前期20「イギリス文化論」(2021/ 6/24 + 7/ 1) フェミニズムと女性の社会進出(その1)

feminism

フェミニズム(直訳「女性主義」)、女権擁護、女権拡張論

http://herstoria.com/ (リンク切れ)

https://en.wikipedia.org/wiki/Feminism

https://ja.wikipedia.org/wiki/フェミニズム

大きく分けて第一波フェミニズム(first-wave feminism)、第二波フェミニズム(second-wave feminism)、第三波フェミニズム(third-wave feminism)があるが、「イギリス文化論」の講義ではイギリス文化と関わりの深い第一波(十八世紀末から二十世紀初頭)のみを扱う。

sexism

性差別

https://en.wikipedia.org/wiki/Sexism

https://ja.wikipedia.org/wiki/性差別

【参考テレビコマーシャル動画4種】

Absurdly Sexist Coffee Ad (ca. 1960)

ばかばかしいほど性差別的なコーヒーCM(1960年頃のアメリカ)

https://www.youtube.com/watch?v=vRYfouuHPvs

上記とは正反対の性格の

LITS(リッツ)のコマーシャル(2016年3月、日本)では、

「女として生まれた。[改行] そのしあわせを、[改行] 私はすべて手に入れる。」とキャッチフレーズにある。

https://www.youtube.com/watch?v=NR3xfQ72Mg8 (リンク切れ)

2016年7月21日(木)(一部地域は7月27日(水))から同年8月3日(水)にかけて民放で放映された

POLA(ポーラ)化粧品のコマーシャル(日本2016年7月)では、

長尺版「この国は、女性にとって発展途上国だ。限られたチャンス、立ちはだかるアンフェア。かつての常識はただのしがらみになっている。それが私には不自由だ。迷うな、惑わされるな。大切なことは私自身が知っている。これからだ、私。自分という旗を立てよ。POLA。(人を美しくする仕事は、美しい。)」、または改訂短縮版「この国は、女性にとって発展途上国だ。限られたチャンス、立ちはだかるアンフェア。でも、迷うな。大切なことは私自身が知っている。これからだ、私。自分という旗を立てよ。POLA リクルート・フォーラム。」とキャッチフレーズにある。

https://www.pola.co.jp/special/polacareer/ (但し、その後は別のキャッチフレーズに差し替え)

https://www.youtube.com/watch?v=DJBQTCyrVwU (改訂短縮版リンク切れ)

https://news.livedoor.com/article/detail/11856517/ (長尺版)

2017年1月27日(金)から民放テレビ各局とインターネットと山手線の車内無音動画広告で放映された

「ENEOS(エネオス)でんき」のコマーシャル(2017年1月、日本)曰く

「安い電気か、稼ぎのいい夫か」がネットで炎上

(二十一世紀になってから暫(しばら)く経(た)っても性差別的な日本の広告表現に啞然)

https://www.youtube.com/watch?v=_Ap2vrh2p9Y (炎上のためリンク切れ)

https://www.youtube.com/watch?v=7qs3BHmSyEU (復活リンク)

https://www.youtube.com/watch?v=iRPlFL-0tRk (論評)

https://news.livedoor.com/article/detail/12618335/ (論評)

【参考記事】

日本のCMの「炎上狙い」海外なら一発アウトです!

「やらしい」表現は響かない時代

ヤフーニュース転載

現代ビジネス

銀河ライター主宰・雑誌『広告批評』元編集長 河尻亨一(かわじり こういち, b.1974)東北芸術工科大学客員教授署名記事

2017年7月17日(月) 13:01配信

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52313

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52313?page=2

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52313?page=3

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52313?page=4

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52313?page=5

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170717-00052313-gendaibiz-soci (リンク切れ)

小見出し1: 「男社会のシンボル」に挑む少女像

写真1: https://gendai.ismcdn.jp/mwimgs/7/b/640m/img_7b683fc9d03e8cc628258e31f099da77262751.jpg

写真2: https://gendai.ismcdn.jp/mwimgs/f/9/640m/img_f93ef299abc025b0719a877e938ce28c400777.png

小見出し2: 「♪女の子は何からできているの?」

動画1: https://www.youtube.com/watch?v=Y_iCIISngdI

小見出し3: 「絶対やっちゃダメ」な広告とは

小見出し4: 話題になっても、リスクのほうが大きい

写真3: https://gendai.ismcdn.jp/mwimgs/3/8/640m/img_3848489a56ee6220354838052f3d4a10274633.png

動画2: https://youtu.be/X9Gkus1V6wA (炎上のためリンク切れ)

小見出し5: 「消費者をなめてる感じ」が伝わる

小見出し6: 日本だけ、どんどん世界とズレていく

小見出し7: クリエイティブにも責任が伴う

動画3: https://www.youtube.com/watch?v=8PIfQHtSXyc

【参考記事】

英秘密情報部「求人大作戦」 創設以来初のテレビCM、女性やマイノリティ雇用狙う

産経ニュース

2018年5月29日(火) 0:09 (但し、英本国では2018年5月24日(木)のニュース)

https://www.sankei.com/world/news/180529/wor1805290005-n1.html

https://egg.5ch.net/test/read.cgi/news5plus/1527525254/

【ロンドン=岡部伸】秘密情報の収集、情報工作を任務とする英秘密情報部(通称MI6)が、求人広告のテレビコマーシャルを流すキャンペーンを始めた。テレビでの求人は1909年の創設以来初めて。(中略・改行)

水槽の中を泳ぐサメに怯える子供を、母親が抱き上げる。そんな映像に合わせ、淡々としたナレーションが挿入された。「普通の人のように他人を思いやる仕事です」

MI6はテレビCMで、組織の業務について「他者を理解する。異なった見方ができるよう手助けする。自分とは違う世界を知ろうとする。それは、あなたが毎日していること」と説明。「MI6。私たちはあなたと同じなのです」と強調し、「あなたが好きなように世界を探索してみませんか」と呼び掛けている。

組織の全職員に占める女性の比率は2016年3月現在で、上級職で24%、非上級職でも38%にとどまる。黒人やアジア系、他の人種・民族少数派の職員は、上級職ではゼロで、非上級職でもわずか7%となっている。(改行・後略)

[関連動画](黒人労働者階級のアクセント)

https://www.youtube.com/watch?v=IOViUQwOgdU

“We are intelligence officers. But we don’t do what you think. It’s not like keeping your cool in a shark tank, it’s picking up on the silent cues that matter. Understanding others, helping them see things differently, is exploring the world beyond your own. And if that sounds familiar is because you do it every day. MI6—secretly we’re just like you.”

「私たちは諜報要員です。でも私たちはあなたの考えるようなことはしていません。それは鮫(サメ)の泳ぐ水槽の中に入って落ち着いているのとは違い、無言の重要な合図を掬(すく)い取ることなのです。他者を理解し、他者が物事を異なった見方で見るのを手伝うのは、自分の世界を超えた世界を探索することなのです。そしてそれが馴染(なじ)みがあるように聞こえたら、それはつまりあなたが毎日そうしているからです。MI6 (マイ・シックス)、内証(ナイショ)ですが、私たちはあなたに似ています。」(英文書き取り・日本語訳: 原田俊明)

【ところが、、、】

英情報機関MI6トップが謝罪 LGBTの採用差別

共同通信

2021年2月20日(土)

https://b.kyodo.co.jp/politics-international/2021-02-20_7457125/

https://this.kiji.is/735661972879556608?c=65699763097731077

https://www.47news.jp/5871736.html

https://news.yahoo.co.jp/articles/d30b1f4ae44dc1a5f971977cca4dfd47a5fcd9c9

https://news.yahoo.co.jp/articles/d30b1f4ae44dc1a5f971977cca4dfd47a5fcd9c9/comments

【参考記事】

性差別CMは禁止 英広告業界団体

英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)日本語版

2017年7月19日(水)

https://www.bbc.com/japanese/video-40651950

イギリスで広告の性差別をなくす規制を導入へ「お母さんだけが家事をしているCMはダメ」

「男の子の夢はサッカー選手、女の子はお嫁さん」という描き方もNGになりそうです。

ハフポスト日本版(HuffPost Japan

安田聡子(やすだ さとこ, 生年非公開)記者署名記事

2017年7月20日(木)

https://www.huffingtonpost.jp/2017/07/20/ad-gender-stereotype-_n_17535244.html

「有害な」男女のステレオタイプ描く広告、イギリスで禁止

英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)日本語版

2019年6月17日(月)

https://www.bbc.com/japanese/48659092

[もとの英語記事]

Gender stereotypes in adverts banned

(広告に於けるジェンダー紋切り型が禁止される)

改題

‘Harmful’ gender stereotypes in adverts banned

(広告に於ける「有害な」ジェンダー紋切り型が禁止される)

英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)

2019年6月14日(金)

https://www.bbc.co.uk/news/business-48628678

【2018年6月に話題になった件】

英名門ケンブリッジ大のボート部に、国際大会の主催者が露骨な男女差別

クロアチアで行われる大会で、男子部員と女子部員へのあからさまな待遇差が明らかになった。

Elle Online 日本語版

ナオミ・ゴードン(Naomi Gordon)記者署名記事

日本語訳: Mitsuko Kanno (漢字名不詳)

2018年6月12日(火)

https://www.elle.co.jp/culture/celebgossip/cambridge-female-rowing-team-boycott-event-inequality-180612-hns

エスクァイア(Esquire)日本版転載

2018年6月12日(火)

https://esquire.jp/lifestyle/sports/cambridge-female-rowing-team-boycott-event-inequality-180612-hns/

ヤフーニュース転載

2018年6月13日(水)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180613-00010002-elleonline-ent (リンク切れ)

英国ケンブリッジ大学の女子ボート部が、国際的なレガッタ競技会への参加を拒否するという事態が起こった。その理由は、男子部員の宿泊先が5ツ星ホテルであるのに対し、女子部員はホステルに宿泊させられるから。

女子のボート競技もTV中継されるようになり、また開催日とコースも男子と同じテムズ川のコースに変更されて3年が経つが、今回明るみに出た一件のせいで、女子部員が男子部員と完全に対等になるまでには、まだまだ遠い道のりであることがわかった。

『The Sunday Times』紙は、クロアチアのスプリットで開催される名高い国際大会で、女子ボート部員が3年連続でホステルか学生用宿舎に宿泊することがわかり、参戦への招待を断ったと報じている。そのいっぽうで男子部は、プライベートビーチや港、海沿いの遊歩道、テニスアカデミーを擁するエクスクルーシブなリゾートで、宿泊料金が1泊130ポンド(約2万円)以上するル・メリディアン・ラヴ(Le Méridien Lav)に宿泊するのだそう。さらに、女子選手は現地までの旅費が自費であるのに対し、男子チームの旅費は大会主催者が手配したと報じられている。

女子部長のダフネ・マーツチェンコは、以下のような声明文を出した。「このイベントは、ケンブリッジ大とオックスフォード大を祝うものだと宣伝されています。男子と女子は対等な立場のチームとして存在しているにもかかわらず、宿泊条件には著しい格差がありました」

(改行・後略)

[上記記事の英語原典版]

Cambridge Male Rowing Team Given Five-Star Hotel While Female Team Offered Hostel

(剣橋の男子競漕団は五つ星ホテルを宛(あて)がわれる一方で女子団は安宿を提供される)

The women’s team have now pulled out of the event over inequality

(女子団は不平等を理由に今や大会を取りやめ)

エル・UK誌(Elle UK

ナオミ・ゴードン(Naomi Gordon)記者署名記事

2018年6月4日(月)

https://www.elle.com/uk/life-and-culture/culture/a21065737/cambridge-female-rowing-team-boycott-event-inequality/

[もとの記事]

Sveti Duje regatta: luxury for Cambridge University’s male rowers, a hostel for the women

(聖ドゥーイェ・レガッタ競艇: 剣橋大の男子漕手たちには贅沢を、女子には安宿)

The Cambridge female rowing team has pulled out of an international event after being offered inferior digs。

(剣橋の女子漕手団が国際大会出場を取りやめ 劣悪な宿を提供されて)

日曜タイムズ紙(The Sunday Times

リチャード・アッシュトン(Richard Assheton)記者署名記事

2018年6月3日(日) 0:01 BST / 8:01 JST

https://www.thetimes.co.uk/edition/news/sveti-duje-regatta-luxury-for-cambridge-universitys-male-rowers-a-hostel-for-the-women-kk08wcjmm

[追記]

[女子大生からひと言]

ケンブリッジ大学のボート部が男女で宿泊先の差があることを問題視されたことについて、実力の結果そうなったというのも確かに分かります。ここで私が疑問に感じたのは、もし男子の方が実力としては下だとして、本当に男子も(この場合の女子のように)安いホテルに宿泊させられるのかということです。私個人の意見ですが、男子の方が力があるというステレオタイプは現代でも未だ抜けきっていないと感じます。男女が完全に平等になるにはまだまだ時間を要すると考えています。上手く言語化できず申し訳ありません。

[原田コメント]

これは実力云々(うんぬん)やステレオタイプの有無という話ではなく、私(原田)が授業で述べたのは部活動の伝統の有無から生じるスポンサーの有無、つまり単純に資金力の有無です。ただ、あまりにもあから様に男女で待遇が異なったので、男性ティームが反撥を喰らったのも事実です。彼らは自分らの五つ星ホテルの待遇を三つ星ホテルに下げて、女子ティームにも三つ星ホテルの待遇を与えてあげるべきだったと私も思います。

[別の女子大生からひと言]

ボート大会の話、私も男女差別ではないと思いました。伝統が長かったり良い成績を残しているチームに太いスポンサーがつき、試合裏の環境が良くなるのは当然のことと思います。

【比較参考】

2021年2月 森元総理の女性蔑視発言の波紋については、

日本の大学年表と女権と日英関係6(令和3年以降)

https://sites.google.com/site/xapaga/home/japanuniversitytimeline6

https://news.yahoo.co.jp/byline/iizukamakiko/20210207-00221225/

小見出し1: よくある形だけの謝罪

小見出し2: オリンピック創始者も女性差別主義者だった

小見出し3: 怒れる女性アスリート

森喜朗元会長が組織委の名誉最高顧問に浮上「税金返せ」と批判殺到

女性自身

2021年7月26日(月)

https://jisin.jp/domestic/2003674/

https://woman.excite.co.jp/article/lifestyle/rid_Jisin_2003674/

https://woman.excite.co.jp/article/lifestyle/rid_Jisin_2003674/pid_2.html

https://news.yahoo.co.jp/articles/07fa0b99f0f8232c4ca447b78902252710be6647

https://news.yahoo.co.jp/articles/07fa0b99f0f8232c4ca447b78902252710be6647/comments

やましい人ほどよくしゃべる?不評だったバッハ会長の東京五輪開会式あいさつが表すこと

連載「おんなの話はありがたい」

朝日新聞社 AERA.dot

作家、ラブピースクラブ代表、アジュマブックス代表 北原みのり(きたはら みのり, b.1970)署名コラム

2021年7月27日(火)

https://dot.asahi.com/dot/2021072700029.html?page=1

https://dot.asahi.com/dot/2021072700029.html?page=2

https://news.yahoo.co.jp/articles/825ba56575537483da168c960ae47ec70f315f29

https://news.yahoo.co.jp/articles/825ba56575537483da168c960ae47ec70f315f29?page=2

https://news.yahoo.co.jp/articles/825ba56575537483da168c960ae47ec70f315f29/comments

【ヴィクトリア女王の見解】

1870年5月29日(日)付のヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の手紙から

The Queen is most anxious to enlist every one who can speak or write to join in checking this mad, wicked folly of “Woman’s Rights”, with all its attendant horrors, on which her poor feeble sex is bent, forgetting every sense of womanly feeling and propriety... It is a subject which makes the Queen so furious that she cannot contain herself. God created men and women different—then let them remain each in their own position.

(Queen Victoria’s letter dated Sunday, 29th May 1870)

女王は、この「女の權利」なる狂つた邪惡な愚言を、その附随する慘事、女といふ哀れな、か弱き性(セックス)があらゆる意味に於(おひ)て女性的な感覺と嗜(たしな)みの良さを忘れて傾注して仕舞ふ慘事と共に阻止することに加はる可()く、口頭乃至(ないし)は文書で述べることの出來る者なら誰にでも協力を要請し度()いと强く切望してゐる。[中略] 其()は女王をして激怒せしむる主題にして、感情を抑へること能(あた)はず。神(唯一絕對の創造神、天主)は男女を異(こと)なる者(もの)として創造された。然(しか)らば男女をして互(たが)ひに其(その)立場の儘(まゝ)に留(とゞ)まらせよ。 (原田俊明譯)

ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館(V&A: Victoria & Albert Museum)の公式ウェブサイトに依拠

http://www.vam.ac.uk/content/articles/g/gender-ideology-and-separate-spheres-19th-century/

【大正時代の日本】

雑誌 『文藝時代』(金星堂)大正十五年=1926年1月号と2月号に分載され、大正天皇(たいしやう てんのう; Emperor Yoshihito; the Taisho Emperor, 1879-1926; 在位1912-26)崩御(ほうぎょ)後に年が明けて昭和二年=1927年3月に刊行された川端康成(かはばた やすなり, 1899-1972)の中篇小説(但し、欧米の概念では短篇小説) 『伊豆の踊子』(金星堂, 1927年)第六章の原文

https://ja.wikipedia.org/wiki/伊豆の踊子

https://en.wikipedia.org/wiki/The_Dancing_Girl_of_Izu

歸(かへ)りに甲州屋(かふしうや)へ寄()つてみると、藝人(げいにん)たちは鳥鍋(とりなべ)で飯(めし)を食()つてゐるところだつた。

「一口(ひとくち)でも召()し上()がつて下(くだ)さいませんか。女(おんな)が箸(はし)を入()れてきたないけれども、笑(わら)ひ話(ばなし)の種(たね)になりますよ。」と、おふくろ[註]は行李(かうり)から茶碗(ちやわん)と箸(はし)を出()して、百合子(ゆりこ)に洗(あら)つて來()させた。

註: ここでいう「おふくろ」とは、旅藝人(たびげいにん)の一座を率いる榮吉(ゑいきち)(=おどり子の兄)の妻の母親であり、四十代くらいとされている。

原田コメント: 鳥鍋に先に「女が箸を入れ」ているので「きたない」という発想が、当時の社会通念を今に伝えていて興味深い。

独愛系米人の故サイデンステッカー(Edward Seidensticker, 1921-2007)氏による昭和廿九年=1954年の英訳(OUPこと、オクスフオッド大学出版局の版)では「私ら女どもが中をつつき回していましたが」(We women have been poking around in it, but ...)とだけなっていて、「きたない」という概念は削除されている。さらに酷(ひど)いのはタトル(Tuttle)版で、鳥鍋をつつくシーンを丸々カットしている。ここにオクスフオッド(OUP)版を引用する。

On my way back I stopped at the Koshu. The performers were sharing a chicken stew.

‘Wouldn’t you like a taste? We women have been poking around in it, but you can have a good laugh over it some day.’ The older woman took a bowl and chopsticks from a wicker trunk and sent Yuriko to wash them.

引用元: Yasunari Kawabata, ‘The Izu Dancer’ (translated from the Japanese by Edward Seidensticker in 1954). Quoted from The Oxford Book of Japanese Short Stories (Oxford & New York: Oxford University Press, 1997) edited by Theodore William Goossen (b.1948).

