西曆2011年 3月13日(日) 個人電子書簡(原田の一番長い日)

Subject: 原田の一番長い日

Date: Sunday, 13 March, 2011 3:03

From: "HARADA, Toshiaki"

〇〇先生

一昨日(金曜)は一生忘れないほど異様な日でした。新宿駅Southern Terrace口を出る時に左腕の電波時計を見たら13:22でした。14:00開始のPuccini作曲短篇オペラ2本立て(於、新国劇中劇場)に充分間に合うので、初台の方角へ甲州街道を西へと歩き出しました。普段は街道の北側(新宿区側)を歩くのですが、ちょいと込んでいる様子なので、珍しく南側(渋谷区側)を歩きました。すると左の脇道から出てきて物凄い勢いで小生の左肩にぶつかる男が現れました。最初は何のことやら判然とせず物盗り風情かと思いましたが、「この野郎!」と難癖をつけてきたので所謂「当り屋」というチンピラの様でした。コートの襟を掴まれたので、こちらも奴のTシャツの襟の辺りを掴み、(すぐに散ってしまう通行人は証人としてアテに成らないので)敢えてコピー屋の店舗に入りました。目的は、1) 防犯カメラに犯行(凶行)の一部始終を撮影させること、2) 店員の証言を取ること、3) 店員に警察を呼んでもらうことの3点です。奴は大柄で土色の顔をした怪力の持ち主で、警察が駆けつける迄の間に小生は一度はカーペットの床に倒され、一度は左顎を殴打されましたが、相手の襟を摑んでいたお蔭で破壊力はごく限定的で、後頭部が多少クラッときた程度で済みました。これも防犯カメラのためだと自らに言い聞かせ、敢えて反撃はしませんでした。

近所の交番から警官が3人来ましたが、犯人の言動が実にチグハグなので、小生は「此奴は違法ドラッグをやっている」と訴えました。交番でもこの犯人、完全にラリッていて、小生によって破られたTシャツ(厳密には小生が抑えていたところを奴が動くので破れてしまったTシャツ)が6万円だから弁償しろだの(ちなみに小生の春物コートとボタンダウンシャツもズタズタ)、挙句の果てには暴力団関係者であるかのようなことまで仄めかす始末なので埒が明かず、パトカーに別個で乗り込んで、この地域を所管する警視庁原宿署へ行きました。

原宿署で相手の身元を洗ってもらったところ、現在34歳で、過去に1度犯歴があるとのことでしたが、所謂「マル暴」ではない只のゴロツキとのことでした。クスリに関しては小生の直観的確信とは裏腹に精神科の処方薬Halcionしか出てきませんでした。ラリッていたのはHalcionが原因と聞いて小生は落胆しました。更に追い打ちを掛ける如くにコピー屋の店舗に防犯カメラは無いとも聞かされました。警察曰く、証拠が無いので起訴は難しい、相手の服も破れているので、被害届を出すと、相手も出すだろう、と。おまけに相手は精神病患者として通院中なので、警察も「障碍者の人権」云々とやらで及び腰です。然れども斯様に危険な気違いが野放し状態では安心して道も歩けませぬ。今後また似たような騒動、或いはもっと深刻な事件を起こすでしょう、と警察に警告しましたが、警官曰く「警察は未来のことは関知しない。今のことしか扱わない」と。日本にも英国流のcare in the communityなる概念が入って来ているようで、昔のような隔離病棟(英国でいうBedlam)の時代が懐かしい限りです。

犯人の取り調べを別室で待っている間に件の大地震が起こりました。大型客船に乗って波に揺られているような感覚でした。原宿署(隣は警察OB天下り先のSecom)は堅牢で頑丈な重量級の建物なので、中に居る分には安全でした。九段會館の天井が崩落しただの、路上で人が倒れている等の被災状況が次々と入って来ました。警察もにわかに忙しくなってきたので、路上のつまらない乱闘騒ぎを事件化する意思も無い様子でした。この光景に小生は今回の事件のことなどどうでも良くなりました。人が大勢死んでいるかも知れない状況(死傷者に就いてはずっと後になって知りましたが)の中で気が大きくなったということもあります。いつまでも警察署に居座っていては警察の仕事の邪魔になるばかりだとも考えました。小生は和解も弁償も無し、被害届も出さない(要するに何もしない)と犯人と警察に告げて原宿署を辞去することにしました。警察の監視つきで犯人を先に出して、その5分後に小生が警察の護衛つきで出ることになりました(犯人を先に出したのは、奇声を発する大柄な怪力男に警察も手を焼いていたからだと思われます)。すると原宿署のすぐ近くで犯人が大声で警官に散々駄々を捏ねて困らせていました。異様な光景です。しかしその若い警官(S巡査長)だけは小生よりも犯人に同情的だったので(曰く「あの人は病気と闘っているんですよ」)、いい薬に成るでしょう。気づかれないよう、その場を抜け出し、神宮外苑の方向へ歩き出しました。

もう16:00を過ぎていて、歌劇が終わった頃です。ティケット代金四仟貮佰圓也をドブに捨てる羽目に相成りました。とんだ災難です。途中、地下鉄赤坂見附駅で公衆電話の行列に並んで墨田区立のトリフォニーホールに電話しました。「電車が全部止まっているので、今晩の演奏会はさすがに中止ですよね?」と訊いたところ、電車が止まっても演奏会は決行するとのこと。こうなったら意地でも錦糸町まで歩いてやる、と心に誓いました。

多少道に迷いながら、人の波を掻き分け掻き分け飲まず食わずで4時間近く歩きました。途中、首相官邸南や浅草橋の東横イン(演奏会前)、錦糸町のロッテ・シティ・ホテル(演奏会後)のフロントを覗いてみましたが、ロビーの椅子や床を帰宅困難者たちが占拠していました。これまた異様な光景ですが、ホテル側も黙認です。道中、両国橋の眼下には隅田川がドス黒い、いつにないほどの異様な急流となって迸っていました。1945年3月10日未明に多くの被災者がこの川に身を投げた歴史を思い出し、戦慄を禁じ得ませんでした。

やっとのことで演奏会場に着いてみると、前半のWagnerの前奏曲は終わっていて休憩時間でした。後半のMahler交響曲第5番には間に合ったので良かったです。客は殆ど居らず、まるで和製ドイツ語で言うゲネプロ(Generalprobe)のようでした。イギリスから来日していた指揮者Daniel Harding氏は最後に出血大サービスを断行し、客の皆と記念撮影に応じたり、急拵えのサイン会やら握手やらと、凄い展開になりました。最後はトリフォニーホールの好意で小ホールのロビー(foyer)やホール客席や舞台を開放してくれたので、私はホールの床に自分のボロボロのコートを拡げて寝ました。小ホールの床はフローリングの大ホールと違ってカーペットだったので良かったのですが、今も首や背中が痛いです。

翌朝(土曜朝)は半蔵門線・田園都市線が動いていることが分かったので(JRはまだ動かず)、昭和に出社しました。3月期入試は1時間だけ遅らせて決行していました。小生は試験監督者ではないので、午後の留年生の面談を待つばかりでした。研究室は意外に軽傷で済んでいました。〇〇先生のOpen Campus用のパネルが一番被害を受けましたが、簡単に直せる程度の傷です。

電車の遅延(間引き運転)のせいで留年生の到着が遅れたこともあり、教授室を出たのが17:30でした。2時間もかけてやっとのことで自宅に帰り着きました。自室は書類や年賀状が床に散乱している程度で、驚くほど軽症でした。

長々と乱筆(?)乱文、失敬をば致候。

原田俊明