には大變(たいへん)なのがあります。五百磅(ごひやくポンド)から千磅(せんポンド)、日本(につぽん)の四千圓(よんせんゑん)から一萬圓(いちまんゑん)といふのがある。尤(もつと)も賭(かけ)の種類(しゆるい)にはー度每(いちどごと)にかけるのと悉皆(しつかい)(=悉(こと/\゛)く)の全勝(ぜんしよぅ)に賭()けるのといろ/\ありますけれども、兎()に角(かく)さぅいふ莫大(ばくだい)な賭(かけ)をする。そこで teller of the law といふのが前(まへ)申(まぅ)す通(とほ)り勝負(しよぅぶ)の上(うへ)についていろ/\な世話(せわ)を燒()く(の)です。例(たと)へば鷄(にはとり)にも狡猾(かぅくゎつ)なのがありまして、敵(てき)に容易(よぅい)に掛(かゝ)らない。遠(とほ)くから形勢(けいせい)を觀望(くゎんばぅ)(=傍観)して居()るのがあります。さぅすると困(こま)る(の)です。Long Main と言()ひまして、例(たと)へば一週間(いつしぅかん)も續(つゞ)くときには到底(たぅてい)早(はや)く片付(かたづ)けなければならぬのに何時(いつ)までも「待()つた」をして愚圖々々(ぐず/\)して居()つては仕樣(しやぅ)がない。其時(そのとき)は此(この) teller of the law が斯()んな風(ふぅ)な捌(さば)き方(かた)をする。卽(すなは)ち勘定(かんぢやぅ)をするのです。一(いち)、二()、三(さん)、四()、と、廿(にじふ)迄(まで)を二遍(にへん)繰()り返(かへ)します。それでも鷄(にはとり)が立()ち合()はなければ、又(また)十(じふ)を十遍(じつぺん)繰()り返(かへ)して百(ひやく)まで云()ひます。然(しか)も其間(そのかん)にいろ/\な文句(もんく)を言()ふ。Once refused (=一度拒否された)とか、Twice refused (=二度拒否された)とか、十(じふ)の切()れ目()每(ごと)に呼()びます。夫(それ)で十(じふ)を十遍(じつぺん)くり返(かへ)して時(とき)を計(はか)つてもまだ鷄(にはとり)が、蹴合(けりあ)はない事(こと)がある。すると見物(けんぶつ)の中(なか)から其鷄(そのにはとり)は駄目(だめ)だから止()めろと云()ふ。若()し其鷄(そのにはとり)が勝()ちだと賭()ける者(もの)があるならばこちらは四十(よんじふ)賭()けるがどぅだと云()つて、土俵(どへう)の上(うへ)へ帽子(ぼぅし)を投()げて相手(あいて)を探()がすのです。それでも應(おぅ)ずる者(もの)がないと鷄(にはとり)は土俵(どへう)から下()げられて仕舞(しま)ふ。凡(すべ)てこんな處置(しよち)をつける爲(ため)に、tellers of the law がくつ着()いて居()る。

それから先刻(せんこく)一寸(ちよつと)御話(おはなし)をしました Hogarth という人のかいた蹴合(けりあひ)の圖()の中(なか)に斯()ういふ所(ところ)がかいてあります[註39]。鶏(にわとり)が蹴合(けりあひ)をして大勢(おほぜい)見()て居()ると、何(なん)だか畫面(ぐゎめん)ヘ影(かげ)が差()して居()る。其影(そのかげ)が妙(めう)な影(かげ)で、段々(だん/\)調(しら)べて見()ると斯()ういふ譯(わけ)なのです。

賭(かけ)をする場所(ばしよ)ですな。賭(かけ)をする場所(ばしよ)に金(かね)を持()たないで這入(はい)り込()む奴(やつ)が時々(とき/\゛)ある。或(あるひ)は僞金(にせがね)を使(つか)ふ奴(やつ)があります。さぅいう奴(やつ)は妙(めう)な刑罰(けいばつ)になるのです。籠(かご)がありましてギユーツと旗竿(はたざお)の上(うへ)へ釣(つる)す具合(ぐあひ)に其籠(そのかご)の中(なか)へ其人間(そのにんげん)を入()れて棒(ぼぅ)の先()きへ釣(つる)して見()せる(の)です。Hogarth の畫()[註40]にある所(ところ)は其興行場(そのこぅぎやぅじやぅ)の屋根(やね)の先()きへ其奴(そやつ)がつるされて時計(とけい)を出()して居()る所(ところ)が地面(ぢめん)に冩(うつ)つたものださぅです。此時計(このとけい)を遣()るから勘辨(かんべん)して吳()れ、降(おろ)して吳()れ、降()ろして吳()れといふ意味(いみ)を畫()で示(しめ)したものださぅです。詰(つま)り自分(じぶん)が金(かね)を持()たずに賭(かけ)をしたのは誠(まこと)に濟()まないから、此時計(このとけい)を賭(かけ)(=賭け金)の代(かは)りに取()つて吳()れと云()ふことを畫工(ぐゎこぅ)だから、かぅ云()ふ趣向(しゆかぅ)で描(ゑが)いたのです。

註39 & 40: 下記はホガースの版画に関する参照リンク。

http://www.museumoflondonprints.com/image/142372/william-hogarth-the-cockpit-1759

http://exhibits.library.northwestern.edu/spec/hogarth/politics4.html

http://www.artoftheprint.com/artistpages/hogarth_william_pitticketthecockpit.htm

https://www.google.co.jp/search?q=Hogarth+cockpit&biw=1366&bih=635&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwjj3YeK07fJAhVEmZQKHUA-C9MQsAQIGg

マア、そんなものですな。モウ三時(さんじ)十分(じつぷん)ですから大抵(たいてい)宜(よろ)しうございませう。今度(こんど)は面白(おもしろ)い話(はなし)をしますよ。今日(けふ)は面白(おもしろ)くないのみならずゴタ/\して秩序(ちつじよ)がなくつて御聞(おき)き苦(ぐる)しかつたでせう。併(しか)し此(これ)でも面白(おもしろ)いと思(おも)ふ人は勝手(かつて)に面白(おもしろ)いと思(おも)つて下(くだ)さい。(拍手喝采)

【參考】

著作權切れの文藝作品をウェブ上で公開してゐる青空文庫に夏目漱石(なつめ そうせき, 1867-1916)の「倫敦消息」(明治卅四年=1901年)と「倫敦塔」(明治卅八年=1905年)と「カーライル博物館」(明治卅八年=1905年)は収錄されてゐるが、當該(たぅがい)の「倫敦のアミユーズメント」(明治卅八年=1905年)はまだ収錄されてゐない。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/779_14973.html

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/1076_14974.html

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/1046_14938.html