【初期のフェミニストたち及び特筆すべき女性たち】

(イタリア生まれながらフランスの初期フェミニスト)

Christine de Pisan (c.1365-1430)

クリスティーヌ・ド・ピザン

http://herstoria.com/?p=529 (リンク切れ)

https://fr.wikipedia.org/wiki/Christine_de_Pisan

https://en.wikipedia.org/wiki/Christine_de_Pizan

https://ja.wikipedia.org/wiki/クリスティーヌ・ド・ピザン

中世フランスのフェミニスト文学者。ヴェネツィア共和国(現在のイタリア北東部)の出身で、イタリア語名はクリスティーナ・ダ・ピッツァーノ(Cristina da Pizzano)。詩人・文学者で、フランス文学史上初の女性職業文筆家とされる。

1270年頃に聖職者ジャン・ド・マン(Jean de Meun, c.1240-c.1305)によって書かれた『薔薇物語』(Le Roman de la Rose; 英訳 Tale of the Rose)続編の女性蔑視的な表現に対抗し、1402年に『薔薇のことば』(仏原題 Dit de la Rose; 英訳 Words of the Rose)を刊行し、フランス文学史上の大きな論争に女性擁護の立場で参戦した。1404年には『女性たちの都市の書』(仏原題 Le Livre de la Cité des Dames; 英題 The Book of the City of Ladies)を著(あらわ)し、女性の「理性」(仏 la raison ラへゾン; 英 reason ゥりーズン)と「公正さ」(仏 la droiture ラドほワチューふ; 英 righteousness ゥらイチャスネス)と「正義」(仏 la justice ラジュスティス; 英 justice ジャスティス)が治める架空理想郷(仏 l’utopie リュトピ; 英 utopia ユトウピア)を描いた。

なお、架空の地名「ユートピア(Utopia)」という造語が世に現れたのは1516年のイングランドのことで、小文字化された普通名詞としては1551年のことなので、ド・ピザン自身はこの単語を用いたわけではない。とにかく『女性たちの都市の書』は、西洋で初めて書かれたフェミニズム理論の書とも言われている。

ちなみにフェリーニ(Federico Fellini, 1920-93)監督による1981年公開のイタリア映画 La città delle donne(仏題 La Cité des femmes; 英題 City of Women; 日本語直訳『女たちの都市』1980年、邦題『女の都』)は、ド・ピザンの『女性たちの都市の書』に触発された可能性がある。

また、フェミニズムの問題とは直接は無関係ながら、ブラック(Guillaume Brac, b.1977)監督の2012年公開のフランス映画 Un monde sans femmes (英題 A World Without Women; 日本語直訳『女たちなしの一つの世界』、邦題『女っ気なし』)がある。

(これ以降はイギリスの特筆すべき女性たちと一人の男性)

(英国初の女性作家)

Margaret Cavendish, Duchess of Newcastle-upon-Tyne (c.1623-74)

ニューカースル・アポン・タイン(タイン川に面した新城市)公爵夫人マーガレット・キャヴェンディッシュ

http://herstoria.com/?p=549 (リンク切れ)

https://en.wikipedia.org/wiki/Margaret_Cavendish,_Duchess_of_Newcastle-upon-Tyne

劇作家、詩人、自然哲学者、科学者。騎士階級の娘として生まれ、年の離れた貴族階級の男性(再婚で5人の子持ち)に嫁ぐことで恵まれた立場から自由に発言したが、イングランド内戦(English Civil War, 1642-51)とイングランド共和国(Commonwealth of England, 1649-60)の暴政のために多くの財産を失い、生活は決して楽ではなかった。英国で初めて出版目的で文章を書いた女性作家とされる。当時女性が本の著者として名乗り出るのは、女性の純潔(chastity)を穢(けが)すことだと考えられていた。

主著

Philosophical and Physical Opinions (1655)

『哲学的及び物理的意見』

「イングランドの二大名門大学へ(To the Two Most Famous Universities of England)」と題した項目を含み、女性が高等教育の機会から疎外されている当時の現状について異議申し立てをした。

(英国最初期のフェミニスト)

Mary Astell (1666–1731)

メアリー・アステル

https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Astell

作家、修辞学者。英国フェミニスト思想家の始祖と考えられるが、アステルに関する伝記的事実は失われてしまっていて、ロンドンのチェルシー地区に慈善学校 (charity school)を開学した(現存せず)という程度しか分かっていない。主著 『結婚に関するいくつかの考察』(Some Reflections upon Marriage, 1700)では、悪い結婚をしないために女性にも良質な教育が必要だと説く。アステルはその著書の中で、「もし男が全員自由人として生まれるのなら、女が全員奴隷として生まれるとは是(これ)如何(いか)に。」(If all Men are born free, how is it that all Women are born Slaves?)と書いている。

主著

Some Reflections upon Marriage (1700)

『結婚に関するいくつかの考察』

http://digital.library.upenn.edu/women/astell/marriage/marriage.html

(現在まで思想の全貌が伝わっているという意味では英国最初期のフェミニスト)

Mary Wollstonecraft (1759-97)

メアリー・ウルストンクラフト

http://herstoria.com/?p=494 (リンク切れ)

https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Wollstonecraft

https://ja.wikipedia.org/wiki/メアリ・ウルストンクラフト

英国フェミニスト思想家の始祖の一人。父親は中産階級だったが、度重なる事業の失敗でウルストンクラフト家は困窮(こんきゅう)し、メアリーは若い頃から、自分よりもうんと年上の金持ち婦人の話し相手(companion)の仕事をしながら自活せねばならなかった。女子教育の必要性を説くために女性の友人と小さな学校(現存せず)を経営したが、1787年以降はロンドンで著述活動をした。なお、当時の中産階級の女性が就くことの出来た職業は、上記の金持ち婦人の話し相手(companion)と、金持ち家庭の住み込み家庭教師(governess)の二つしかなかった。

そんな折、1789年に隣国のフランスで暴力的な革命が起こった。当初英国では自分らの名誉革命(Glorious Revolution of 1688)の伝統を引き継ぐ良い革命だろうと楽観視していたが、やがて保守派が反撃するようになった。その急先鋒(きゅうせんぽう)がバーク (Edmund Burke, 1729-97)だった。バークはフランス革命への批判と英国社会体制の擁護のために、早くも革命勃発の翌年には『フランス革命の省察』(Reflections on the Revolution in France, 1790)を著(あらわ)して革命批判を行なった。ウルストンクラフトはこれに対する反論として同年に『人間の権利の擁護』(Vindication of the Rights of Men, 1790)を刊行した。上流階級(upper class)に近い上層中産階級(upper middle class)の立場から英国社会体制を理想的に描いたバークに対してウルストンクラフトは下層中産階級(lower middle class)という低い立場から英国の貧困(poverty)や不正義(injustice)を指摘してみせた。

そしてその二年後に出版した『女性の権利の擁護』(A Vindication of the Rights of Woman, 1792)でウルストンクラフトは一躍有名になり、革命派から歓迎された。他方、敵方の保守派はメアリーの説く女性の性的自由は道徳の頽廃(たいはい)だとして非難した。後にメアリー自身の恋愛関係などが明るみに出ると、性的奔放さをネタにゴシップ(gossip)をばら撒(ばら)まかれ、メアリー個人の品性が攻撃された。

メアリーはこの頃、スイス出身の妻子持ちの帰化英国人画家フューズリ(Henry Fuseli, 1741-1825)=ドイツ語名フュースリ(Johann Heinrich Füssli, 1741-1825)と不倫の関係に陥っていた。同年(1792年)末、この画家フューズリとの道ならぬ関係を断ち切るため、「フランス革命の様子を観察するため」と称して、メアリーは単身パリに渡った。そこでイムレイ(Gilbert Imlay, 1754-1828)というアメリカ人実業家と知り合って同棲した。この同棲により、メアリーは王制国家グレートブリテンの臣民ではなく、新興共和制国家アメリカの市民として振る舞うことができたので、周囲のフランス人たちから反感を買わずに済んで好都合だったと言われている。1794年に女児を設けてファニー(Fanny Imlay, 1794-1816)と名付けた。しかし内縁の夫イムレイは他の女性と関係を持つようになり、ウルストンクラフトは絶望のあまりイングランドに戻り、二度も自殺を図ったが、二度とも未遂に終わった。そして思い直して子供の為に再び文筆業で生きていこうと決心した。

1796年に元カルヴァン派牧師で革命思想家・社会改革者のゴドウィン(William Godwin, 1756-1836)と知り合い、二人は同棲生活に入り、内縁の妻の連れ子ファニー・イムレイ(Fanny Imlay, 1794-1816)を育てた。結婚ではなく同棲を選んだのは、宗教権力や国家権力への服従を強要する結婚制度に叛意(はんい)を翻(ひるがえ)したからだった。 当初はこのように権力に逆らっていたが、やがて生まれてくる子供が私生児として差別を受けるのは気の毒だと考え直して、1797年3月29日に正式に結婚 した。この結婚によって多くの友人や支持者を失ったという。同年(1797年)8月30日には女児が生まれ、母親のファーストネームと旧姓その儘(まま)にメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン(Mary Wollstonecraft Godwin)と名付けられた。このゴドウィン夫妻の間に生まれたメアリーは両親の知性を受け継ぎ、美貌にも恵まれた。ゴドウィン夫妻の結婚生活は幸せな ものだったが、ゴドウィン夫人(旧姓ウルストンクラフト)はメアリーを生んでから僅か十日後の9月9日に感染症によって死亡した。

そのとき生んだ娘(ウルストンクラフトにとっては2人目の娘)が小説 『フランケンシュタイン、或(あるひ)は現代のプロメテウス』(Frankenstein; or, The Modern Prometheus, 1818, 1824 & 1831)の著者、シェリー夫人ことメアリー・シェリー(Mary Wollstonecraft Shelley, 1797-1851)である。この小説では複数の死体のパーツから醜悪(しゅうあく)な人造人間を創造してしまう科学者フランケンシュタインが、その人造人間=怪物に名前も付けずに育児放棄し、怪物から追われる過程で愛する人々を次々に殺害され、今度は怪物を追って北極の未知の世界へ旅するという設定になっている。これは自身がこの世に生まれたことで母親を殺してしまった事実、種違い(父親違い)の姉ファニー・イムレイ(Fanny Imlay, 1794-1816)がゴドウィン家で孤立した結果として22歳で自殺した事実、詩人シェリー(Percy Bysshe Shelley, 1792-1822)との略奪事実婚の結果としてシェリーの正妻ハリエット(Harriet Shelley; 旧姓 Westbrook, 1795-1816)が21歳で自殺した事実、という著者シェリー夫人の根源的な罪悪感や、厳格な父親ゴドウィン(William Godwin, 1756-1836)や、科学にのめり込む詩人で夫のシェリー(Percy Bysshe Shelley, 1792-1822)に見られる男性像が反映されていると考えられている。(関連資料: グランドツアーから英国ゴシック文学へ https://sites.google.com/site/xapaga/home/bunkaisan09

主著

A Vindication of the Rights of Woman (1792)

『女性の権利の擁護(ようご)』

https://ja.wikipedia.org/wiki/女性の権利の擁護

https://en.wikipedia.org/wiki/A_Vindication_of_the_Rights_of_Woman

[追記]

2020年11月10日(火)にはウルストンクラフトを顕彰する彫刻作品を英帝国勲章(Order of the British Empire)勲三等(CBE)叙勲者、マギ・ハンブリング(Maggi Hambling, b.1945)女史が手掛け、大ロンドン市(Greater London)内北部のハックニー区(London Borough of Hackney)とイズリントン区(London Borough of Islington)に跨(またが)る公有地ニューイントン緑地(Newington Green, London)にお披露目される。しかしながら、小さなヌード像が上部に置かれたデザインが物議を醸(かも)す。ハンブリング女史はイーヴニング・スタンダード(Evening Standard: 直訳「夕刻標準」)紙の取材に対し、「要するに彼女(=ウルストンクラフト)は裸でなければならなかった。というのも、衣服を着せるとその人の定義を限定してしまうから。私たちは皆知っている、衣服が人を制限してしまうと。そして彼女(=ウルストンクラフト)はすべての女性を体現している。」(The point is that she has to be naked because clothes define people. We all know that clothes are limiting and she is everywoman.)と説明。

【参考記事・動画7種】

「フェミニズムの母」の彫像、なぜ裸? イギリスで物議

英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)

2020年11月13日(金)

https://www.bbc.com/japanese/video-54927214

https://www.youtube.com/watch?v=eoF2el_VmXg

https://news.yahoo.co.jp/articles/e7b919ca0005f83c3557858e200190f6944d8fa5

https://news.yahoo.co.jp/articles/e7b919ca0005f83c3557858e200190f6944d8fa5/comments

[もとの英語記事]

Mary Wollstonecraft statue: ‘Mother of feminism’ sculpture provokes backlash

(メアリー・ウルストンクラフト像「フェミニズムの母」彫刻が物議を醸す)

英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)

2020年11月11日(水)

https://www.bbc.com/news/uk-england-london-54886813

Mary Wollstonecraft honoured with statue 200 years after her death

(メアリー・ウルストンクラフト死後二百年後に顕彰される)

Campaign to fund work ran for 10 years, but naked female figure has attracted criticism

(作業の資金集めキャンペーンは十年を要したが、裸の女性像が批判を浴びている)

インデペンデント紙(The Independent

イゾベル・フロッドシャム(Isobel Frodsham)記者署名記事

2020年11月11日(水)

https://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/mary-wollstonecraft-statue-north-london-feminism-b1720207.html

Mary Wollstonecraft sculpture covered up with ‘woman’ t-shirt amid feminism row

(フェミニズム論争のさなかにメアリー・ウルストンクラフトの彫刻に「女」Tシャツの覆いが掛けられる)

イーヴニング・スタンダード紙(Evening Standard

2020年11月11日(水)

https://www.standard.co.uk/news/uk/mary-wollstonecraft-sculpture-covered-clothes-feminism-b65266.html

Artist Maggi Hambling says critics of Mary Wollstonecraft sculpture ‘missed the point’

(藝術家マギ・ハンブリング女史曰く、メアリー・ウルストンクラフトの彫刻の批判者は「的外れだ」)

イーヴニング・スタンダード紙(Evening Standard

2020年11月11日(水)

https://www.standard.co.uk/news/uk/mary-wollstonecraft-naked-sculture-maggi-hambling-b63158.html

動画:英フェミニスト思想家の記念像、ヌードデザインが物議

フランス通信社(AFP: Agence France-Presse)日本語版

2020年11月11日(水)

https://www.afpbb.com/articles/-/3315327

https://news.yahoo.co.jp/articles/6b1b30d7f266f992fcfd6b555973133c17829f60

https://news.yahoo.co.jp/articles/6b1b30d7f266f992fcfd6b555973133c17829f60/comments

【DHC】2020/11/13(金) 武田邦彦×須田慎一郎×居島一平【虎ノ門ニュース】

DHC Television

2020年11月13日(金)

https://www.youtube.com/watch?v=vddM5wiUz9A (1:31:21-1:48:35 of 2:22:15)

(国家元首=女王以外では無自覚で間接的ながら初めて政治参加した英国女性)

Georgiana Cavendish, Duchess of Devonshire (1757-1806)

第五代デヴォンシャー公爵夫人、ジョージアナ・キャヴェンディッシュ

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョージアナ・キャヴェンディッシュ_(デヴォンシャー公爵夫人)

https://en.wikipedia.org/wiki/Georgiana_Cavendish,_Duchess_of_Devonshire

二百四年後のダイアナ妃(Diana, Princess of Wales, 1961-97)と同じスペンサー伯爵令嬢(Lady Spencer)として生まれる。英国一の資産家で国王以上の権勢を誇ったデヴォンシャー公爵家に嫁ぎ、その美貌とファッションセンスで周囲を魅了。しかし九歳年上の夫、第五代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ(William Cavendish, 5th Duke of Devonshire, 1848-1811)には愛されず、アール・グレイ(グレイ伯爵)紅茶で後世に名を残すことになる七歳年下の第二代グレイ伯爵チャールズ・グレイ (Charles Grey, 2nd Earl Grey, 1764-1845; 首相在任1830-34)と不倫関係になり、子までもうけてしまうが、その子はグレイ伯爵家に引き取られる。愛人グレイの選挙演説では華やかな見栄えのするジョージアナ(デヴォンシャー公爵夫人)が応援を買って出て、司会者のような役割を果たし、客寄せ(見物人の獲得)に大いに貢献した。したがってジョージアナは本人としては無自覚ながら、公衆の面前で政治的な演説をした最初の英国女性ということになる。チャールズ・グレイは政治家として大成し、ジョージアナの死から二十四年後には首相までに上り詰める。

映画 The Duchess (2008)

直訳及び中文題『公爵夫人』、邦題『ある公爵夫人の生涯』

https://en.wikipedia.org/wiki/The_Duchess_(film)

https://ja.wikipedia.org/wiki/ある公爵夫人の生涯

https://www.youtube.com/watch?v=FFg-oduezDs

(キリスト教の精神で女囚とその子供たちの福祉に尽力し、「刑務所の天使(the angel of prisons)」の異名(いみょう)で知られる社会改革者・博愛主義者の英国女性)

Elizabeth “Betsy” Fry (1780-1845)

エリザベス・フライ

https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Fry

http://historysheroes.e2bn.org/hero/timeline/108

(Digital picture card show / Adobe Flash 実行でデジタル紙芝居)

http://historysheroes.e2bn.org/hero/viewstory/108

イングランド東部のノリッヂ(Norwich)市近郊の裕福なクエーカー信徒の銀行家一族であるガーニー(Gurney)家に生まれる。独身時代の満十五歳の時に地元ノリッヂの女子刑務所を度々(たびたび)祈りを捧げるために訪問するようになり、ロンドンの悪名(あくみょう)高いニューゲイト刑務所(Newgate Prison)についても興味を抱く。1800年、満二十歳の時にクエーカー信徒の銀行家・実業家のフライ氏(Mr Fry)と結婚し、フライ夫人(Mrs Fry)となる。そして5男6女の子供を産み育てた。

家族ぐるみで親しくしているクエーカーの牧師に促(うなが)され、1813年にロンドンのニューゲイト刑務所を訪れたところ、囚人達が半裸(はんら)の状態で狭く不衛生な環境に押し込まれている光景に衝撃を受ける。翌日には施(ほどこ)しの衣服や服の素材をかき集めて再訪した。その後約四年間はフライ夫人の病気やフライ家の経済的困難で大したことはできなかったが、1816年末にニューゲイト刑務所を再訪した際には女囚同士が取っ組み合いの喧嘩(けんか)をしている最中だったが、絶対的な平和主義を奉(ほう)じるクエーカー信徒であるフライ夫人が祈りを始めると喧嘩は収まった。当時は罪を犯した母親の子供も一緒に収監される慣習だったが、フライ夫人は収監されていた子供の一人を抱きかかえ、「こんな無実な小さい子たちのために私たちができることは何か無いの?(Is there not something we can do for these innocent little ones?)」と語りかけ、女囚たちと意見を出し合った。翌’17年初頭にはニューゲイト刑務所内に母親と一緒に収監されている子供たちのための学校を設立した(この学校は後に国立小学校として吸収された)。そしてニューゲイト女囚改革協会(Association for the Reformation of the Female Prisoners in Newgate)を組織し、この団体は後に英国女囚改革促進女性協会(British Ladies’ Society for Promoting the Reformation of Female Prisoners)に名を変えて発展拡大し、英国初の全国規模の女性団体と成った。同年(1817年)8月には新聞がフライ夫人の活動を報道し始めた。

1818年2月27日(金)には議会下院(庶民院=衆議院)特別委員会に女性として英国憲政史上初めて参考人招致され、女囚の監視役は男性ではなく女性の仕事にすべきだと主張し、教育やまともな職業の大切さを強調した。同年4月19日(日)には国王ジョージ三世(George III, 1738-1820; 在位1760-1820)のドイツ生まれの王妃シャーロット(Charlotte of Mecklenburg-Strelitz, 1744-1818)と会見し、このことでフライ夫人の仕事が英国中に知れ渡る。

これまで何度か財政的な修羅場(しゅらば)を潜(くぐ)り抜けてきた夫のフライ氏が1828年にとうとう破産すると、フライ夫人はクエーカー信徒の宗教家としての活動は続けつつも、慈善活動(charity work)を削らざるを得なくなりかけた。しかしながら、夫人の実弟(フライ氏の義弟)ジョウゼフ・ガーニー(Joseph John Gurney, 1788-1847)が事業を引き継いでくれ、しかも姉のフライ夫人に資金提供もしてくれたので慈善活動を継続できた。1840年には女性看護師養成学校(a training school for nurses)を開校した。フライ夫人の看護師養成の考え方は後述するフローレンス・ナイティンゲイル(Florence Nightingale, 1820-1910)にも影響を与え、フライ夫人に共鳴したナイティンゲイルはクリミア戦争(Crimean War, 1854-56)の従軍看護師として、フライ夫人の看護学校を出た女性たちを引き抜いて連れて行った。

晩年のフライ夫人は若き日のヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1836-1901)に活動が高く評価され、バッキンガム宮殿(Buckingham Palace)に呼ばれて謁見(えっけん)したことも複数回ある。十九世紀(1801-1900)も前半の1845年で歿しまったフライ夫人の活動に生前理解を示してくれた人は少なかったが、それでも既にフライ夫人の生前に死刑執行数が毎年200件超から5件に(40分の1以下にまで)減少したことは偉大な功績と言える。1845年の死に際しては、約一千人の群衆がフライ夫人の半世紀に亘(わた)る業績に敬意を表するべく墓地に集まり、同夫人の亡骸が埋葬されるのを見届けたという。十九世紀も後半(1851-1900年)になると囚人の更生や社会復帰に重きが置かれるようになり、時代の先を行っていたフライ夫人の理想が徐々に実現されていった。

二十一世紀(2001-2100年)に入ると2001年にイングランド銀行(Bank of England)はフライ夫人の功績を讃え、五ポンド紙幣(the five-pound banknote; 俗称 the fiver)裏面の肖像(表面は相変わらず国家元首のエリザベス二世)にフライ夫人を描いている( http://www.bankofengland.co.uk/banknotes/Pages/current/fry.aspx リンク切れ)が、2016年9月13日(火)にチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55)の五ポンド・ポリマー札に取って代わられた( https://www.bankofengland.co.uk/banknotes/5-pound-note / http://www.thenewfiver.co.uk/ )。なお、今回の意匠(いしょう: design)変更で、イングランド銀行は伝統的な紙幣をやめて、英連邦の豪州とNZとカナダに倣(なら)ってポリマー札を導入した。ポリマー札は紙幣に比べて丈夫で皺(しわ)になりにくいのが特徴である。お札から過去の女性の偉人がいなくなることに対する批判があったが、イングランド銀行は結婚小説の大家(たいか)ながら満四十一歳で歿するまで生涯独身を貫(つらぬ)いた女性作家ジェイン・オースティン(Jane Austen, 1775-1817)の肖像( https://www.bankofengland.co.uk/banknotes/polymer-10-pound-note / https://www.youtube.com/watch?v=tGbwXx2g99U )を十ポンド・ポリマー札(the ten-pound banknote; 俗称 the tenner)裏面に描くと事前発表し、批判の声が鳴りやんだ。そして実際2017年9月14日(木)、新十ポンド・ポリマー札の市中への流通が開始された。

(女性による科学への参加が非常に限られていた時代に活躍したサイエンスライター)

Mary Somerville (1780-1872)

メアリー・サマヴィル

https://ja.wikipedia.org/wiki/メアリー・サマヴィル

https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Somerville

スコットランドのサイエンスライター(science writer)・博学者(polymath)。

1780年にフェアファックス海軍中将(Vice-Admiral Sir William George Fairfax, 1739-1813)の娘、フェアファックス嬢(Miss Fairfax)としてイングランドに程近い国境地帯(the Borders)で生まれた。妹が満10歳で歿した後に、勉強のし過ぎが娘の死に繋(つな)がったと信じた両親によってメアリーは勉学を禁じられてしまったが、秘密裏に独学を続けた。

1804年にメアリーは遠縁に当たるサミュエル・グレイグ海軍大将(Admiral Sir Samuel Greig, 1735-88)の息子であるロンドンのロシア領事サミュエル・グレイグ海軍大佐(Captain Samuel Greig, 1778-1807)と結婚し、グレイグ夫人(Mrs Greig)と成り、夫の勤務地であるロンドンで2人の子を産み育てた。夫は女が自然科学(Natural Sciences)に興味を示すことや学問研究に理解が無く、あまり幸せな結婚生活ではなかった。結婚四年後の1807年に夫は若くして歿してしまい、メアリーは故郷のスコットランドへ寡婦(かふ: a widow)として帰還したが、夫の潤沢(じゅんたく)な遺産のお蔭で知的好奇心を満たすことができた。

最初の夫が歿して五年後の1812年に遠縁に当たる陸軍医療委員会査察官、ウィリアム・サマヴィル博士(Dr William Somerville, 1771-1860年)と再婚したことで、今度はサマヴィル夫人(Mrs Somerville)と成った。二度目の夫サマヴィル博士は妻の学問研究に理解を示すばかりか、その能力を高く評価した。二人は夫婦揃って通称 王立学会(Royal Society)こと、正式名称「自然知識を促進するためのロンドン王立協会の会長と委員会と研究員たち」(The President, Council, and Fellows of the Royal Society of London for Improving Natural Knowledge")への入会が認められた。二度目の結婚でメアリーは4人の子どもを生み育てる一方、同時代の最先端の科学者たち(男ばかり)と知的交流をした。1835年には、ドイツ生まれでイギリスで活躍していた女性天文学者キャロライン・ハーシェル(Caroline Herschel, 1750-1848)=ドイツ語読みでは「カロリーネ・ヘルシェル」と共に王立天文学会(RAS: Royal Astronomical Society)初の女性会員として迎えられた。

1838年にメアリーと夫のウィリアムはイタリアへ赴き、余生の殆(ほとん)どをそこで過ごしたが、夫はイタリア移住後二十二年後の1860年に歿している。移住から三十年後の晩年の1868年、メアリーは J. S. ミルこと、ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806-1873)=下記参照=の女性参政権(women’s suffrage)を求める請願(petition)に署名したが、この請願が実を結ぶことはなかった。その四年後の1872年にメアリー・サマヴィルは満91歳で南欧イタリアのナポリ(伊 Napoli, Italia; 英 Naples, Italy)にて大往生した。

2017年には王立スコットランド銀行(RBS: Royal Bank of Scotland)=スコットランドでお札を発行する権利を賦与(ふよ)された3つの私立銀行の一つ=がメアリー・サマヴィルを顕彰して10ポンド・ポリマー札( https://www.acbi.org.uk/banknotes/royal-bank-of-scotland/fabric-of-nature-10.html )の肖像に採用し、現在に至っている。なお、同時期に発行された5ポンド・ポリマー札( https://www.acbi.org.uk/banknotes/royal-bank-of-scotland/fabric-of-nature-5.html )には女性作家ナン・シェパード(Nan Shepherd, 1893-1981)の肖像が採用されている。2020年2月1日(土)~2日(日)には何を記念したのか不明だが、グーグル(Google)のトップページのロゴ( https://www.youtube.com/watch?v=kNPpnMT8t8c )が、研究に耽(ふけ)るメアリー・サマヴィルをあしらったものになった。

【参考】

【Googleのロゴ】メアリー・サマヴィルを称えて

https://blog.goo.ne.jp/maru-a-gogo/e/88dbd0aa8a5acc004c742966811e7708

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/f2/309762fc4258996c6d906ac98804bcaf.png

(女性参政権運動の第一歩を進めながら失敗に終わった男性フェミニスト)

John Stewart Mill (1806-73)

J. S. ミル(ジョン・スチュワート・ミル)

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・スチュアート・ミル

https://en.wikipedia.org/wiki/John_Stewart_Mill

男性でありながら女権擁護の論陣(ろんじん)を張った最初の人物。経済学者・哲学者・センタンドルーズ大学学長(1865-68)・国会議員(1865-68)。1861年執筆・1869年刊行の著書『女性の従属』(The Subjection of Women, 1869)の中で、社会に於()ける女性の活躍を阻(はば)むものとして、社会と性差の構築、教育、婚姻(society and gender construction, education, and marriage)の3つを挙げた。1866年にはイギリスの憲政史上初めて女性参政権を提唱し、1,499人の女性参政権(women’s suffrage)要求の署名とともに「第二改革法案」(The Second Reform Act)を英国議会に提出するも、他の議員の反対に遭い翌’67年に法案否決。その翌年の’68年にはミル自身が選挙で落選して議員の資格を失う。この法案否決の1867年を女性参政権運動の元年と今日(こんにち)一般には見做(みな)す。

(女子教育の必要性を訴えて実行した英国女性)

Mary Carpenter (1807-77)

メアリー・カーペンター

https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Carpenter

ユニテリアン派の牧師の娘として生まれた。日曜学校の教師や住み込み家庭教師(governess)の仕事を通じて、メアリーは強い使命感を抱くようになり、1846年に困窮した子供たちに裁縫を教える貧民学校をイングランド西部のブリストル市に設立した。十九世紀(1801-1900年)中盤のイングランドでは児童犯罪が深刻な社会問題になっていたが、メアリーは社会環境が悪いことが原因であると確信した。1850年代には男ばかりの議会下院(庶民院=衆議院)に参考人招致され、青少年犯罪の防止に関する証言を求められるほどの存在になった。1860年代には刑務所改革運動にも乗り出した。

1833年にインドの革新思想家ラージャ・ラーム・モーハン・ロイ (Raja Ram Mohan Roy, 1772-1833)に、その最晩年に出会い、強い影響を受けていたが、その三十三年後の1866年に遂に英領印度を初訪問した。インドは生涯で計四度も訪れ、2つの女子学校を設立している。そうした体験を基に『インドでの六ヶ月』(Six Months in India, 1868)を刊行したが、その本の中でメアリーは女子教育の不備や幼児婚の問題を指摘した。かねてからインドの教育事情に関心を抱いていたヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)との謁見(えっけん)も後に叶(かな)えられた。1870年には全英印度協会(NIA: National India Association)を英国に組織した。

メアリー自身は終生独身だったが、活動の中で「母性」(motherhood)を強調した。貧民学校の運営に当たっても、メアリーは哀れな子供たちに家庭的な環境で母の愛を注いでやることを強調した。インド では民衆から“Old Mother”と呼ばれることを誇りとした。メアリーは次項のキャロライン・ノートン(Caroline Norton, 1808-77)の亡くなる1日前、1877年6月14日(木)に世を去った。

(自らの離婚体験で受けた法的性差別から離婚女性の権利を主張した人気女性小説家)

Caroline Norton (1808-77)

キャロライン・ノートン

https://en.wikipedia.org/wiki/Caroline_Norton

http://www.historyofparliamentonline.org/volume/1820-1832/member/norton-hon-george-1800-1875

http://digital.library.upenn.edu/women/norton/elfw/elfw.html

父親が陸軍軍人トマス・シェリダン(Thomas Sheridan, 1775-1817)、母親が女性小説家キャロライン・ヘンリエッタ・シェリダン(Caroline Henrietta Sheridan, 1779-1851)という裕福な家庭に美しい三姉妹の真ん中の次女として生まれた。父方の祖父はアイルランド系の著名な詩人・劇作家で、ロンドンの有名な王立劇場ドゥルーリー横丁(Theatre Royal, Drury Lane)を所有し、下院議員でもあったリチャード・ブリンズリー・シェリダン(Richard Brinsley Sheridan, 1751-1816)だった。しかしキャロライン嬢が満九才のとき軍人だった父親が赴任先の南アフリカで病死すると、一家の家計は急に苦しくなった。

キャロラインは社交界デビューした翌年、十九歳の時に、地方地主の息子で、法廷弁護士で下院議員のジョージ・ノートン(George Norton, 1800-75)と結婚した。ちなみに姉のヘレン(Helen Blackwood, Baroness Dufferin and Claneboye, 1807-67)と、特に優れた美貌を持った妹のジョージアナ(Georgiana Seymour, Duchess of Somerset, 1809-84)は、それぞれ名門貴族の家に嫁いだ。

さて、ノートン夫妻には三人の息子が生まれたが、夫のジョージは嫉妬(しっと)深い性格で、所有欲が強く、酒に酔って暴れる酒乱の男でもあり、妻のキャロラインは今で言う精神的且(か)つ肉体的なDV(domestic violence: 家庭内暴力)に苦しめられた。それでもキャロラインは自宅を文化サロンにして、当時の著名人(文化人や政治家)が多数出入りするようになった。夫は嫉妬深い性格なので本当は嫌がった筈(はず)だが、立身出世のためのコネができると目論んで、妻のサロン開催をむしろ奨励した。キャロラインは小説家になり、発表する小説は当時の読書界で好意的に受け容(い)れられた。

1836年、夫婦の不仲のために、とうとうキャロラインは夫と別居した。別居は子供たちから引き離されることを意味した。夫のジョージは子供たちをスコットランド、後にイングランド北部のヨーク州(Yorkshire)に隠し、キャロラインに面会できなくした。なんとしても妻を悪者に仕立て上げたい夫は、妻との姦通(adultery)、今で言う不倫(extramarital affair)を理由に当時の首相メルボーン卿(Lord Melbourne or William Lamb, 2nd Viscount Melbourne, 1879-1848; 首相在任1834 & 1835-41)を法廷に提訴するという奇策に出た。この訴訟は開廷九日目に陪審(ばいしん)(jury: 2009年8月に日本で始まった裁判員制度に近いが、陪審は裁判員の倍数の12人で構成されていて、有罪・無罪を決定するのみであり、量刑はプロの判事が決める)によって却下されたが、キャロラインは自分が法的に無力な存在であることを痛感した。というのも、当時のイングランドの慣習法では、既婚女性は夫の保護下に入ることで法的人格を失い、子供の養育権も、小説の印税等の独力で獲得した財産も、夫の所有物と定められていたからだ。キャロラインが小説で得た収入は国によって没収され、夫からは何の仕送りもしてもらえなかっ た。しかしキャロラインは法律を逆手にとって、夫の名前で借金をしまくり、債権者の取り立てが来た際には、「夫に請求しなさい」として、返済に応じなかった。

キャロラインはこの理不尽な状況に抗して、1837年(ヴィクトリア女王の治世が始まった年)に子供との面会を認めない夫に抗議する小冊子(pamphlet)を出版した。これに同情した弁護士トマス・タルフオッド(Thomas Talford, 生歿年不詳)の尽力(じんりょく)により、1839年幼児保護法(Custody of Infants Act 1839)が制定され、七才未満の幼児の養育権が母親に認められるようになった。1854年にキャロラインは『十九世紀の女性にとってのイングランド法』(English Laws for Women in the Nineteenth Century, 1854)を刊行した。この本の中で、原稿料の所有権さえも別居中の夫のものとする現行法の不条理を訴えた。

キャロラインが展開した議論は「女は男よりも劣っているから保護を受ける権利がある」とするもので、現代のフェミニストが聞いたら怒り出しそうな論法であった。十九世紀(1801-1900年)も後半になって1860年代になると女性参政権(women’s suffrage)の運動が盛んになるが、キャロラインは全く興味を示さなかった。夫と別居してから二年程経過した1838年にタイムズ紙(The Times)のインタビューを受けて、こう答えている。曰(いわ)く、「女の置かれた自然の位置は、男に対する劣位(れつい)です。アーメン! それはゴッド(一神教の絶対神、全宇宙の創造主)の任じたものであり、人間が考案したものではないのです。私は心からそのように信じていて、それは私の信仰の一部なのです。私は男女平等の突飛(とっぴ)な馬鹿げた教義(ドクトリン)を主張したのでは断じてないのです。」(The natural position of woman is inferiority to man. Amen! That is a thing of God’s appointing, not of man’s devising. I believe it sincerely, as part of my religion. I never pretended to the wild and ridiculous doctrine of equality.)と。そしてこの考えは終生変わらなかった。

四十年近く別居していた夫ジョージが1875年に死去すると、キャロラインは漸(ようや)く自由の身となった。キャロラインは1877年3月に、二十年来の旧友だった十歳下のスコットランド人歴史家スターリング・マクスウェル准爵(準爵)(Sir William Stirling-Maxwell, 9th Baronet, 1818-78)と結婚したが、その年(1877年)の6月15日(金)に僅か三ヶ月の結婚生活で死んでしまった。前項のメアリー・カーペンター(Mary Carpenter, 1807-77)が亡くなった1日後のことだった。そして夫のスターリング・マクスウェル准爵(準爵)も年明け(1878年)の1月15日(火)、妻が死んだちょうど七ヶ月後に死去した。

(数学者でコンピュータプログラマーの元祖的存在の英国女性)

Ada Lovelace, or Countess of Lovelace (1815-52)

エイダ・ラヴレス(ラヴレス伯爵夫人)

https://en.wikipedia.org/wiki/Ada_Lovelace

https://ja.wikipedia.org/wiki/エイダ・ラブレス

https://www.brainpickings.org/2014/12/10/ada-lovelace-walter-isaacson-innovators/

https://io9.gizmodo.com/how-lord-byrons-scandals-led-ada-lovelace-to-become-a-m-1698037237

https://blog.findmypast.co.uk/the-incredible-story-of-lord-byrons-daughter-ada-lovelace-the-worlds-f-1406539730.html

https://plus.maths.org/content/ada-lovelace-visions-today

アイドル的人気詩人バイロン卿(Lord Byron, 1788-1824)こと第六代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron, 1788-1824)と、アナベラ(Annabella)ことバイロン男爵夫人アン・イザベラ(Anne Isabella “Annabella” Byron, Baroness Byron, 1792-1860)との間に男爵令嬢として生まれるが、父親のバイロン卿は娘エイダが生まれて僅(わず)か一ヶ月で異母姉オーガスタ・リー(Augusta Leigh, 1783-1851)との近親相姦的肉体関係(incestuous affair)の醜聞(しゅうぶん: scandal)のために妻(エイダの母親)と別れてしまう。バイロン卿はイギリスに居られなくなり、欧州大陸を転々とする生活をおくり、やがてはギリシアのオスマン・トルコ帝国からの独立戦争に身を投じるようになったので、エイダは父親の顔を覚えていない。なお、父親のバイロン卿はギリシア独立戦争(Greek War of Independence, 1821-32)中の1824年4月19日(月)に同地でマラリア(malaria: イタリア語で「悪い空気」の意; 当時の言葉で marsh fever マーシュフィーヴァー、つまり「湿地熱」)に罹患(りかん)して満三十六歳の若さで病歿した。戦死したわけではないが戦病死ということで、バイロン卿は今でもギリシアでは英雄視されている。

詩人の娘エイダの功績として世界的に知られるのは、十九世紀(1801-1900)の前半という早い段階でコンピュータプログラミングに着手したことである。エイダの師匠であるチャールズ・バベッジ(Charles Babbage, 1791-1871)の考案した初期の汎用計算機(mechanical computer)である解析機関(Analytical Engine)について、イタリア人数学者・技師・軍人で後にイタリア王国首相に就任することになるルイージ・メナブレア(Luigi Menabrea, 1809-96; 首相在任1867-69)がバベッジのイタリアでの講演記録としてフランス語で出版した著作があり、これをエイダが英訳した。その英訳の際にエイダはバベッジの勧めもあって本文の二倍以上の分量の訳註を付けた。その訳註の中にはベルヌーイ数(Bernoulli number: 数論に於(お)ける基本的な係数を与える数列であり、自然数のべきの和を求める多項式の展開に伴って見出される有理数)を求めるための解析機関用プログラムのコードが掲載されており、これは世界初のコンピュータプログラム(computer programme)と言われている。しかしながら、このプログラム自体はバベッジ自身が書き、エイダは単にバベッジのコーディングの過誤(所謂(いわゆる) computer bug)を指摘しただけだと言われている。実際にバベッジがその訳註に載っているプログラムを全て書いたという証拠も見つかっている。エイダの文章は、バベッジ自身も気づかなかった解析機関の可能性に言及しているので、その点で今日(こんにち)評価されている。

エイダは三十七歳の誕生日を十三日後に控えた1852年11月27日(土)に満三十六歳の若さで子宮癌(uterine cancer)のために世を去った。奇()しくも父親のバイロン卿が1824年にギリシアで客死したのと同じ享年だった。

エイダの功績は今日(こんにち)アメリカのコンピュータ産業や軍事産業でも広く認知されている。たとえば1980年12月10日(水)にはエイダ生誕百六十五年を記念して、アメリカ合衆国国防総省(DoD: United States Department of Defense)は新しいプログラミング言語をエイダ(Ada)と名づけた。そして米軍が必要とする様々な物資の調達に使われる規格を総称した表現であるMIL規格(Military Standard)の番号を MIL-STD-1815 と付けたのは、エイダの生まれた1815年に因(ちな)んでいる。また、エイダの肖像はマイクロソフト社(Microsoft Corporation)の認証用ホログラムステッカー(the hologram sticker for authentification)に見ることができる。2012年12月10日(月)にはエイダ生誕百九十七年を記念して一日限定で、グーグル(Google)のトップページのロゴ( https://www.youtube.com/watch?v=3jCWIg7MY3U )が、エイダと数種類のプログラム言語をあしらったものになった。

(献身的な看護と看護学校の設立で有名な英国女性)

Florence Nightingale (1820-1910)

フローレンス・ナイティンゲイル

https://en.wikipedia.org/wiki/Florence_Nightingale

https://ja.wikipedia.org/wiki/フローレンス・ナイチンゲール

トスカーナ大公国首都(現在のイタリア共和国トスカーナ州州都)フィレンツェに生まれたため、フィレンツェ(Firenze)の英語名であるフローレンス(Florence)と名づけられる。ヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)より1歳下で、富裕な上層中産階級(upper middle class)に育ちながら、当時の習慣で学校には行かず個人教育を受けた。非国教徒ユニテリアン派でエジプト旅行中に啓示を受けて「神に召された」と自称した。

クリミア戦争(Crimean War, 1854-56)中の軍病院に於(お)ける献身的な看護で有名だが、むしろ戦後に統計調査に基づく衛生改革や看護教育を推進したことにこそ功績がある。亡き父から受け継いだ莫大な個人資産、著名人との交流、そして寄付によるフローレンス・ナイティンゲイル基金(Florence Nightingale Fund)を基(もと)に1860年7月9日(月)にロンドンのテムズ河畔、国会議事堂(Houses of Parliament)の対岸の聖トマス病院(St Thomas’ Hospital)の付属としてフローレンス・ナイティンゲイル看護産婆学校(The Florence Nightingale School of Nursing and Midwifery)を設立した。これは世界初の非宗教系看護学校であり、現在はロンドン大学国王学寮(King’s College London)の一部を形成し、フローレンス・ナイティンゲイル看護産婆学部(The Florence Nightingale Faculty of Nursing and Midwifery) となっている。

上記学校の設立に際しては、今でいうクラウドファンディング(crowdfunding: 「群衆資金調達」の意)のような形で資金を集めた。ロンドン大学国王学寮フローレンス・ナイティンゲイル看護産婆学部(The Florence Nightingale Faculty of Nursing and Midwifery, King’s College London) の公式ウェブサイト( https://www.kcl.ac.uk/nmpc/about-us/history )によると、当時のナイティンゲイルは国民に大人気で、1856年迄に4万4千39ポンド(£44,039; GBP44,039)≒現在の貨幣価値に換算して二百万ポンド(£2m; GBP2,000,000)≒2021年中盤の為替レートで約3億976万3千110円(JPY309,763,110)の資金が集まったとのことである。

ナイティンゲイルは病身にも弛(たゆ)まず慈善(charity)活動を続け、女性として初めて王立統計学協会(Royal Statistical Society)の研究員(fellow)、そしてメリット勲爵士団(Order of Merit)の一員に任じられた。

しかしながら、ナイティンゲイルは女性参政権(women’s suffrage)運動には否定的で、自(みずか)らを「実務人」(man of business)=現代で言う「ビジネスマン」(businessman)と称し、「女らしさ」(femininity)を拒(こば)んだ。1910年に満九十歳という長寿を全(まっと)うして歿した。

1975年から’92年にかけてイングランド銀行(Bank of England)発行の二十ポンド紙幣(the twenty-pound banknote)の裏面(表面は相変わらず国家元首のエリザベス二世)にフローレンス・ナイティンゲイルが描かれていた。過去の偉人として女性が描かれた例としてはイングランド銀行で初のケースだった。

近藤和彦(こんどう かずひこ, b.1947)『イギリス史10講』(岩波書店 岩波新書, 2013年)に依拠し、一部字句や表現を改変。

(世界を冒険して紀行文を次々と発表した英国女性)

Isabella Bird (1831-1904)

イザベラ・バード

https://en.wikipedia.org/wiki/Isabella_Bird

https://ja.wikipedia.org/wiki/イザベラ・バード

http://www7.plala.or.jp/juraian/ibird.htm

http://www7.plala.or.jp/juraian/easiarep.htm#Bird_Japan

http://www.gutenberg.org/cache/epub/2184/pg2184.html

https://ebooks.adelaide.edu.au/b/bird/isabella/

https://ebooks.adelaide.edu.au/b/bird/isabella/japan/

ヴィクトリア時代の女性旅行家(a Victorian lady traveller)・紀行作家。女権運動や女性参政権運動に参加したわけではない。女一人で世界中を旅して次々に著書を出版した。

1878年6月から9月には東京から北海道(蝦夷地)まで日本人通訳の伊藤鶴吉(いとう つるきち, 1858-1913)を雇って旅し、明治初期の日本の様子を詳細にわたって文章に記録した。1880年にUnbeaten Tracks in Japan (直訳 『日本に於()ける人跡未踏の道』、邦題 『日本奥地紀行』)を出版した。アイヌ文化の研究が本格化する前の明治初期のアイヌ人に関する記述は、今となっては非常に貴重な資料である。1885年に第二版を出したが、関西旅行その他の記述を削除した普及版になっている。

ほかにも北米、ハワイ王国(現米国ハワイ州)、英領豪州(現英連邦豪州)、英領マレー半島(現英連邦マレーシア)、エジプト、モロッコ、清国(現中華人民 共和国)、クルディスタン(現在のイラク、イラン、シリア、トルコに跨(またが)るクルド人の地域)、ペルシャ(現イラン)、チベット(現中共占領地域) を旅し、1894-97年には4度にわたり末期の李氏朝鮮(現在の韓国と北朝鮮)を訪れ、1898年にKorea and her Neighbours(直訳 『朝鮮とその隣国たち』、邦題 『朝鮮紀行』)を出版している。

1893年には六十三年前の1830年創立されていた王立地理学会(Royal Geographical Society)で初の女性会員に迎えられた。1904年に満七十三歳の誕生日まであと八日にして満七十二歳で歿した。

(ヴィクトリア時代末期の英国人フェミニスト)

Charlotte Carmichael Stopes (1840–1929)

シャーロット・カーマイケル・ストウプス

https://en.wikipedia.org/wiki/Charlotte_Carmichael_Stopes

スコットランド出身。当時一流のシェイクスピア学者、著述家、女権運動家。ヴィクトリア時代(Victorian era, 1837-1901)の窮屈(きゅうくつ)な婦人服をより活動的な服装に変えさせようと努力した。主著 『英国自由婦人 その歴史的特権』(British Freewomen: Their Historical Privilege, 1894)が女性参政権運動に影響を与えた。下記で述べるマリー・ストウプス(Marie Stopes, 1880-1958)の母親でもある。

主著

British Freewomen: Their Historical Privilege (1894)

『英国自由婦人 その歴史的特権』

https://www.cambridge.org/us/academic/subjects/history/social-and-population-history/british-freewomen-their-historical-privilege#contentsTabAnchor

(若くして亡くなった英国人女医)

Fanny Jane Butler (1850-89)

ファニー・ジェイン・バトラー

https://en.wikipedia.org/wiki/Fanny_Jane_Butler

1874年に英国初の女医養成のための学校として創立されたロンドン女子医学校(London School of Medicine for Women)の一期生。なお、現在この医学校は、ロンドン大学医学部(UCL Medical School)の一部になっている。1882-89年にキリスト教イングランド教会(国教会)派の宣教団体に従って女医として英領印度で七年間も医療活動に従事するが、満三十九歳の時に現地で赤痢(dysentery)に罹患して殉職した。

(絵本作家としてのみならず環境保護運動家としても著名な英国女性)

Beatrix Potter (1866-1943)

ビーアトリクス・ポター

https://en.wikipedia.org/wiki/Beatrix_Potter

https://ja.wikipedia.org/wiki/ビアトリクス・ポター

法廷弁護士・上級弁護士(barrister)の父親と伝統的規範を重んじる母親との間にロンドンで生まれた。一家は裕福で、豪壮な屋敷には何人もの使用人がいた。当時の有産階級には当然のことだったが、ビアトリクスの世話は母親ではなく、乳母(うば: nanny)の女性に一任された。母親と顔を合わせるのは定時の挨拶や特別な行事に限定された。生活の場自体が大人(両親)と子供は別々の階に分けられていて、母親がビアトリクスの様子を見に行くことは殆(ほとん)ど無かった。ビアトリクスが成長して母娘が接する機会が増えても、二人の関係はよそよそしい儘(まま)だった。四階の子供部屋で最も多くの時間を共に過ごしたのが前述の乳母だったが、厳格な女性で愛情には程遠かった。下の兄弟が出来たのが六歳の時だったが、両親はよその子と遊ぶと病原菌や悪い影響を貰ってくると考え、幼いビアトリクスは外で遊ぶことも儘(まま)ならなかった。そうした孤立した環境でビアトリクスが最初に楽しみを見出したのは、家で絵本を読むことだった。

また、毎年夏をイングランド北西部の湖水地方(the Lake District; the English Lakes)やスコットランドの自然の中で過ごしたことから、野生の動植物に興味を抱くようになった。動植物への愛着が嵩(こう)じて、見た物をすぐに絵に描くことを十歳になる前から得意とした。友達がいない代わりにビアトリクスは日記をつけて孤独を紛らわした。母親に盗み読みされることを恐れて、特別な暗号を使って日記をつけた。母親との関係は年々悪化し、娘が絵を描くことに熱中するのが母親としては面白くなかった。そして親の思い通りにしようと娘に干渉するのだった。

母親との関係に加えてもう一つ、十代後半からビアトリクスを苦しめたのが、リューマチ(rheumatism)の症状で、若くして杖が必要なほど歩行に支障をきたしていた。しかしそれでも戸外を歩き回り、好きな絵を描き続けた。

ビアトリクスは二十歳頃から菌類(fungi)に強い興味を抱くようになり、発見したキノコの細密な学術画を描き続けた。三十歳を過ぎた1897年には科学者だった叔父の協力を得て、当時も今も博物学の最高位権威組織であるロンドン・リンネ協会(Linnean Society of London)に「アガリシネア胞子の発芽について」(On the Germination of the Spores of the Agaricineae)と題する論文を発表したが、当時は女性会員の存在が認められていなかったため、男性会員に代読されるにとどまり、内容は無視されてしまった。ちょうど百年後の1997年4月にロンドン・リンネ協会は性差別(sexual discrimination)が当時存在したことを認め、公式に謝罪した。

ビアトリクスが次に取り組んだのは、動物を主人公にした子供向けの絵本だった。自ら出版社にその白黒の原稿を持ち込んが、当初はどこの出版社も原稿を買い取ってくれず、仕方なく1901年12月に友人や親族のために自費出版した。ところがポター家と家族ぐるみで親しくしていたローンズリー律修司祭(Canon Hardwicke Rawnsley, 1851-1920)がビアトリクスの才能に気づき、その本が大いに気に入り、文章を韻文の形に直した上で、ロンドンの出版社数社に売り込みをかけた。そのうちの一社、フレデリック・ウォーン社(Frederick Warne & Co)は当初ビアトリクス自身による売り込みを拒絶していたが、今回は著名な挿絵画家ブルック(Leonard Leslie Brooke, 1862-1940)の目にも止まり価値を認められ、1902年10月にビアトリクス自身によるカラー版で出版に漕(こ)ぎ着けた。但し、ローンズリー師が善意で改変した韻文版は採用されず、当初冷淡だった出版社がむしろビアトリクスの原文(original)を採用したのは興味深い。その際に編集に携(たずさ)わったのが、ウォーン社創業者の三男、ノーマン・ウォーン(Norman Warne, 1868-1905)だった。

その『ピーターラビットのおはなし』(The Tale of Peter Rabbit, 1902)は、二十世紀(1901-2000年)になったばかりの当時は存在しなかった奇抜な着想が一般に受け、予想外に売れた。その時ビアトリクスは三十六歳になっていた。子ウサギのピーターは母親に着せられた上着の金ボタンを網に引っかけ、危うく農場主に捕まりそうになる。ここでは母親に押し付けられた窮屈な伝統的規範で身動きが取れないでいる作者自身の姿が投影されている。

上述の編集者ノーマン・ウォーンと二人三脚で絵本がシリーズ化され、それらは売れ続けた。絵本作家としての成功に自信をつけたポターは、当時の女性としてはあり得ないような商才を、これまたノーマン・ウォーンと二人三脚で発揮して、縫(ぬ)いぐるみやゲーム盤を販売し、カネを稼いだ。ノーマンの会社の仕事場やノーマン宅を訪れる機会が多くなったビアトリクスは、生まれて初めて恋心が芽生えた。そして1905年7月25日(火)付の手紙の中で、二歳年下のノーマンが年上のビアトリクスに求婚し、ビアトリクスは受け取ったその日のうちに喜んで受け入れた。ところがビアトリクスの母親、そして妻に同調する父親は、二人の恋愛にも結婚にも当初から反対で、二人が一緒になるのを邪魔しようとした。母親は上層中産階級(upper middle class)としての意識が強く、ノーマンが「商人(a tradesman)ごとき」であることが気に入らなかった。ビアトリクスはこれに抵抗し、ノーマンと婚約するが、世間には公表しないという条件を母親から突き付けられた。その後、ノーマンは体調不良になるが、湖水地方で夏を過ごすという長年の習慣を蔑(ないがし)ろにすると母親が何を言い出すか分からないので、仕方なくロンドンを離れた。そしてノーマンとは永遠に逢えなくなってしまった。同年(1905年)8月25日(金)、ノーマン・ウォーンは急性リンパ性白血病(英 acute lymphoid leukaemia; 米 acute lymphoid leukemia; 略称 ALL)で急死した。求婚の手紙から僅か1ヶ月後のことで、三十七歳の若さだったが、ビアトリクスは三十九歳になっていた。ロンドンからの電報(telegramme)で婚約者の訃報を初めて知ったビアトリクスはすっかり落ち込んだが、「世間には公表しない」という条件を母親から吞まされていたため、その悲しみを表へ出すことも儘(まま)ならなかった。

ビアトリクスはこの悲しい出来事を機に、つらい思い出の残るロンドンに帰ることをやめ、過干渉の母親とも距離を置くようになり、少女時代を過ごした湖水地方での農園生活を開始した。その自然に癒(いや)されたビアトリクスは1906年に土地と建物を購入し、農場と酪農の経営に携(たずさ)わることにした。当時の農村では無秩序な開発が進み、危機感を共有する人々が1895年にナショナル・トラスト(National Trust: 直訳「国民信託」)を創設して自然環境の保護を訴えていた。ビアトリクスはこの運動に賛同し、絵本の印税(royalty)収入を使って、農村の土地を保全用に次々と購入した。

自然保護に理解を示し、不動産購入の際に力を貸してくれた六歳年下の事務弁護士・下級弁護士(solicitor: 日本で言う「司法書士」に近い職業)のウィリアム・ヒーリス(William Heelis, 1872-1945)と、ビアトリクスは1913年10月15日(水)に結婚した。初婚だったがビアトリクスは既に四十七歳になっていた。これ以後は、老嬢(spinster: 昭和期の和製英語でオールドミス)のポター嬢(Miss Potter)ではなく、社会的にはヒーリス夫人(Mrs Heelis)となった。以後は羊の品種改良などに取り組み、第二次世界大戦(the Second World War; World War II, 1939-45)中の1943年12月22日(水)に七十四歳で歿したときには4,300エーカーもの農地をナショナル・トラストに遺贈した。

動画

2006年公開の米英合作映画 Miss Potter(直訳 『ポター嬢』、邦題 『ミス・ポター』)の予告編(trailer)

http://www.youtube.com/watch?v=RKhAiWmuU8o

(第一次世界大戦中に中東で活躍した英国人「くのいち」にして考古学者)

Gertrude Bell (1868-1928)

ガートルード・ベル

https://en.wikipedia.org/wiki/Gertrude_Bell

https://ja.wikipedia.org/wiki/ガートルード・ベル

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4789727793/ref=cm_cr_dp_see_all_summary?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=byRankDescending

英国政府の諜報員(agent; 敵側から見ると spy)、行政官、探検家、作家、考古学者。生涯独身で子無し。女権運動や女性参政権運動に参加したわけではない。

1888年に二十歳でオクスフオッド大学レイディ・マーガレット寮(Lady Margaret Hall, Oxford University)にて近代史を修め(但し、当時の悪()しき慣習として女性だったため正規の学位は授与されなかったが)、1892年に中東のテヘランで駐ペルシャ(現イラン)英国公使をしていた外交官の叔父を頼り、初めて海外冒険旅行に乗り出す。その様子をエッセイ集 『ペルシャの情景』(Persian Pictures, 1894)として刊行。その後二度にわたって世界一周旅行を行ない、その一環として1899年と1903年には日本にも立ち寄っている。中東に長期滞在した際には馬で砂漠を行くことに魅了された。

第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)中の1915年に英国政府の諜報員としての仕事を開始し、中東で活躍する。 英軍のバグダッド占領後は占領軍の一員として行政にも携(たずさ)わる。軍政から民政へ移管後もベルはバグダッドに留まり、考古学の研究に没頭し、出土品の収蔵のための小さな私設博物館であるバグダッド考古学博物館(Baghdad Archaeological Museum)を開館するが、これは現在ではイラク国立博物館(National Museum of Iraq)となっている。1926年7月12日(月)、バグダッドで致死量の睡眠薬を服用して死去したが、自殺説と事故説があり、真相は解明されていない。

なお、上記のイラク国立博物館は、米英主導の2003年イラク戦争の混乱の中で収蔵品が略奪され、かつての栄光は取り戻していない。

(日本とも因縁を持つ天才的英国女性科学者)

Marie Stopes (1880-1958)

マリー・ストウプス

https://www.bbc.co.uk/history/historic_figures/stopes_marie_carmichael.shtml

https://en.wikipedia.org/wiki/Marie_Stopes

https://ja.wikipedia.org/wiki/マリー・ストープス

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9412om.htm (リンク切れ)

スコットランド出身。上記のシャーロット・カーマイケル・ストウプス(C. C. Stopes, 1840–1929)の長女で、古植物学者、著述家、女権運動家、優生学者、家族計画・産児制限推進派。1902年にロンドン大学ユーネヴアセティ学寮(University College London)を僅か二年で卒業し、地質学、地理学、植物学の学士号を授与される。その後はドイツのミュンヘン大学(独 Universität München; 英 University of Munich)に入り、早くも1904年には哲学博士(古植物学)の学位を授与される。帰国後の1904-07年にはヴィクトリア大学マンチェスター(Victoria University of Manchester)、現在のマンチェスター大学(University of Manchester)で女性初の講師として採用される。1905年には史上最年少でロンドン大学ユーネヴアセティ学寮から科学博士号を授与される。

ミュンヘンで知り合った日本人植物学者で、マリーが好意を抱いていた藤井健次郎(ふじい けんじろう; Kenjiro Fujii, 1866-1952)博士の帰国を追う形で1907年に単身来日し、二年間日本で藤井博士と共同研究したが、恋は成就(じょうじゅ)しなかった。当時は男しかいなかった東京帝國大學(現在の東京大学)で講義をし、 同大学の小石川植物園に化石研究の施設を整えた。北海道にも単身渡って、中生代後期の地層から新種の植物化石の採集を行ない、記載していった。当時はまだ未開の地が多かった北海道で若い白人女性が化石採集するのは前代未聞のことで、新聞に取り上げられ、警官の護衛がついたという。滞日中の記録は、『日本日記』(A Journal from Japan, 1910)に残されている。滞日中は英国帰りで日本科学界の重鎮で東京帝大教授・理学博士の櫻井錠二(さくらゐ じやうじ; Baron Jôji Sakurai, 1858-1939)男爵から可愛がられ、男爵から能(Nô plays)の手解(てほど)きを受け、能の公演にも招待された。1909年に英国へ帰国して暫(しばら)くしてから、櫻井男爵との共著で『古い日本の戯曲』(Plays of Old Japan, 1913)と『古い日本の戯曲 能』(Plays of Old Japan: The ‘Nô’, 1927)という具合に二度に亘(わた)って能楽に関する著書を上梓(じょうし)している。

帰国後の1911年にカナダ生まれの人類学者・植物学者・遺伝学者のゲイツ(Reginald Ruggles Gates, 1882-1962)と結婚したが、職業上は夫婦別姓とした。しかし結婚生活はうまく行かず(2009年にBBCはゲイツの性的不能(インポテンツ)を指摘)、1913年にストウプスが離婚訴訟を起こす。翌’14年にゲイツは裁判で争わずに英国を離れる。

ストウプスは1918年3月に産児制限運動や性教育の分野で、家族計画に関する著作 『結婚の愛、或(ある)いは結婚に於(お)ける愛』(Married Love or Love in Marriage, 1918)を世に問うた。英国では軽蔑され、米国では「猥褻(わいせつ)」だとして発禁処分を受けたが、1931年までに19回も版を重ね、75万部を売り上げるベストセラーとなった。同年には『賢い親 産児制限または避妊に関する論』(Wise Parenthood: A Treatise on Birth Control or Contraception, 1918)を出版し、これもベストセラーになる。

マリーは1918年5月に実業家、博愛事業家、航空機製造業者のロウ(Humphrey Verdon Roe, 1878–1949)と再婚した。夫婦は協力して、1921年にロンドン北部に「母のクリニック」(Mothers’ Clinic)を開設し、「建設的産児制限と人種の進歩のための協会」(Society for Constructive Birth Control and Racial Progress)を発足させ、会長となる。夫妻は国王侍医のドーソン卿(Lord Dawson or Bertrand Dawson, 1st Viscount Dawson of Penn, 1864-1945)が産児制限への支持を表明してくれたことで力を得た。

結婚から六年後の1924年、後に哲学者になる一人息子ハリー・ストウプス・ロウ(Harry Stopes-Roe, 1924-2014)が生まれた。1947年に二十三歳の一人息子のハリーが著名な科学者・技師・発明家のウォリス(Sir Barnes Wallis, 1887-1979)の娘メアリー(Mary Wallis, 生年不詳)と婚約すると告げると、優生学(eugenics)を信じる母親のマリーは、メアリーの近眼が気に入らず、「孫ができたら近眼が遺伝してしま う!」と言って猛反対して騒動を起こした。発明家ウォリスに抗議の手紙を出したが、自分の思うようにならず、息子に遺産を渡さないとした。夫であり、ハリーの父親であるロウとは1930年代から疎遠になっていたが、マリーの主張する息子の婚約解消には同意しなかった。

なお、上記の優生学は二十世紀(1901-2000年)前半に猛威を振るった非常に危険な思想であり、ナチス・ドイツがユダヤ人やジプシー(現ロマ)や精神病患者を絶滅収容所に送り込んで抹殺しようとしたのは、この優生学に依拠している。

思いがけないところでは、1911年9月に日本初の女性による女性のための月刊誌 『靑鞜(せいたふ)』を創刊し、「元始女性は太陽であつた—靑鞜発刊に際して」と題した創刊の辞を高らかに謳(うた)い上げていた平塚らいてう(ひらつか らいちょう, 1886-1971)が、1917年8月に雑誌 『日本評論』(第三巻九號=大正六年九月號)に「避妊の可否を論ず」を発表している。曰(いわ)く、「殊にその日暮しの勞働者など到底多くの子供を養育して行くだ けの資力のないのが明であるにも拘はらず、(中略)多産して(中略)無智な無敎養な厄介者を社會に多く送り出すことによつていよ/\貧乏と無智とそれに伴ふ多くの罪惡の種子とをあたりにまき散して居ります。しかも彼らの両親はそれに對して何の責任をも感じて居りません。また或者は、酒精中毒者であつたり結核患者であつたり癲癇病者であつたり黴毒病者であつたり甚だしきは精神病者であつたりしながら生殖の事に携はり肉体的に又は精神的に虛弱な不健全な到底普通の生活をなすに堪へないやうな子供をお構ひなしに社會に送り出して居ります。(中略)のみならず、國家も亦國家で、(中略)國民の生殖事業を全く個人の自由にのみ放任し、そこに法律をもつて一つの制限を加へることさへしない(中略)。それなら私共は、(中略)子供はその數の多きよりも質の勝れたるものを求むべきであり社會に普通人としての生活を營む能力のないやうな虛弱な病氣勝な馬鹿な癇癪もちな犯罪的傾向のある子供などを產むことは許しがたき罪惡であるといふことを自覺するやう、(中略)國法をもつて個人の自由を制限するに至るやうこの際努むべきでせう。(中略)最近文明國でやかましく唱へられ出したかの人種改良學若しくは善種學に關する知識の普及やそれが實行法の一つとして、(中略)善種學者はもとより世の生物者や衞生論者や、醫者や或る種の新道德の主張者等によつて是認され、獎励され、贊美されてゐる避妊法も(中略)無論皆我國に於ても必要なことでなければなりますまい。」(太字箇所は実際の原典では傍点)と論ず。

主著

Married Love or Love in Marriage (1918)

『結婚の愛、或(ある)いは結婚に於(お)ける愛』

http://digital.library.upenn.edu/women/stopes/married/1918.html

http://en.wikipedia.org/wiki/Married_Love

【関連動画】

The Making of Modern Britain (Part 2 of 6)

Written & produced by Andrew Marr (b.1959)

BBC 2009

https://www.youtube.com/watch?v=aA05Y7K23Zc (39:30-40:30 of 58:51)

(著名なフェミニスト作家)

Virginia Woolf (1882-1941)

ヴァージニア・ウルフ(実際にはヴアヂェニャ・ルフのような発音)

https://en.wikipedia.org/wiki/Virginia_Woolf

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴァージニア・ウルフ

二十世紀英文学で最高の女性作家とされる。代表作に長篇小説 『ダロウェイ夫人』(Mrs Dalloway, 1925)、長篇小説 『灯台へ』(To the Lighthouse, 1927)、フェミニスト的なエッセイ 『自分自身の部屋』(A Room of One's Own, 1929)。英米でも日本の大学でも英文学の授業には必ず出てくる名である。

無名だった1910年には1つ年下の弟エイドリアン・スティーヴン(Adrian Stephen, 1883-1948)らとともに戦艦ドレッドノートいたずら訪問事件(The Dreadnought hoax: 本ウェブサイトの年表 https://sites.google.com/site/xapaga/home/universitytimeline の1910年の箇所を参照)に連座したが英国の法律に抵触(ていしょく)しなかったため処罰を受けることはなかった。第二次世界大戦(1939-45年) の最中の1941年3月28日(金)に精神を病んで入水(じゅすい)自殺。幼少期に腹違いの兄から性器を触られるという性的虐待を受けていたことが、精神病と自殺の原因として考えられている。

なお、ブロードウェイ・ミュージカル 『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』(Who’s Afraid of Virginia Woolf?, 1962)は、昔話に基づくディズニーアニメ映画 『三匹の子ぶた』(Three Little Pigs, 1933)の劇中歌「狼なんかこわくない」(Who’s Afraid of the Big Bad Wolf?)の捩(もじ)り(parody)であって、ヴァージニア・ウルフとは直接関係ない。

【関連動画】

世界一美しいと言われる遺書 ヴァージニア・ウルフ

週刊ジャーニー

英国ぶら歩き (Walk Britain)

2019年7月16日(火) 公開

https://www.youtube.com/watch?v=LzdfveQwfH8

(第二次世界大戦勃発の第一報を英国に伝えた女性記者・戦争特派員)

Clare Hollingworth, OBE (1911-2017)

クレア・ホリングワース

https://en.wikipedia.org/wiki/Clare_Hollingworth

https://www.telegraph.co.uk/news/2017/01/10/clare-hollingworth-dies-aged-105-telegraph-correspondent-broke/

https://www.theguardian.com/media/2017/jan/10/clare-hollingworth-obituary

https://www.bbc.com/news/entertainment-arts-38573643

https://www.bbc.com/news/uk-13960347

2017年1月10日(火)に満105歳3ヶ月で死去。戦争特派員(war correspondent)として活躍した女性記者。

第二次世界大戦(the Second World War; World War II, 1939-45)前にポーランド共和国首都ワルシャワに渡り、1938年にヒトラーによって故郷を奪われたチェコ市民らを支援し、英国査証(British visa)発給に力を貸した。

1939年8月下旬には保守系の大手新聞である日刊テレグラフ紙(The Daily Telegraph)に正社員のワルシャワ特派員として雇用され、それから1週間もしないうちにナチス・ドイツの不穏な動きを嗅ぎつけた。同年(1939年)8月28日(月)、当時は一般外国人立入禁止区域だったポーランド・ドイツ国境地帯へと運転手付の車で向かった。ホリングワース女史は在カトヴィツェ英国総領事(the British Consul General in Katowice, Poland)を説き伏せることに成功し、ユニオンフラッグ(Union Flag)、通称 ユニオンジャック(Union Jack)がはためく外交官専用車輛を貸してもらい、外交官として振る舞ったため、国境を越えてドイツに入国することができた。ドイツ側でワインとカメラのフィルムなどの買い物をしたが、ドイツ陸軍が国境附近に集結している様子を見逃さなかった。ポーランドに戻り、ロンドンの本社へ報告を送り、1939年8月29日(火)付の一面トップ記事となった。同年(1939年)9月1日(金)にはとうとうドイツ軍によるポーランド侵攻の歴史的瞬間を目撃し、在ワルシャワ英国大使館(British Embassy in Warsaw, Poland)に急いで電話した。ところが、なかなか信じてもらえず(曰く「英独間の戦争回避のための交渉が続いているので、戦争開始はあり得ない」と)、思わず受話器を窓の外にかざし、平和ボケした英国大使館員にドイツ軍が進撃する生の音を聴かせたエピソードは有名である。このホリングワース女史の電話連絡こそが、英国外務省(British Foreign Office)が受け取った第二次世界大戦勃発の第一報だった。

その後もポーランドに於ける戦況を英国に報告し続けたが、1940年には日刊エクスプレス紙(Daily Express)に籍を移し、社命のためルーマニア王国(現ルーマニア共和国)首都ブカレスト(Bucharest, Romania)に移動して戦況を伝えた。

1941年には北アフリカ戦線の根拠地エジプトへ渡り、他にもトルコ、ギリシア、アルジェリア、パレスチナ、イラク、ペルシア(現在のイラン)にも出向いて、その地に於ける連合軍(Allied Forces)の反撃をイギリスの新聞読者たちに伝えた。

第二次世界大戦後はパレスチナ、アルジェリア、中国、アデン(現在のイエメン)、ベトナムに赴いて、その地での戦乱について報告した。1981年に引退し、英領香港で暮らした。1997年7月1日(火)に中国の特別行政区になって以降も香港に暮し続けた。

生涯二度結婚したが、一度目は1936年に國際聯盟同盟(League of Nations Union)の地域指導者との結婚だったが、戦争取材に明け暮れているうちに擦れ違い、1951年に正式離婚した。同年(1951年)にはタイムズ紙(The Times)の中東特派員と再婚したが、1965年に死別し、その後は半世紀以上も未亡人(寡婦)生活を送った。

(近年一部のフェミニストたちに担ぎ上げられているユダヤ系英国女性科学者)

Dr Rosalind Franklin (1920-58)

ロザリンド・フランクリン博士

https://www.rosalindfranklinsociety.org/

https://jwa.org/encyclopedia/article/franklin-rosalind

https://en.wikipedia.org/wiki/Rosalind_Franklin

https://ja.wikipedia.org/wiki/ロザリンド・フランクリン

https://www.amazon.co.uk/Rosalind-Franklin-Dark-Lady-DNA/dp/0006552110/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1435738689&sr=1-1

https://www.amazon.co.uk/Sister-Rosalind-Franklin-Jenifer-Glynn/dp/0199699623/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1435738689&sr=1-3

https://www.amazon.co.uk/Rosalind-Franklin-D-N-Anne-Sayre/dp/0393320448/ref=sr_1_4?s=books&ie=UTF8&qid=1435738689&sr=1-4

https://www.amazon.co.uk/Scientists-Who-Made-History-Rosalind/dp/075028479X/ref=sr_1_5?s=books&ie=UTF8&qid=1435738689&sr=1-5

https://www.amazon.co.uk/Rosalind-Franklin-Scientists-Made-History/dp/0739852264/ref=sr_1_6?s=books&ie=UTF8&qid=1435738689&sr=1-6

https://www.amazon.co.uk/Rosalind-Franklin-Levelled-Biographies-Scientists/dp/0431045038/ref=sr_1_7?s=books&ie=UTF8&qid=1435738689&sr=1-7

https://www.amazon.co.uk/Double-Helix-Structure-DNA-Revolutionary/dp/1477718095/ref=sr_1_9?s=books&ie=UTF8&qid=1435738689&sr=1-9

https://en.wikipedia.org/wiki/Photo_51

https://en.wikipedia.org/wiki/DNA

https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Crick

https://en.wikipedia.org/wiki/James_Watson

https://en.wikipedia.org/wiki/Maurice_Wilkins

https://en.wikipedia.org/wiki/Raymond_Gosling

1953年にケイムブリヂ大学(University of Cambridge; 通称 Cambridge University)のフランシス・クリック(Francis Crick, 1916-2004)博士と米国人科学者ジェイムズ・ワトスン(James Watson, b.1928)博士とニュージーランド出身の科学者モーリス・ウィルキンズ(Maurice Wilkins, 1916-2004)博士が共同でデオキシリボ核酸(DNA: deoxyribonucleic acid) の二重螺旋構造(the double helix)を発見したことが評価され、九年後の1962年ノーベル生理学・医学賞(典 Nobelpriset i fysiologi eller medicin 1962; 英 Nobel Prize in Physiology or Medicine 1962)を受賞した。

しかし彼らは自分らと仲が悪かったユダヤ系女性科学者ロザリンド・フランクリン(Rosalind Franklin, 1920-58)博士が撮影に成功したX線回折写真を無断で盗んだためにDNAの二重螺旋構造を発見したことが明らかになっている。フランクリン博士は盗まれた自分の写真が基(もと)で、自分と仲が悪かった三人の男性研究者が四年後にノーベル賞を受賞するなどとは夢にも思わず、1958年に満三十七歳の若さで卵巣癌(ovarian cancer)で病歿していた。

但し、近年一部のフェミニストたちが著書の中やウェブ上でフランクリン博士を顕彰(けんしょう)しようとする動きについては、過大評価だとする冷淡な見方もある。

(参考資料)

福岡伸一(ふくおか しんいち, b.1959)青山学院大学教授・農学博士(京都大学)著

『生物と無生物のあいだ』(講談社 講談社現代新書, 2007年)

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4061498916/ref=cm_cr_dp_see_all_summary?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=byRankDescending

福岡伸一 「隠された科学者-ロザリンド・フランクリン-」(数研出版サイエンスネット 2007年11月号)

https://www.chart.co.jp/subject/rika/scnet/31/sc31-3.pdf

在英ジャーナリスト 木村正人(きむら まさと, b.1961)「差別発言でカネに窮したDNA二重らせん発見者 ノーベル賞メダル競売の栄光と転落」(2014年11月29日(土))

https://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20141129-00041084/

【悲運の女性科学者フランクリン博士に関する伝記的翻訳劇】

『PHOTOGRAPH(フォトグラフ)51』(東京、大阪、2018年4月)

http://www.umegei.com/photograph51/

【上記の翻訳劇に関するコラム】

科学とシェイクスピア、そして翻訳の困難~『PHOTOGRAPH 51』

医学史と社会の対話

北村紗衣(きたむら さえ, b.1983)武蔵大学准教授・博士(ロンドン大学国王学寮)署名コラム

2018年4月6日(金)

https://igakushitosyakai.jp/article/904/ (リンク切れ)

小見出し1: ロザリンド・フランクリンと作品の背景

小見出し2: 科学と芸術の美

小見出し3: 科学劇と翻訳の困難さ

(実業家の夫と二人三脚でデザイン事業を成功させた英国女性デザイナー)

Laura Ashley (1925-85)

ローラ・アシュリー

https://en.wikipedia.org/wiki/Laura_Ashley

https://ja.wikipedia.org/wiki/ローラ・アシュレイ

第一次世界大戦(1914-18年)での戦場体験から戦争神経症(shell shock)を患(わずら)った父親と、その従妹(いとこ)である母親から成るマウントニー夫妻(Mr and Mrs Mountney)の間にウェールズの都カーディフ市近郊の村に生まれた。両親ともにウェールズ人。

第二次世界大戦(1939-45年)が勃発すると、英国海軍女性部隊(Women’s Royal Naval Service)、通称 Wrens(「ミソサザイたち」の意)に入隊し、十九歳から約二年間、欧州大陸に潜伏して対ナチスの危険な特殊任務を遂行した。

大戦後に軍務経験のある1つ年下の実業家バナード・アシュリー(Sir Bernard Ashley, 1926-2009)と結婚した。アシュリー夫妻は子育てしながらプリント生地生産の事業を起こした。1953年に幾何学柄のプリントのスカーフが大ヒッ トし、百貨店で品切れが相次いだ。ローラの手がけた田舎風デザインは、戦後十年も続いた配給制(rationing)の中で物不足に喘(あえ)ぐ人々に 古き良き時代(good old days)を思い起こさせた。これこそが成功の一因と考えられる。また、1950年代当時は英国女性にもまだ専業主婦(housewives)が多く、彼女たちは家事を一手に担い、家庭を快適な場にしようと努力していた。こうした時代背景もローラ・アシュリーの成功を後押しした。

ブランド名を女性的な響きの本名ローラ・アシュリー(Laura Ashley; 但し、日本では誤ってローラアシュレイ)に統一し、生活雑貨を売り始めた。この女性的な路線が益々ヒットして、テーブルマットやティータオルがよく売れた。成功の背景には夫バナードの実業家としての辣腕(らつわん)も寄与している。

1985年9月7日(土)、満六十歳の誕生日に娘の自宅の階段で転げ落ち病院に運ばれたが、その十日後の同年9月17日(火)に病院のベッドで死去した。

妻の死後も夫のバナード・アシュリー氏が事業を拡大継続し、亡き妻の名を世界的なブランド名に仕立て上げたが、妻の死から二十四年後の2009年に死去した。その更に十一年後の2020年3月17日(火)、新型コロナウイルス(new coronavirus; novel coronavirus; WHO国際名称 COVID-19)の感染拡大で売り上げが大きく落ち込んだ上に感染終息の見通しも立たず、支援する企業も見つからなかったとのことで、ローラ・アシュリー社は英国政府に破産を申請した。

Dame Stella Rimington (b.1935)

Director-General of MI5, 1992-96

国内治安維持諜報機関 MI5 (マイファイヴ)に女性として初めて就任した

デイム・ステラ・リミントン元長官

https://en.wikipedia.org/wiki/Stella_Rimington

Dame Vivien Westwood (b.1941)

Fashion designer

反核・反戦運動や環境保護運動での政治的発言や実力行使で知られる闘うファッションデザイナー

英女性勲爵士(デイム)・ヴィヴィアン・ウェストウッド

https://en.wikipedia.org/wiki/Vivienne_Westwood

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴィヴィアン・ウエストウッド

2015年9月にはキャメロン(David Cameron, b.1966; 首相在任2010-16)首相(当時)が自分だけ身勝手な Nimby (ニンビー: 「うちの裏庭は嫌(いや)だよ」を意味する Not in my back yard の略)政策を推(お)し進めているとして、当時74歳のウェストウッド女史がオクスフオッド州(Oxfordshire)に在る同首相の私邸に白い戦車風の車輛で乗りつけ、フラッキング(fracking: 直訳「破砕(はさい)法」)またはハイドロフラッキング(hydrofracking: 直訳「水圧破砕法」)と呼ばれる方法によるシェールガス採掘に抗議し(2015年9月11日(金)の報道 https://www.theguardian.com/fashion/2015/sep/11/vivienne-westwood-tank-protest-fracking-david-cameron-chadlington / https://www.independent.co.uk/news/people/vivienne-westwood-drives-tank-to-david-camerons-house-in-antifracking-protest-10496728.html )、2020年7月には「ウィキリークス」創始者の米引き渡しに対し当時79歳のウェストウッド女史が抗議している( https://news.nifty.com/article/entame/showbizw/12239-740229/ / https://article.yahoo.co.jp/detail/6817102c60fbb21b48cd2ab52f468b5414379bdf / https://www.youtube.com/watch?v=I5iam7fSats )。

Dame Anita Roddick (1942-2007)

Founder of The Body Shop chain stores

動物実験に反対するザ・ボディショップ創業者

英女性勲爵士(デイム)アニータ・ロディック

https://en.wikipedia.org/wiki/Anita_Roddick

https://ja.wikipedia.org/wiki/アニータ・ロディック

[参考]

ウサギの首を固定して…日本で行われる「動物実験」、そのおぞましすぎる実態

現代ビジネス

講談社『週刊現代』2021年3月13日(土)号より

2021年3月5日(金)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/80804

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/80804?page=2

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/80804?page=3

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/80804?page=4

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/80804?page=5

https://news.yahoo.co.jp/articles/ba3dbcb54dd0ba8995fe9ddb0aef29ef7fd2370e

https://news.yahoo.co.jp/articles/ba3dbcb54dd0ba8995fe9ddb0aef29ef7fd2370e?page=2

https://news.yahoo.co.jp/articles/ba3dbcb54dd0ba8995fe9ddb0aef29ef7fd2370e?page=3

https://news.yahoo.co.jp/articles/ba3dbcb54dd0ba8995fe9ddb0aef29ef7fd2370e/comments

小見出し1: 3日3晩苦しみ続ける

小見出し2: 残酷で非科学的な実験

小見出し3: 毛を剃って毒を塗る

小見出し4: 企業側の言い分

Kate Adie (b.1945)

British journalist and war correspondent

戦争特派員

ケイト・エイディ

https://en.wikipedia.org/wiki/Kate_Adie

Lyse Doucet (b.1958)

Canadian-born, British and Canadian dual nationality BBC journalist and correspondent, who has won several awards, despatching reports from the world’s most dangerous places

カナダ生まれの英加二重国籍ジャーナリスト、BBC特派員として世界最悪の危険地帯からリポートして数々の賞を受賞

リーズ・ドゥーセット

https://en.wikipedia.org/wiki/Lyse_Doucet

https://www.bbc.com/news/topics/c2e418d0zxqt

https://www.gg.ca/en/honours/canadian-honours/order-canada/lyse-doucet-cm-obe

https://www.imdb.com/name/nm1570488/bio

Diana, Princess of Wales (1961-97)

ウェールズ大公(英皇太子)夫人、ダイアナ妃

https://en.wikipedia.org/wiki/Diana,_Princess_of_Wales

https://ja.wikipedia.org/wiki/ダイアナ_(プリンセス・オブ・ウェールズ)

その事故死についての詳細は、本ホームページの

https://sites.google.com/site/xapaga/home/shockingcrimes

を参照のこと。

J. K. Rowling (b.1965)

Best-selling author of the Harry Potter series

ハリー・ポッター連作小説の著者

J. K. ローリング(正しくはロウリング)

https://en.wikipedia.org/wiki/J._K._Rowling

https://ja.wikipedia.org/wiki/J・K・ローリング

【スピーチ原稿と動画】

西曆2008年 6月 5日(木) J. K. ローリングのハーヴァード大学卒業式祝辞対訳

https://sites.google.com/site/xapaga/home/jkrowlingharvard2008

100名の最も偉大な英国人(100 Greatest Britons)

https://en.wikipedia.org/wiki/100_Greatest_Britons

https://ja.wikipedia.org/wiki/100名の最も偉大な英国人

https://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/2509465.stm

https://www.theguardian.com/media/2002/aug/22/britishidentityandsociety.television

https://www.dailymail.co.uk/news/article-143702/Are-really-Greatest-Britons.html

普通選挙

universal suffrage

https://en.wikipedia.org/wiki/Women's_suffrage#United_Kingdom

https://en.wikipedia.org/wiki/Universal_suffrage

https://ja.wikipedia.org/wiki/普通選挙

suffrage フれッヂ=参政権

suffragist フらヂスト=婦人参政権運動家(穏健派から過激派まで広義の参政権運動家)

suffragette サフらヂェッ=過激派婦人参政権運動家

https://en.wikipedia.org/wiki/Suffragist

二十世紀(1901-2000年)初頭=つまり1901年1月22日(火)のヴィクトリア女王の薨去(こうきょ)から1914年8月4日(火)の英国の第一次世界大戦への参戦まで=に於いて女性の政治参加を拒む理由として、女性には力(power; empowerment)が無く、政治(politics)は力の世界だから、女性に国家防衛や国の大局に関(かか)わる能力が無いとか、女は理性(reason)に欠け、感情的(emotional)で物事を冷静かつ合理的に(in a calm and rational manner)考えて判断できないなど、(現在の視点で見れば)およそ科学的根拠に欠けるものばかりであった。また、各政党にしても女性に参政権を与えなくても政権に就くことは充分可能であり、女性参政権に必要性を感じないどころか、むしろ女どもに投票させてやることで自分たちの党に不利になる可能性について危惧していたため、女性参政権問題に極めて消極的であった。

女性参政権運動家の穏健派(おんけんは)2名

Millicent Fawcett (1847-1929)

ミリセント・フォーセット

https://en.wikipedia.org/wiki/Millicent_Fawcett

https://en.wikipedia.org/wiki/National_Union_of_Women's_Suffrage_Societies

1871年に女子学生を受け入れるためのケイムブリヂ大学ニューナム学寮(Newnham College, Cambridge)を、哲学者・経済学者の男性であるヘンリー・シヂウィック(Henry Sidgwick, 1838-1900)と共に創立。1897年に全国女性参政権協会連合(NUWSS: National Union of Women’s Suffrage Societies)を組織。

Dame Sarah Mair (1846–1941)

デイム・セアラ・メア

https://en.wikipedia.org/wiki/Sarah_Mair

https://en.wikipedia.org/wiki/Edinburgh_Association_for_the_University_Education_of_Women

スコットランドの女性教育と女性参政権の運動家。エディンバラ女性大学教育協会(EAUEW: Edinburgh Association for the University Education of Women)と、十九歳の時に自分で組織した婦人エディンバラ討論協会(LEDS: Ladies’ Edinburgh Debating Society)で活躍。後者の討論協会については以後七十年間も会長職。前者の大学教育協会は1896年にスコットランドの各大学が男女共学化したた め、活動の方向性を変え、女子学生のための設備を整えることに尽力した。

女性参政権運動家の過激派6名

Emmeline Pankhurst (1858-1928)

エメリン・パンクハースト

https://ja.wikipedia.org/wiki/エメリン・パンクハースト

https://en.wikipedia.org/wiki/Emmeline_Pankhurst

https://www.bbc.co.uk/history/historic_figures/pankhurst_emmeline.shtml

https://en.wikipedia.org/wiki/Women%27s_Social_and_Political_Union

1903年10月13日(金)に女性社会政治連合(WSPU: Women’s Social and Political Union)を組織し、「言葉より行動を」(Deeds not Words)を合言葉に中産階級女性の権利拡大を目指す。1909年7月5日(月)~8日(木)にはスコットランド出身でWSPUに所属する過激派女権運動家(suffragette)であるマリオン・ウォレス・ダンロップ(Marion Wallace Dunlop, 1864-1942)が、「通常の犯罪者としてではなく政治犯として」(as a political prisoner instead of as a common criminal)遇されない限りは食事の摂取を拒否すると獄中で宣言し、91時間のハンスト(hunger strike)を敢行。三日後に衰弱(ill health)を理由に釈放される。これを機に他の過激派女権運動家たち(サフらヂェッ)も模倣して収監中にハンストを実行するようになるが、官憲側(当局側)もこれに負けじと強制供食または強制給餌または食餌強制(force-feeding or forced feeding)という過激な実力行使に打って出るようになる( https://www.google.com/search?q=force-feeding+for+suffragettes&source=lnms&tbm=isch )。

しかし1914年8月4日(火)に英国が第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)に参戦してから六日後の同年(1914年)8月10日(月)、WSPUの女囚が釈放されると、パンクハースト夫人は全ての活動の中止を宣言した。多くの男性が軍務に就いたため各職場は労働力不足となり、多くの女性がこれまで経験したことのない仕事をこなすようになった。過激派女性参政権運動家たち(suffragettes サフらヂェッ)は、それまでの破壊活動等とは決別し、戦争遂行(war efforts)に於いて英国政府(His Majesty’s Government)の方針に従うよう全面的に方針転換した。終戦の年である1918年までに百万人の女性(1 million women)が新しく仕事に就いたという。

国策としての戦争遂行(war effort)を支持したご褒美(ほうび)として、まだ戦争が終わっていない1918年2月6日(水)に普通選挙法(Representation of the People Act 1918)の勅裁・施行で男性にのみ資産の額に関係の無い普通選挙権が与えられ、女性には資産に応じた制限選挙権が与えられたので、これが英国に於()ける女性参政権の一応の始まりとされる。

その十年後の1928年7月2日(火)、普通選挙法(Representation of the People (Equal Franchise) Act 1928)の勅裁・施行(同年3月に法案可決済)で英国初の男女平等の普通選挙権が実現するも、ここまで中心的な役割を果たしてきたパンクハースト夫人は同年6月14日(金)に既に死亡していた。

Christabel Pankhurst (1880-1958)

クリスタベル・パンクハースト

https://en.wikipedia.org/wiki/Christabel_Pankhurst

上記のパンクハースト夫人(エメリン・パンクハースト)の3人娘の中の長女。母親に寄り添い、女性社会政治連合WSPU: Women’s Social and Political Union)に入り、中産階級女性の権利拡大を目指す。ヴィクトリア大学マンチェスター(現在のマンチェスター大学)法科学生だった1905年10月13日(金)、下記のアニー・ケニー(Annie Kenney, 1879-1953)と連れだって、当時二大政党の一翼を担っていた自由党(Liberal Party)の大会に乱入して逮捕される。場所はマンチェスター中心地の自由貿易講堂(Free Trade Hall)で、そこには後に首相になるチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55; 王立サンドハースト陸軍士官学校卒)もいた。二人は椅子の上に乗って立ち、「自由党は女性に投票権を与える気はあるのか。(Will the Liberals give women the vote?)」と叫んだが、返答は貰えなかった。そこで二人は「女性に投票権を(Votes for Women)」と書かれた横断幕を掲げた。「黙れ!(Shut up!)」と叫ぶ者もいたが、「女性たちに喋らせろ!(Let the women speak!)」と言ってくれる者もいた。クリスタベルは党大会の警備に当たっていた警察官に唾(つば)を吐き、顔を平手打ちしたため、アニーともども抱きかかえられて往来へ連れ出されたが、逮捕はされなかった。そもそも逮捕されることで世間の注目を集めることが目的だったので、逮捕されないことは大いに不満だった。そこで往来でも警官に唾を吐き、顔を平手打ちした。そして今度は漸(ようや)く逮捕された。二人は刑事裁判にかけられ有罪判決を受けるが、禁固刑か罰金刑か、どちらを欲するかと判事に問われると、二人は喜んで禁固刑を選んだ。主犯のクリスタベルは禁固6日の刑、共犯のアニーは禁固3日の刑に服したが、マンチェスターのストレインヂウェイ刑務所(Strangeway Prison: 直訳「奇道刑務所」)を出所する際は、事件のことを聞きつけた支持者たちで出入口前は溢(あふ)れかえった。ところが、第一次世界大戦(the Great War; the First World War; World War I, 1914-18)では母親のエメリンとともに国策としての戦争遂行(war effort)を支持。

【関連動画】

The Making of Modern Britain (Part 1 of 6)

Written & produced by Andrew Marr (b.1959)

BBC 2009

https://www.youtube.com/watch?v=Vx3-uVwAVo4 (47:30-51:56 of 1:04:20)

Sylvia Pankhurst (1882-1960)

シルヴィア・パンクハースト

https://en.wikipedia.org/wiki/Sylvia_Pankhurst

上記のパンクハースト夫人(エメリン・パンクハースト)の3人娘の中の3人娘の次女。第一次世界大戦で戦争に反対し、母と姉とは袂(たもと)を分かち、労働者階級の女性たちと連帯。後年は反ファシスト運動のためにイタリア占領下のエチオピアへ渡る。

参考書

中村久司(なかむら ひさし, b.1950)

『サフラジェット 英国女性参政権運動の肖像とシルビア・パンクハースト』(大月書店, 2017年)

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4272530445/ref=acr_dpproductdetail_text?ie=UTF8&showViewpoints=1

Adela Pankhurst (1885-1961)

アデラ・パンクハースト

https://en.wikipedia.org/wiki/Adela_Pankhurst

上記のパンクハースト夫人(エメリン・パンクハースト)の3人娘の中の3人娘の三女。豪州に渡って活動を継続。

Annie Kenney (1879-1953)

アニー・ケニー

https://en.wikipedia.org/wiki/Annie_Kenney

自身は労働者階級の出身で「青い目の乞食(こじき)」(a blue-eyed beggar)と揶揄(やゆ)されながら上記の中産階級のパンクハースト家の長女シルヴィアと行動を共にし、1905年10月13日(金)に自由党の大会を妨害し、警察官への公務執行妨害の罪で逮捕され、刑事裁判で共犯として有罪となり禁錮3日の刑に服すと、女性参政権運動家の英雄的存在に成る。

Emily Davison (1872-1913)

エミリー・デイヴィスン

https://en.wikipedia.org/wiki/Emily_Davison

無名な一活動家に過ぎなかったが、1913年6月4日(水)、上流階級と労働者階級の集うエプソム(Epsom)競馬にて国王ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)所有で、ビリから三着で疾走中だった競争馬アンマー(Anmer)に身を投げ出し(実は単に横断幕を掲げようとしただけとする説もあり)、四日後の6月8日(日)に搬送先の病院で死亡。死去から六日後(事件から十日後)の1913年6月14日(土)に女性社会政治連合(WSPU: Women’s Social and Political Union)によって主催された葬儀では数千人の女性参政権運動家が棺を見守り、野次馬を含む数万人の群衆が詰めかけた。競馬場での命がけの事件で死して一躍有名になったが、多くの英国人は馬と騎手(jockey)の安否を気にかけた。

【関連動画】

The Making of Modern Britain (Part 2 of 6)

Written & produced by Andrew Marr (b.1959)

BBC 2009

https://www.youtube.com/watch?v=aA05Y7K23Zc&t=2790s (40:30-46:30 of 1:25:20)

【第一次世界大戦】 出征した男性に代わり力強く働いた女性たち(画像集)

ハフィントンポスト(The Huffington Post)日本語版

2014年8月12日(火)

https://www.huffingtonpost.jp/2014/08/11/ww1-women_n_5667022.html

女性参政権100年 サフラジェットの決意

オンライン・ジャーニー

『週刊ジャーニー 』No.1020

名越美千代(なごし みちよ)記者署名コラム

2018年2月1日(木)

https://www.japanjournals.com/feature/survivor/10849-suffragette.html

サフラジェットの闘い:イギリスの女性参政権獲得から100年

ラブリー(Lovely)=本名非公開

2018年2月6日(火)公開、2020年3月8日(日)更新

https://1ovely.com/suffragette/

英女性参政権100年 当時のポスターが描く女性たちの怒り

英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)日本語版

2018年2月7日(水)

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-42971614

[もとの英語記事]

The 100-year-old protest posters that show women’s outrage

(女性たちの怒りを示す百年前の抗議ポスター群)

英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)

2018年2月2日(金)

https://www.bbc.com/news/in-pictures-42875095

【写真特集】100年前の英国で、女性参政権を求め身体を張って闘った人々の写真

バズフィード日本版(BuzzFeed Japan)

アラン・ホワイト(Alan White)記者署名記事

2018年4月12日(木)

https://www.buzzfeed.com/jp/alanwhite/long-long-time-ago-woman-fights-to-get-the-rights

1914年11月25日(水)、夏目漱石(なつめ そうせき, 1867-1916)こと、本名 夏目金之助(なつめ きんのすけ, 1867-1916)が、學習院(がくしふゐん)輔仁會(ほじんくゎい)に於ける講演「私の個人主義」の中で、「近來(きんらい)女權(じよけん)擴張(かくちやう)論者(ろんぢや)と云()つたやうなものが無暗(むやみ)に狼藉(らうぜき)をするやうに新聞(しんぶん)などに見()えてゐますが、あれはまあ例外(れいぐゎい)です。例外(れいぐゎい)にしては數(かず)が多(おゝ)過()ぎると云()はれゝばそれ迄(まで)ですが、何()うも例外(れいぐゎい)と見()るより外(ほか)に仕方(しかた)がないやうです。嫁(よめ)に行()かれないとか、職業(しよくげふ)が見附(みつ)からないとか、又(また)は昔(むかし)から養成(やうせい)された、女(おんな)を尊敬(そんけい)するといふ氣風(きふう)に附()け込()むのか、何(なに)しろあれは英國人(えいこくじん)の平生(へいぜい)の態度(たいど)ではないやうです。名畫(めいが)を破(やぶ)る、監獄(かんごく)で斷食(だんじき)して獄丁(ごくてい)を困(こま)らせる、議會(ぎくゎい)のベンチへ身體(からだ)を縛(しば)り附()けて置()いて、わざ/\騷々(さう/\゛)しく叫(さけ)び立()てる。是(これ)は意外(いぐゎい)の現象(げんしやう)ですが、ことによると女(おんな)は何(なに)をしても男(おとこ)の方(はう)で遠慮(ゑんりよ)するから構(かま)はないといふ意味(いみ)で遣()つてゐるのかも分(わか)りません。然(しか)しまあ何()ういふ理由(りいう)にしても變則(へんそく)らしい氣()がします。一般(いつぱん)の英國(えいこく)氣質(きしつ)といふものは、今(いま)御話(おはな)しした通(とほ)り義務(ぎむ)の觀念(くゎんねん)を離(はな)れない程度(ていど)に於(おひ)て自由(じいう)を愛(あい)してゐるやうです。」と語る。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/957313 コマ番号529/601

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html

『漱石全集 第9巻 (小品・評論・雜篇)』(漱石全集刊行會, 1918年)

『夏目漱石全集10』(筑摩書房 ちくま文庫, 1988年)

『ちくま日本文学全集 夏目漱石』(筑摩書房, 1992年)

【関連動画】

The Making of Modern Britain (Part 3 of 6)

Written & produced by Andrew Marr (b.1959)

BBC 2009

https://www.youtube.com/watch?v=x9OKKzosjQg (20:46-24:50 of 59:15)

[比較参考として第二次世界大戦中の大日本帝國]

日本ニユース第154號

1943年5月18日(火)公開

https://www.youtube.com/watch?v=Nh-l5ePDJ74 (2:45-5:03 of 9:04)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300539_00000&seg_number=003

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300539_00000&seg_number=004

日本ニユース第222號

1944年8月31日(木)公開

https://www.youtube.com/watch?v=K9m_gRiWxMI (5:04-10:07 of 10:15)

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300350_00000&seg_number=005

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300350_00000&seg_number=006

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300350_00000&seg_number=007

2012年7月27日(金) 21:00開始のロンドン五輪開会式で過激派女性参政権運動家たち(suffragettes サフらヂェッ)の勇姿(ゆうし)を再現

https://www.youtube.com/watch?v=4As0e4de-rI (0:24:33-0:24:47 of 3:59:49)

【参考資料】

東北公益文科大学の本間ひろみ(ほんま ひろみ, 生年不詳)非常勤講師

「英国における女性参政権運動の高揚について」

『東北公益文科大学総合研究論集』(2002年)所収

https://koeki.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=58&item_no=1&page_id=13&block_id=21

https://ci.nii.ac.jp/naid/110004557363

敬和学園大学の杉村使乃(すぎむら しの, b.1968?)准教授

「工場と戦場における女性 : 第二次世界大戦下のイギリスにおける女性の戦時奉仕」

『敬和学園大学研究紀要 第15巻』(2006年)所収

https://www.keiwa-c.ac.jp/wp-content/uploads/2012/12/kiyo15-10.pdf

成城大学の富田裕子(とみだ ひろこ, 生年非公開)兼任講師

「Women’s Social and Political Union (女性社会政治連合)と英国の婦人参政権運動」

成城大学 『Seijo English Monographs 吉田正治・塩川千尋両教授退職記念号』(2008年)所収

https://seijo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3452&item_no=1&page_id=13&block_id=17

http://www.seijo.ac.jp/graduate/gslit/orig/journal/english/pdf/seng-40-10.pdf

https://ci.nii.ac.jp/naid/120005526223

佐藤繭香(さとう まゆか, 生年非公開)麗澤大学准教授

『イギリス女性参政権運動とプロパガンダ エドワード朝の視覚的表象と女性像』(彩流社, 2017年)

https://www.amazon.co.jp/イギリス女性参政権運動とプロパガンダ-エドワード朝の視覚的表象と女性像-佐藤-繭香/dp/477912283X

(関連コラム1)

塩村都議への性差別ヤジ 日本の女性は生ぬるい

在英国際ジャーナリスト 木村正人(きむら まさと, b.1961)

2014年6月22日(日)

http://kimumasa2012london.blog.fc2.com/blog-entry-500.html (リンク切れ)

https://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20140622-00036639/

小見出し1: 「笑ってごまかそうと思った」

小見出し2: 英国では怖くてとても口にできない

小見出し3: あまりに日本的な反応

小見出し4: ここまでやるのか、英国の女性参政権運動

小見出し5: 日本女性は月か、太陽か

(詳細はコラム本文へ)

(関連コラム2)

小池都知事は日本のパンクハーストになれるか 女性の政治参加は、闘争か協調のどちらが正解

在英国際ジャーナリスト 木村正人(きむら まさと, b.1961)

2017年1月10日(火)

https://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20170110-00066418/

小見出し1: 新党で安倍首相に真っ向勝負か

小見出し2: 闘う女性政治家

小見出し3: サフラジェッツって何?

小見出し4: 法律を変えないと何も変わらない

小見出し5: 凄まじかった闘争

小見出し6: 市川房枝さんもパンクハースト人形を持っていた

小見出し7: 下院の女性議員の割合159位の日本

(詳細はコラム本文へ)

(関連コラム3)

世界の女性活躍が、実は2度の戦争がきっかけで広まったワケ

プレジデント・オンライン Woman

蔭山克秀(かげやま かつひで)代々木ゼミナール公民科講師

2020年7月12日(日)

https://trilltrill.jp/articles/1473715

パンクハーストに率いられた女性たちの権利を求める闘いを描いた2015年公開のイギリス映画 『未来を花束にして』(原題 Suffragette: 『過激派女性参政権運動家』の意)が2017年1月27日(金)から東京首都圏の映画館で公開

(公式ウェブサイト)

https://mirai-hanataba.com/ (リンク切れ)

映画 『未来を花束にして』予告編

(日本語字幕版)

https://www.youtube.com/watch?v=iG6DM8RvI-g

Suffragette Official UK Trailer #1 (2015) - Carey Mulligan, Meryl Streep Drama HD

https://www.youtube.com/watch?v=3HdQ0iVrl2Y

女性参政権運動について描いた映画 『サフラジェット』の邦題が『未来を花束にして』に…公開を喜びつつも何とも言えない気持ちになる人々

https://togetter.com/li/1024313

「#女性映画が日本に来るとこうなる」の「女性映画」ってなに?~変わりゆく女たちの映画

Wezzy (ウェジー)

北村紗衣(きたむら さえ, b.1983)武蔵大学専任講師(後に准教授)・博士(ロンドン大学国王学寮)署名コラム

2016年10月9日(日)

https://wezz-y.com/archives/36518

https://wezz-y.com/archives/36518/2

https://wezz-y.com/archives/36518/3

https://wezz-y.com/archives/36518/4

小見出し1: 女性映画が日本に来ると…?

小見出し2: 「女性映画」とは?

小見出し3: 現在、そして未来の女性映画

小見出し4: 参考になりそうなウィキペディア記事

#女性映画が日本に来るとこうなる のタグを生んだ サフラジェット とは何者か

togetter

2016年9月14日(水)

https://togetter.com/li/1024397?page=2

映画で“女性”の歴史を辿る。フェミニズムを描いたおすすめ映画9選【国際ガールズデー】

ciatr[シアター]

2020年10月12日(月)

https://ciatr.jp/topics/308294

https://article.yahoo.co.jp/detail/62ef0c094db44319f2f77504ffb846a28e62e5ef

【第1波フェミニズム】「男女平等」への第一歩『未来を花束にして』(2017年)

【国際女性デー】歴史を作ってきた女性たちを描く、実話をもとにした映画10選

Frontrow

フロントロウ編集部

2021年3月8日(月)

https://front-row.jp/_ct/17436547

https://trilltrill.jp/articles/1822499

5.

『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』

『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』は、政治家人生の中で多くの賞賛と批判を受けながらも、女性史に名を刻んだ女性、マーガレット・サッチャーの人生を描いた2011年の伝記ドラマ。八百屋の娘として人生のスタートを切ったサッチャーが、オックスフォード大学で学び、その後、男性優位の政界に入り、女性として初めて首相になるまでの道のりを追っている。メリル・ストリープは、この伝記映画でサッチャーを演じ、ゴールデン・グローブ賞主演女優賞とBAFTA主演女優賞を受賞した。

9.

『未来を花束にして』

1910年代のイギリスで、婦人参政権を求めて闘った女性たちの姿を描いた伝記映画、『未来を花束にして』。WSPU(女性社会政治同盟)のリーダーであるエメリン・パンクハーストの演説を聞き、デモにも参加するようになった女性が、女性の政治活動を不満に思う夫から家を追い出され、息子と会うことも禁じられ、職も失ってしまいながらも、権利のために戦う姿が描かれる。キャリー・マリガン、メリル・ストリープ、ベン・ウィショー、ヘレナ・ボナム=カーターらが出演している。

ウィキペディア

https://en.wikipedia.org/wiki/Suffragette_(film)

https://ja.wikipedia.org/wiki/未来を花束にして

アマゾン

https://www.amazon.co.jp/未来を花束にして-DVD-キャリー・マリガン/product-reviews/B071NVPSG6/ref=cm_cr_dp_d_show_all_top?ie=UTF8&reviewerType=all_reviews

https://www.amazon.co.jp/未来を花束にして-字幕版-キャリー・マリガン/dp/B0743KXZJ6/ref=sr_1_1?s=instant-video&ie=UTF8&qid=1518605290&sr=1-1&keywords=未来を花束にして

デイヴィッド・ボウイ(David Bowie, 1947-2016)こと、本名 デイヴィッド・ロバート・ジョーンズ(David Robert Jones)による楽曲 ‘Suffragette City’ (1972) = 邦題 「サフラジェット・シティー」(昭和47年)

https://denihilo.com/david-bowie/suffragette-city (歌詞対訳)

https://www.youtube.com/watch?v=ED3SBJhawcA (1972年当時のライブ映像)

https://www.youtube.com/watch?v=3AWbxoMfx3s (1990年来日ライブ映像)

1918年2月5日(火) 「1918年普通選挙法」(Representation of the People Act 1918)が英国議会(Parliament)で可決される。

1918年2月6日(水) 「1918年普通選挙法」(Representation of the People Act 1918)の勅裁・施行で男性にのみ資産の額に関係の無い普通選挙権が与えられる(1792年のフランス革命政府、1848年に再導入のフランス第二共和 制、1867年の北ドイツ連邦、1870年のアメリカ、1879年のブルガリアに次ぐ五ヶ国目)。しかし居住地以外に資産を保有する男子は複数の選挙権を 得たため、いまだに不平等な選挙だった。女性には資産に応じた制限選挙権が与えられたので、これが英国に於()ける女性参政権の一応の始まりとされる。

(外部サイト)

BBC World Service

2018年2月6日(火)

https://www.bbc.co.uk/programmes/w3csvtx5

1928年7月2日(火) 1928年普通選挙法(Representation of the People (Equal Franchise) Act 1928)の勅裁・施行(同年3月29日(金)に法案が提出され、同年5月23日(木)に上下両院で法案可決済)で英国初の男女平等の普通選挙権。女性も男性同様、資産の額とは無関係に政治参加する権利を勝ち取る。ここまで中心的な役割を果たしてきたパンクハースト夫人(Emmeline Pankhurst, 1858-1928)は同年(1928年)6月14日(金)に既に他界していた。

世界の女性参政権年表

1869年 アメリカ合衆国西部のワイオミング準州(現在のワイオミング州)議会が全女性に投票権を付与する決議。なお、五十五年後の1924年にアメリカ初の女性知事を選出したのもワイオミング州。

1893年 英領ニュージーランド(現英連邦ニュージーランド: 被選挙権は1919年から)。

1902年 豪州(現英連邦豪州: 英国から自治領として半独立して僅か二年目のこと)。

1906年 ロシア帝国領フィンランド大公国(現フィンランド共和国: この際に初めて女性に被選挙権が認められる)。

1913年 ノルウェー王国。

1915年 デンマーク王国、アイスランド共和国。

1917年 ソ連(現ロシア連邦その他)。

1918年 英自治領カナダ(現英連邦カナダ)、ドイツ国(現ドイツ連邦共和国)、連合王国(Representation of the People Act 1918: 男性にのみ普通選挙権、女性には制限選挙権)。

1919年 オーストリア連邦国(現オーストリア共和国)、オランダ王国、ポーランド連邦(現ポーランド共和国)、スウェーデン王国。

1920年 アメリカ合衆国(州によっては国政選挙を含めてそれ以前より)。

1928年 連合王国(Representation of the People Act 1928: 男女平等の普通選挙権)。

1929年 エクアドル共和国。

1931年 ポルトガル共和国、スペイン共和国(現スペイン王国)。

1932年 シャム王国(現タイ王国)、ブラジル合衆共和国(現ブラジル連邦共和国)、ウルグアイ東方共和国。

1934年 トルコ共和国、キューバ。

1924年 ドミニカ共和国。

1945年 フランス共和国、(ソ連軍占領下の)ハンガリー、(連合軍占領下の)イタリア、(連合国軍総司令部統治下の)日本国

(中略)

1971年 スイス連邦(なお、十二年前の1959年には男性のみによる国民投票により、女性参政権への反対票67%という結果で否決されていた)。

(中略)

1990年 スイス連邦内のアッペンツェル・インナーローデン準州。

英国歴代女性国家元首(女王)

Mary Stuart, or Mary, Queen of Scots

メアリー・スチュアート(1542-87; スコットランド君主在位1542-67)

https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots

https://ja.wikipedia.org/wiki/メアリー_(スコットランド女王)

スチュアート家の直系で敬虔なカトリック信徒。1542-67年に、生後1週間から24歳半までスコットランド王国の女王として在位しながら途中で叛乱によって廃位を余儀なくされた。

メアリーはまだ15歳の女王だった1558年4月24日、フランス王アンリ二世(Henri II, 1519-59; 在位1547-59)の王太子で1歳と1ヶ月以上も年下のフランソワと結婚し、カトリック国であるフランスの王家に嫁入りした。翌’59年7月10日に父王の死去を受けて王太子がフランソワ二世(François II, 1544-60; 在位1559-60)としてフランス王に即位したため、メアリーはスコットランド女王兼フランス王妃となるが、翌’60年12月5日に夫で国王のフランソワ二世が中耳炎を端緒にした脳炎によ り、在位期間1年5ヶ月にして16歳の若さで薨去(こうきょ)した。2年7ヶ月ほどの結婚生活で子宝に恵まれなかったメアリーは、翌’61年8月20日にスコットランドに帰国した。

帰国の4年後の1565年には3歳も年下の従弟(いとこ)であるダーンリー卿(Lord Darnley, 1545-67)こと、オルバニー公ヘンリー・スチュワート(Henry Stuart, Duke of Albany, 1545-67)と再婚したが、この乱暴者の夫に失望し、すぐに別居生活に入った。この結婚でもうけた男児は後(のち)にスコットランド王ジェイムズ六世(James VI, 1566-1625; 在位1567-1625)兼イングランド王ジェイムズ一世(James I, 1566-1625; 在位1603-25)となったが、父親はダーンリー卿ではなく、イタリア出身の女王専属秘書官リッツィオ(David Rizzio, c.1533-66)だったと考えられている。そして現にリッツィオは1566年3月9日に妊娠中の女王メアリーが見ている前で夫のダーンリー卿によって56回も刺されて死亡した。

殺人犯でありながら身分が高いお蔭で罰せられなかったダーンリー卿だが、1567年2月9日乃至(ないし)は10日に21歳の若さで何者かによって暗殺された。暗殺の首謀者と見做(みな)された第四代ボスウェル伯ジェイムズ・ヘプバーン(James Hepburn, 4th Earl of Bothwell, c.1534-78)は裁判にかけられたが無罪放免となった。夫殺害の疑いの目を向けられた女王メアリーは、無罪放免となって800人の家来を率いるボスウェル伯に「首都エディンバラには危険が迫っている。」と言いくるめられ、ダンバー城(Dunbar Castle)に連れて行かれて幽閉され、城内で強姦(rape)されたとも、同意に基(もと)づく性行為(sexual intercourse)を行なったとも言われている。いずれにしろ、その性行為はボスウェル伯が女王メアリーと結婚するための布石(ふせき)になった。

女王メアリーとボスウェル伯は同年(1567年)5月6日、首都エディンバラに帰還し、その六日後の12日には、女王メアリーはボスウェル伯に離島のオークニー公爵(Duke of Orkney)とファイフ侯爵(Marquis of Fife)の爵位を授(さず)けた。女王メアリーとボスウェル伯(兼オークニー公兼ファイフ侯ファイフ侯)は同年(1567年)5月15日に結婚式を挙げた。メアリーにとって3度目にして最後の結婚となった。新しい夫となったボスウェル伯は僅(わず)か12日前に離婚したばかりだったが、この政略結婚によって王婿(おうせい: Prince Consort)をも兼務するようになり、他の貴族たちの反感を買った。無罪判決を受けたとはいえ、元夫を殺した首謀者であることが濃厚な男と再婚したメアリーに対する国民の反感も大きかった。

問題の再婚から僅(わず)か一ヶ月後の同年(1567年)6月15日、スコットランド貴族26人が立ち上がり、私兵を動員した。これに立ち向かう筈(はず)のスコットランド王室軍の兵士たちは次々と逃亡してしまい、内乱は回避された。夫のボスウェル伯は叛乱軍に逃げ道を作ってもらって逃亡したが、メアリーは叛乱軍に捉(とら)えられ、「姦通女(かんつう おんな: adulteress)!」とか「殺人鬼(murderer)!」と群衆に罵(ののし)られながら、レヴェン湖城(Loch Leven Castle)まで連行され、その湖の中の小島に在る城に幽閉された。幽閉先でメアリーは同年(1567年)7月20日から23日にかけて双子の赤子を流産で次々と亡くした。そして翌24日に24歳半で廃位させられ、生後13ヶ月の一人息子ジェイムズがスコットランド王ジェイムズ六世(James VI, 1566-1625; 在位1567-1625)として即位した。なお、この国王は1603年からはイングランド王ジェイムズ一世(James I, 1566-1625; 在位1603-25)も兼務するようになる。

一方、逃亡したボスウェル伯は北海(North Sea)を渡ってノルウェーに上陸したが、港町ベルゲン(Bergen)で身柄を拘束され、当時ノルウェーを支配していたデンマーク王国の首都コペンハーゲン(丁 København ケォベンハウン; 英 Copenhagen コウペネイゲン)から約40キロメートル西へ行ったドラグスホルム城(Dragsholm Slot)に幽閉され、十年にも亘(わた)って柱に鎖で繋(つな)がれ、最後は発狂して死んだと考えられている。

他方、元女王メアリーは1568年5月2日に幽閉先のレヴェン湖城(Loch Leven Castle)から脱出し、約6,000人の私兵を集めることに成功したが、メアリーを廃位に追いやった貴族で、乳幼児王の摂政官を務める初代モーリー伯ジェイムズ・スチュワート(James Stewart, 1st Earl of Moray, c.1531-70)の軍勢に同年(1568年)5月13日に敗北し、三日後の5月16日に漁船でイングランドへ逃亡した。その二日後の5月16日にはイングランド北西部のスコットランドに対する守りとして重要な地歩(ちほ)を占めているカーライル城(Carlisle Castle)に連れて行かれて、城内で保護され、その後死ぬまで十九年近くに及ぶ隣国イングランドでの亡命生活が始まった。

敬虔なカトリック信徒で元女王のメアリーは、イングランド女王でイングランド教会の名目上のトップでもあるエリザベス一世(Elizabeth I, 1533-1603; 在位1558-1603)が、宗派の違いを乗り越えて自分の復位(ふくい: 王位を取り戻すこと)を後押ししてくれるものと期待したが、エリザベスは用心深かった。同年(1568年)7月中旬にメアリーの身柄はスコットランドからもっと遠く離れたボルトン城(Bolton Castle)へ移されたが、首都ロンドンに対しては充分な距離が保てるようにした。メアリーが二番目の夫ダーンリー卿(Lord Darnley, 1545-67)の殺害に大きく関与した証拠とされるフランス語や羅典(ラテン)語で書かれた手紙や手書きの文書がイングランドに齎(もたら)され、スコットランドの乳幼児王の摂政官を務める初代モーリー伯ジェイムズ・スチュワート(James Stewart, 1st Earl of Moray, c.1531-70)がイングランドを来訪し、メアリーを殺人罪で告訴した。メアリーは手紙や文書が偽造された物であると主張し、今日(こんにち)でも歴史学者や歴史愛好家の間でその真偽を巡って意見が分かれている。実物はまだメアリーが生きていた1584年に息子である国王の命令で焼かれてしまったので、もはや鑑定のしようが無い。女王エリザベス一世は政治的な理由で裁判に介入し、メアリーの関与について白黒決着をつけず、敢()えて曖昧(あいまい)な儘(まま)で残した。そのためメアリーの幽閉状態は解かれなかった。

メアリーは1569年1月26日にイングランド西部のタトベリー城(Tutbury Castle)に身柄を移された。エリザベスはメアリーがイングランドの王位を狙っている可能性について疑いの目を向けるようになり、その後も首都ロンドンからもスコットランドからも、そして海からも遠く離れたシェフィールド城(Sheffield Castle)やウィングフィールド荘園館(Wingfield Manor)やチャッツワース館(Chatsworth House)などにエリザベスはメアリーの身柄を次々と移した。行動の自由は制限されていたが、常に16人以上の召使を抱えるメアリーの亡命生活は、女王だった頃に劣(おと)らず贅沢(ぜいたく)そのものだった。これはエリザベスがメアリーに気を使ったからこそ実現できたのだった。しかしながら、24歳半での廃位から十九年半を経た1587年2月、元女王メアリー・スチュワートは44歳と2ヶ月の時に女王エリザベス一世に対する叛逆罪で処刑された。

スコットランドの元女王メアリー・スチュアート死後二百四十二年が経過した1829年7月30日(木)のこと、同年5月から英国初訪問中(10回の訪英のうちの記念すべき第1回)だった当時まだ20歳の元ユダヤ教徒・改宗プロテスタント・ルター派のドイツ人作曲家メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809-47)は、スコットランドの都エディンバラ(Edinburgh)市内の女王メアリー・ステュアートゆかりのホゥリルードハウス宮殿 (Palace of Holyroodhouse)、通称ホゥリルード宮殿(Holyrood Palace)を訪れた。そして宮殿のそばにある修道院跡にてメアリー・ステュアートの悲劇的人生に思いを馳(は)せ、16小節分の楽想を書き留めた。これが交響曲第三番イ短調作品番号56(Symphony No.3 in A minor, Op.56)、通称「スコットランド」交響曲(“Scottish” Symphony)の序奏部分のアンダンテ(Andante: イタリア語で「歩く速度で」の意)であり、この曲の最初の着想となった。しかしその後に仕事が立て込んだため、演奏時間約40分の交響曲全四楽章 https://www.youtube.com/watch?v=PoHooMaTZcUが完成したのはメンデルスゾーン33歳の誕生日が近づいていた1842年1月のことだった。着想から完成までに十二年半もの時を要したことになり、モーツァルト並みの速筆で知られたメンデルスゾーンの作品としては異例中の異例とされる。

大衆音楽(popular music)の世界では、1984年発表・発売のマイク・オールドフィールド(Mike Oldfield, b.1956)による “To France” (直訳「フランスへ」、邦題「トゥ・フランス」)がある。歌詞対訳は後期授業資料( https://sites.google.com/site/xapaga/home/franco-german )の例5を一読されたし。販促用公式ビデオ(PV: promotion video)はユーチューブ(YouTube)で視聴可能( https://www.youtube.com/watch?v=WLMw9SPcFBI )。

Lady Jane Grey

ジェイン・グレイ(1537?-54; イングランド及びアイルランド君主在位1553年中の9日間については論争中)

https://www.royal.uk/lady-jane-grey-r-10-19-july-1553

https://www.bbc.co.uk/history/historic_figures/grey_lady_jane.shtml

https://global.britannica.com/biography/Lady-Jane-Grey

https://www.royal.uk/lady-jane-grey

https://en.wikipedia.org/wiki/Lady_Jane_Grey

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジェーン・グレイ

亡き国王ヘンリー八世(Henry VIII, 1491-1547; 在位1509-47)の姪(niece)の娘(daughter)として生まれ、少年王エドワード六世(Edward VI, 1537-53; 在位1547-53)が死の床で次期君主に指名したことでイングランド王国史上初の女王になったつもりだった。なお、北隣のスコットランド王国には既に悲劇の女王メアリー・スチュアート(上記参照)がいた。しかしながら、亡き国王エドワード六世の異母姉に当たるメアリー一世 (下記参照)が女王であることを宣言したために廃位させられた。1553年7月10日から同月19日までの名 ばかりの(nominal; titular)イングランド女王を務めた。英国最短記録の在位期間と言えるが、ジェイン・グレイを君主(女王)として公式にはカウントすべきでないとする学者もいるので(但し、英国王室公式ウェブサイトはジェイン・グレイを君主としてカウントしている)、その説に従えば86日間在 位したエドワード五世(Edward V, 1470-83?; 在位1483)が最短となる。同年(1553年)11月に夫のダドリー卿(Lord Guildford Dudley, c.1535-54)とともに女王メアリー一世に対する大逆罪(high treason)で有罪判決を受け、ロンドン塔(Tower of London)に幽閉され、翌年(1554年)2月12日にロンドン塔内の中庭で満16才の若さで斬首された。「血まみれのメアリー」(Bloody Mary)による最初の犠牲者とされる。三日天下ならぬ九日天下。

なお、夏目金之助(なつめ きんのすけ, 1867-1916)=後の作家、夏目漱石(なつめ そうせき, 1867-1916)=は、文部省(現在の文部科学省の前身)の命令で英語教育法研究のため派遣されていた英国留学中に(1900年9月8日(土)橫濱(横浜)港を出港、同年=1900年10月28日(日)英国着、1902年12月5日(金)英国出国、1903年1月下旬帰国)、英京倫敦(えいきょう ロンドン)にて国民絵画館(National Gallery)を訪れ、フランス画家ポール・ドゥラロシュ(Paul Delaroche, 1797-1856)による縦246cm×橫297cmの大作油彩画 『ジェイン・グレイの処刑』(The Execution of Lady Jane Grey, 1833)を見て大きな衝撃を受けた。その時の衝撃に基(もと)づいて書かれた短篇小説が、帰国後の1905年に発表した夏目漱石(なつめ そうせき, b.1867-1916)名義の「倫敦(ロンドン)塔(たふ)」である。その中に下記のような一段落がある。ちなみにドゥラロシュは恰(あたか)も処刑現場を見てきたかのように描いているが、ジェイン・グレイの処刑から二百四十三年後の生まれであり、この絵画の完成は実際の処刑から二百七十九年後のことである。したがって画家の創造の産物であり、個々の描写には様々な嘘(ウソ)が混じっている。

https://en.wikipedia.org/wiki/The_Execution_of_Lady_Jane_Grey

始(はじめ)は兩方(りやぅほぅ)の眼()が霞(かす)んで物(もの)が見()えなくなる。やがて暗(くら)い中(なか)の一點(いつてん)にパツと火()が點(てん)ぜられる。其(その)火()が次第(しだい)/\に大(おほ)きくなつて內(うち)に人(ひと)が動(うご)いてゐる樣(やう)な心持(こゝろも)ちがする。次にそれが漸々(ぜん/\)(=徐々に)明(あか)るくなつて丁度(ちやぅど)雙眼鏡(さぅがんきやぅ)の度()を合(あは)せる樣(やう)に判然(はんぜん)と眼()に映(えい)じて來()る。次(つぎ)に其(その)景色(けしき)が段々(だん/\)大(おほ)きくなつて遠方(ゑんぽぅ)から近(ちか)づいて來()る。氣()がついて見()ると眞中(まなか)に若(わか)い女(おんな)が坐(すわ)つて居()る、右(みぎ)の端()には男(おとこ)が立()つて居()る樣(やぅ)だ。兩方(りやぅほぅ)共(とも)どこかで見()た樣(やう)だなと考(かんが)へるうち瞬(また)たく間()にズツと近(ちか)づいて余()(=私)から五六間(ごろつけん)(=約9~10メートル)先(さき)で果(はた)と停(とま)る。男(おとこ)は前(まへ)に穴倉(あなぐら)の裏(うら)で歌(うた)をうたつて居()た眼()の凹(くぼ)んだ煤色(すゝいろ)をした、脊(せい)の低(ひく)い奴(やつ)だ。磨()ぎすました斧(おの)を左手(ひだりて)に突()いて腰(こし)に八寸(はつすん)(=約24センチ)程(ほど)の短刀(たんたう)をぶら下()げて身構(みがま)へて立()つて居()る。余()は覺(おぼ)えず(=思わず)ギヨツとする。女(おんな)は白(しろ)き手巾(しゆきん)(=ハンカチ)で目隱(めかく)しをして兩(りやぅ)の手()で首(くび)を載()せる臺(だい)を探(さが)す樣(やぅ)な風情(ふぜい)に見()える。首(くび)を載()せる臺(だい)は日本(につぽん)の薪割臺(まきわりだい)位(ぐらい)の大(おほ)きさで前(まへ)に鐵(てつ)の環()が着()いて居()る。臺(だい)の前部(ぜんぶ)に藁(わら)が散()らしてあるのは流(なが)れる血()を防(ふせ)ぐ要愼(よぅじん)と見()えた。背後(はいご)の壁(かべ)にもたれて二三人(にさんにん)の女(おんな)が泣()き崩(くず)れて居()る、侍女(じじよ)でゞもあらうか。白(しろ)い毛裏(けうら)を折()り返(かへ)した法衣(ほふえ)を裾(すそ)長(なが)く引()く坊(ぼぅ)さんが、うつ向()いて女(おんな)の手()を臺(だい)の方角(ほぅがく)へ導(みちび)いてやる。女(おんな)は雪(ゆき)の如(ごと)く白(しろ)い服(ふく)を着()けて、肩(かた)にあまる金色(こんじき)の髪(かみ)を時々(とき/\゛)雲(くも)の樣(やぅ)に搖()らす。ふと其(その)顏(かほ)を見()ると驚(おどろ)いた。眼()こそ見()えぬ、眉(まゆ)の形(かたち)、細(ほそ)き面(おもて)、なよやかなる頸(くび)の邊(あた)りに至(いたる)迄(まで)、先刻(せんこく)見()た女(おんな)其儘(そのまゝ)である。思(おも)はず馳()け寄()らうとしたが足(あし)が縮(ちゞ)んで一歩(いつぽ)も前(まへ)へ出()る事(こと)が出來(でき)ぬ。女(おんな)は漸(よぅや)く首斬(くびき)り臺(だい)を探(さぐ)り當()てゝ兩(りやぅ)の手()をかける。唇(くちびる)がむつ/\と動(うご)く。最前(さいぜん)男(おとこ)の子()にダツドレー(= Dudley)の紋章(もんしやぅ)を說明(せつめい)した時(とき)と寸分(すんぶん)違(たが)はぬ。やがて首(くび)を少(すこ)し傾(かたむ)けて「わが夫(おつと)ギルドフオード、ダツドレー(= Guildford Dudley)は旣(すで)に神(かみ)の國(くに)に行()つてか」と聞()く。肩(かた)を搖()り越(おこ)した一握(ひとにぎ)りの髪(かみ)が輕(かる)くうねりを打()つ。坊(ぼぅ)さんは「知()り申(まう)さぬ」と答(こた)へて「まだ眞(まこ)との道(みち)に入(いり)玉(たま)う心(こゝろ)はなきか」と問()ふ。女(おんな)屹(きつ)として「まことゝは吾(われ)と吾夫(わがおつと)の信(しん)ずる道(みち)をこそ言()へ。御身達(おんみたち)の道(みち)は迷(まよ)ひの道(みち)、誤(あやま)りの道(みち)よ」と返(かへ)す。坊(ぼぅ)さんは何(なん)にも言()はずに居()る。女(おんな)は稍(やゝ)落()ち付()いた調子(てうし)で「吾夫(わがおつと)が先(さき)なら追付(おひつか)う、後(あと)ならば誘(いざな)ふて行()かう。正(たゞ)しき神(かみ)の國(くに)に、正(たゞ)しき道(みち)を踏()んで行()かう」と云(いひ)終(をは)つて落()つるが如(ごと)く首(くび)を臺(だい)の上(うへ)に投()げかける。眼()の凹(くぼ)んだ、煤色(すゝいろ)の、脊(せい)の低(ひく)い首斬(くびき)り役(やく)が重(おも)た氣()に斧(おの)をエイと取()り直(なほ)す。余()の洋袴(ズボン)の膝(ひざ)に二三(にさん)點(てん)の血()が迸(ほとば)しると思(おも)つたら、凡(すべ)ての光景(くゎうけい)が忽然(こつぜん)と消()え失()せた。

夏目漱石(なつめ そうせき, b.1867-1916)「倫敦塔」(1905年)

国立国会図書館(NDL: National Diet Gallery)デジタルコレクション(Digital Collection)より

(一部ルビを追加)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/889302

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936189

目隠しをされた16歳の少女は――想像すると「怖い絵」5選

朝日新聞 AERA

2017年9月16日(土)

https://dot.asahi.com/wa/2017091400024.html?page=1

https://dot.asahi.com/wa/2017091400024.html?page=2

https://dot.asahi.com/photogallery/archives/2017091400077.html

https://dot.asahi.com/print_image/index.html?photo=2017091400024_1

https://dot.asahi.com/photogallery/archives/2017091400077/1/

〝ブラッディ・マリー〟が最初に処刑した「イングランド初の女王」

劇的、謎深まる悲劇のヒロイン…「レディ・ジェーン・グレイの処刑」

産経ニュース

2017年10月5日(木) 8:48

https://www.sankei.com/life/news/171005/lif1710050015-n1.html

https://www.sankei.com/life/news/171005/lif1710050015-n2.html

https://www.sankei.com/life/news/171005/lif1710050015-n3.html

怖い絵展(Fear in Painting)

上野の森美術館(The Ueno Royal Museum)

2017年10月7日(土)~12月17日(日)

http://www.kowaie.com/ (リンク切れ)

https://www.ueno-mori.org/exhibitions/article.cgi?id=226

話題の「怖い絵展」。ほとんどの人が音声ガイド(有料)を使う理由

【のぞき見!リアルとくキュウ】「恐怖」をテーマに約80点が展示

ホウドウキョク

2017年10月28日(土)

https://www.houdoukyoku.jp/posts/20421 (リンク切れ)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171028-00010002-houdouk-cul (リンク切れ)

「怖い絵展」空前人気3時間半待ち 30代以下多数

日刊スポーツ

2017年11月20日(月) 9:51配信

https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201711200000146.html

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171120-00057366-nksports-soci (リンク切れ)

「森氏の謝罪は形だけ。オリンピックの創始者も正真正銘の女性差別主義者だった」米五輪専門家に聞く

ヤフーニュース(Yahoo! Japan News)個人

在米ジャーナリスト 飯塚真紀子(いいづか まきこ)署名コラム

2021年2月7日(日)

『ジェーングレイの処刑』の意味〜悲劇のイングランド女王〜

美術系YouTuberいとはる

2019年10月24日(木) 公開

https://www.youtube.com/watch?v=1bfSXIcg1Ks

Queen Mary I, or Mary Tudor, also known as ‘Bloody Mary’

メアリー一世(1516-58; イングランド及びアイルランド君主在位1553-58)

https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_I_of_England

https://ja.wikipedia.org/wiki/メアリー1世_(イングランド女王)

国王ヘンリー八世(Henry VIII, 1491-1547; 在位1509-47)とスペイン王国アラゴン王家出身のカタリナ=英名キャサリン(西 Catalina de Aragón; 英 Catherine of Aragon, 1485-1536)の娘だが、母親が五度の早産や流産の末に漸(ようや)く産んだ子がメアリー一世だった。

メアリー一世は独身で君主に成ったが、1554年にカトリックの強国スペインの十一歳も年下の皇太子で後の国王フェリペ二世(西 Felipe II; 英 Philip II of Spain, 1527-98; イングランド及びアイルランド王在位1554-58; スペイン王在位1556-98; ポルトガル王在位1581-98)と結婚。夫のスペイン皇太子フェリペ(1556年の父王の死後はスペイン王フェリペ二世)は女王メアリー一世と結婚したと同時に、イングランド王国の共同統治者・国王フィリップ一世(King Philip I of England, 1527-98; 在位1554-58)をも名乗ったが、このことが外国のカトリック勢力を警戒する者たちの不信感・嫌悪感を招く。

父ヘンリー八世(Henry VIII, 1491-1547; 在位1509-47)や異母弟エドワード六世(Edward VI, 1537-53; 在位1547-53)の政策に反し、イングランド王国を元のカトリック国家に戻して280名を超える(約290名とも言われる)プロテスタント信徒を火刑に処したことで国を混乱に陥(おとしい)れた。そのため「血まみれのメアリー(Bloody Mary)」の異名(いみょう)がつく。満42歳で卵巣癌(ovarian cancer)で死去。結婚していたが子供はいなかった。

Queen Elizabeth I

エリザベス一世(1533-1603; イングランド及びアイルランド君主在位1558-1603)

https://en.wikipedia.org/wiki/Queen_Elizabeth_I

https://ja.wikipedia.org/wiki/エリザベス1世

父ヘンリー八世(Henry VIII, 1491-1547; 在位1509-47)の意を汲()んで再びプロテスタント派の国教に戻し、カトリック信徒約200名を処刑した。ところが先代の姉メアリー一世(Mary I, 1516-58; 在位1553-58)のような “Bloody” の異名(いみょう)がつくことはなかった。これはエリザベス一世の側のイメージ戦略の勝利である。エリザベス一世は1558年11月17日に王位に就くや、早くもその翌年の1559年には礼拝統一法(Act of Uniformity 1559)の再宣言を行なってイングランド教会(Church of England: ウィキペディア日本語版では「イングランド国教会」の訳語で、日本の世界史教科書では伝統的に「英国国教会」の訳語)を国教(国の宗教)と定めた。1570年2月25日にエリザベス一世はローマ教皇ピウス五世(Pius V, 1504-72; 在位1566-72)から正式に破門され(excommunicated)た。1576年4月、エリザベス一世は礼拝統一法の徹底を強化する委員会を組織させ、翌年(1577年)にはカトリック取り締まりが田舎にまで及ぶようになった。そしてカトリックに対する残虐な仕打ちが続いた。たとえば1582年5月30日にはイエズス会修道士トマス・コタム(Thomas Cottam, 1549–82)が首吊(くびつ)り・内臓抉(えぐ)り・四つ裂き(hanged, drawn and quartered)の刑を受けた。すなわち、首吊り台にかけ、息のあるうちに降ろして生殖器を切り落とし、腹を切り裂き、死にかけた本人の目の前で引きずり出した内臓を燃やしてみせ、それから首を切り落とし、遺体をひきちぎり、ばらばらの手足等をあちこちの獄門にさらされる刑である。1583年にはカトリックのエドワード・アーデン(Edward Arden, c.1542-83)が女婿(むすめむこ)のジョン・サマヴィル(John Somerville, 1560-83)と共に捕らえられ、同年(1853年)12月に同様の刑を受けている。欧州大陸でカトリック神父となってイングランドに帰国したロバート・ディブデイル(Robert Dibdale, c.1556-86)=別名 ロバート・デブデイル(Robert Debdale, c.1556-86)は逮捕され、1586年に同様の刑を受けた。1591年12月には、かつてサウサンプトン伯(Earl Southampton)の家庭教師を務めていたカトリック信徒の学者スウィザン・ウェルズ(Swithun Wells, c.1536-91)が同様の刑を受けている。1593年にはカトリック取締法が議会を通過し、カトリック信徒をいとも容易(たやす)く逮捕・処刑できるようなった。カトリックに対する差別や弾圧がほぼ無くなるのは、1828年聖礼典審査法(Sacramental Test Act 1828)と1829年ローマ・カトリック信徒救済法(Roman Catholic Relief Act 1829)の施行以降である。

なお、宗教的な理由ではないが、1587年にはイングランド国内で自宅軟禁状態(house arrest)にしていたスコットランドの元女王メアリー・スチュアート(Mary Stuart, or Mary, Queen of Scots, 1542-87; スコットランド君主在位1542-67)がイングランド女王エリザベス殺害計画を立てたという罪状で首を刈られて処刑されている。メアリー・スチュアートについて詳細は、上記を参照されたし。

しかしながら、エリザベス一世はイングランド教会にカトリック的な性格を残した妥協的な「中庸の道(via media)」を選択することで国の混乱を最小限に食い止めた。

エリザベス一世の治世下の1588年、イ ングランド王国はスペイン無敵艦隊(西 Grande y Felicísima Armada ; 英 Spanish Armada)を打ち破り、海外進出して国力を高めた。シェイクスピア(William Shakespeare, 1564-1616)をはじめとした演劇が盛んになり、文化の華が咲いた。エリザベス一世は生涯独身で(但し、恋人はいた)、子供がなかったため処女王(Virgin Queen)の異名(いみょう)を取った。エリザベス一世に因(ちな)んでアメリカ南部の一部が英領ヴァージニア(Virginia)殖民地と名づけられた。

女王エリザベス一世の支援の下(もと)、イングランドはポルトガルに倣(なら)ってアフリカ大陸に進出し、地元の王族や首長から黒人奴隷を買い集め、カリブ海の砂糖黍(サトウキビ)農園の白人農園主に売り渡すという奴隷貿易を始める(1807年まで)。

また、同女王は新大陸(南北アメリカ大陸)から略奪した財宝を積んだスペイン船を襲撃して宝を横取りするライセンスを私掠船(しりゃくせん privateers = 事実上の海賊船 pirate ships)に与え、豪商や貴族に出資させ、現在の感覚で言うベンチャー企業への億単位の投資のような経済活動を奨励した。これは同時にスペイン船の乗組員の皆殺しをも意味した。

1587年11月4日には記録で確認できる日英の初接触があった。スペイン領カリフォルニア半島(現在のメキシコ合衆国の下(バハ)カリフォルニア半島)の聖ルカ岬(西 Cabo San Lucas, Península de Baja California; 英 Cape of St Luke, Lower California Peninsula)でイングランド人トマス・キャヴェンディッシュ(Sir Thomas Cavendish, 1560-92)船長の艦隊がスペイン船の聖アナ号(Santa Ana)=英訳 St Anne を襲撃略奪した際、スペイン名クリストバル(Cristóbal)=英名クリストファー(Christopher)と、コスマス(Cosmas)と名乗る二人の日本人切支丹(キリシタン)少年を保護し(スペイン側から見ると拉致し)、その後雇用した(スペイン側から見ると強制労働させた)という記録が残っている。この二人の日本人少年は読み書きや計算の能力に長()けていたとも伝えられている

Mary II

メアリー二世(1662-94; イングランド及びスコットランド及びアイルランド君主在位1689-94、但し、夫ウィリアム三世との共同統治)

https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_II_of_England

https://ja.wikipedia.org/wiki/メアリー2世_(イングランド女王)

夫のウィリアム三世(William III, 1650-1702; 在位1689-1702)との共同統治。男性国王と女王の二人(いとこ同士の夫婦)が国王を務めるという、今のところ英国史上最初で最後の対等の権力による「共同統治」が認められた状態と多くの資料に書いてあるが、上記の女王メアリー一世(1516-58; 在位1553-58)との名ばかり共同統治者・国王フィリップ一世(King Philip I of England, 1527-98; 在位1554-58)を名乗った夫のスペイン皇太子フェリペ=1556年の父王の死後はスペイン王フェリペ二世(西 Felipe II; 英 Philip II of Spain, 1527-98; イングランド及びアイルランド王在位1554-58; スペイン王在位1556-98; ポルトガル王在位1581-98)の先例もある。

いずれにせよ、ウィリアム三世もメアリー二世もともにスチュアート家の血を引き、1649年にピューリタン革命で処刑されたチャールズ一世(Charles I, 1600-49; 在位1625-49)の孫であり、プロテスタント信徒だったので夫も妻と同等の国家元首(Head of State)の扱いを受けた。この時代のことを「ウィリアムとメアリー(William and Mary)」とも呼ぶ。アメリカでは1636年創立のハーヴァード大学(Harvard University)に次いで二番目に古い歴史を誇る1693年創立のウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William & Mary)は、ウィリアム三世とメアリー二世による認可に基づき、イングランド王国領北米ヴァージニア殖民地(現米国ヴァージニア州)に創設された。

なお、国王が二人いる状態は、スコットランド王国では1094-97年に、イングランド王国では1170-83年に前例があったが、二人の王が対等の権力を有したわけではなかった。

Anne Stuart, or Queen Anne

アン女王(1665-1714; イングランド及びスコットランド君主在位1702-07; グレートブリテン王国君主在位1707-14)

https://en.wikipedia.org/wiki/Queen_Anne

https://ja.wikipedia.org/wiki/アン_(イギリス女王)

ピューリタン革命で処刑されたチャールズ一世(Charles I, 1600-49; 在位1625-49)の孫で、名誉革命で廃位された元国王ジェイムズ二世(James II, 1633-1701; 在位1685-88)の次女で、メアリー二世(Mary II, 1662-94; 在位1689-94)の妹。在位開始時はイングランド王国(ウェールズを含む)とスコットランド王国の女王だったが、1707年5月1日にイングランドとスコットランドが合併してグ レートブリテン王国(Kingdom of Great Britain)が成立したため、その王国の初代君主となる。夫であるデンマークの王子との間に17回もの妊娠を経験しながら、成人にまで至った子が一人 もいなかった(一番長生きでも十一歳まで)。

そのため、スコットランド王家であるスチュアート家の国王ジェイムズ一世(James I of England or James VI of Scotland, 1566-1625; 在位1603-25)の娘で、神聖ローマ帝国の一部であるボヘミア王国の王家に嫁(とつ)いだエリザベス(英 Elizabeth Stuart, Queen of Bohemia; 独 Elisabeth Stuart, Königin von Böhmen, 1596-1662)の娘で、ハノーファー(独 Hannover ハノーファー; 英 Hanover ハェノウヴァ)選帝侯に嫁いだゾフィー(独 Sophie von der Pfalz; 英 Sophia of the Palatinate or Sophia of Hanover, 1630-1717)の長男であるドイツ貴族ゲオルク・ルートヴィッヒ(Georg Ludwig, 1660-1727)を英国議会が担(かつ)ぎ出し、英語の出来ない英国王ジョージ一世(George I, 1660-1727; 在位1714-27)として仕立て上げることになる。ジョージ一世こと、ゲオルク・ルートヴィッヒは本来なら英国王位継承順位が50位よりも下位だったにも拘(かか)わらず、傍系ながらウィリアム征服王(William I of England or William the Conqueror, c.1028-87; 在位1066-87)の血を引くスコットランドのスチュアート家の国王ジェイムズ一世(James I of England or James VI of Scotland, 1566-1625; 在位1603-25)の子孫(曾孫)でプロテスタント信徒だからという理由だけで英国議会に招かれたのだった。そして彼こそは現王室の直接の先祖ということになり、ヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)や現女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)が屡々(しばしば)「ドイツ系」と言われてしまうのは、このためである。

Queen Victoria

ヴィクトリア女王(1819-1901; 連合王国君主在位1837-1901; 英領印度帝国女帝在位1876-1901)

https://en.wikipedia.org/wiki/Queen_Victoria

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴィクトリア_(イギリス女王)

先々々代の国王ジョージ三世(George III, 1738-1820; 在位1760-1820)の四男であるケント及びストラサーン公爵エドワード王子(Prince Edward, Duke of Kent and Strathearn, 1767-1820)の娘。先代の国王ウィリアム四世の姪(めい)に当たる。ジョージ三世の孫。そのジョージ三世がバッキンガム公の末裔(まつえい)から1761年に買い取り、以後七十年以上も改装・増築を続けてきたバッキンガム館(Buckingham House)が遂(つい)にバッキンガム宮殿(Buckingham Palace)と名を変えた1837年に王位に就いた。そしてヴィクトリア女王以後は代々このバッキンガム宮殿が王室の本部になり、今日(こんにち)に至っている

1840年2月10日(月)に同年齢(厳密には3ヶ月ほど年下)の ドイツ貴族ザクセン・コーブルク・ウント・ゴータ家のアルバート殿下(独 Albert von Sachsen-Coburg und Gotha; 英 Prince Albert of Saxe-Coburg and Gotha, 1819-61)と結婚し、自分の家名もザクセン・コーブルク・ウント・ゴータ家(das Haus Sachsen-Coburg und Gotha)をやや英語風にしたサックス・コーバーグ・アンド・ゴーサ家(the House of Saxe-Coburg and Gotha)に変えた。これは日本人にも分かり易く譬(たと)えると、漫画のサザエさんが磯野家に残りながらマスオさんと結婚してから「フグ田」の家名を名乗っているこ と、長男で一人っ子のタラちゃんも磯野家の屋根の下で生育していながら苗字はフグ田であることに似ている。ただ、その場合、カツオに相当する磯野家の長男(サザエさんの弟) は最初から存在せず、波平に相当する父親は既に他界していることとする。女王夫妻はその生い立ちから親独派であり、1871年1月のプロイセン王国によるドイツ統一とドイツ帝国成立を支持した。また、夫婦間ではドイツ語で会話することが多かった。

ヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)とそのドイツ出身の夫アルバート公(Albert, Prince Consort, 1819-61)は、元ユダヤ教徒・改宗プロテスタント・ルター派のドイツ人作曲家メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809-47)の音楽が大好きで、一度ならずバッキンガム宮殿に招いて直接会見したほどだった。ヴィクトリア女王夫妻は日頃からドイツ語で会話することが多かったことから、メンデルスゾーンともドイツ語で会話した可能性が高い。実際メンデルスゾーンは英国と相性が良く、人生で十回も訪英していて、十回の滞在期間を合計すると20ヶ月にも及ぶ。そしてスコットランド滞在中に着想を得て、有名な「フィンガルの洞窟」作品番号26 (Fingal’s Cave, Op.26)、別名 ヘブリディーズ序曲 作品番号26 (The Hebrides Overture, Op.26)( https://www.youtube.com/watch?v=GVhmZUdETDo )や、交響曲第三番イ短調 作品番号56 (Symphony No.3 in A minor, Op.56)、通称「スコットランド」交響曲(“Scottish” Symphony)全四楽章( https://www.youtube.com/watch?v=PoHooMaTZcU )という傑作を作曲した。

ヴィクトリア女王の在位期間は六十三年七ヶ月にも及び、英国史上最長在位記録を2015年9月9日(水)に玄孫(やしゃご)である女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926)に破られるまで有していた。日本では屡々(しばしば)誤って「ヴィクトリア朝」と称される。また、女性君主としては、英国のみならず世界最長記録の保持者でもあったが、これも2015年9月9日(水)に同女王に破られた。なお、昭和天皇(Emperor Hirohito, 1901-89; 在位1926-89)の在位期間は六十二年と二週間だった。

1876年からは英領印度帝国が成立し、印度女帝(Empress of India)も兼務。外孫に第一次世界大戦を事実上引き起こすことになるドイツ皇帝ヴィルヘルム二世(Kaiser Wilhelm II, 1859-1941; 在位1888-1918)がいる。エリザベス一世(Elizabeth I, 1533-1603; 在位1558-1603)の時代にイングランド王国(Kingdom of England)がスペイン無敵艦隊(西 Grande y Felicísima Armada; 英 Spanish Armada)を打ち破り(1588年)、海外進出して国力を高めたが、ヴィクトリア女王の時代には国内の産業革命と世界各地の殖民地化が進行し、イギリ ス帝国(British Empire)は当時世界最大で最強の大帝国に成長した

Queen Elizabeth II

エリザベス二世(b.1926; 連合王国及び英連邦君主在位1952-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_II

https://ja.wikipedia.org/wiki/エリザベス2世

1926年4月21日(水)に首都ロンドンの高級住宅街の一角(宮殿ではない一般家屋)でヨーク公アルバート王子(Prince Albert, Duke of York, 1895-1952)=後の国王ジョージ六世(George VI, 1895-1952; 在位1936-52)の長女として生まれた時点では、国王ジョージ五世の次男の長女だったため、女王・国家元首になるとは自他ともに夢にも思わなかったが、十才のとき伯父の国王エドワード八世(Edward VIII, 1894-1972; 在位1936)=後のウィンザー公(Duke of Windsor, 1894-1972)が突如退位したことで運命の歯車が狂った。

ウェールズ女大公エリザベス王女(Elizabeth, Princess of Wales, b.1926)時代、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した二日後の1939年9月3日(日)に英仏連合国側が対独宣戦布告することで第二次世界大戦(World War II; the Second World War, 1939-45)が勃発した。その戦争の最中(さなか)の1941年にイギリスは20歳から30歳までの独身女性を徴兵し、翌年(1942年)には19歳も含めて徴募した。そうした世情を考慮し、当時のエリザベス王女(現女王)は1943年に17歳で1910年創立の英国自動車運転学校(BSM: British School of Motoring)で教習を受け、車の運転を覚えた。運転免許(英 driving licence; 米 driver’s license)を無事に取得すると、1944年に18歳で英国陸軍(British Army)に入隊し、一般女性兵士と同様に軍の認識番号を受け、軍用トラックの整備と軍需物資の輸送を担(にな)い、軍用車輌の運転を行なうことで戦争遂行(war efforts)に協力した。軍用車輛と一緒に写った当時のカラー写真( https://www.express.co.uk/news/royal/592258/Leo-McKinstry-Queen-s-Royal-Nazi-salute-scandal-her-service-UK / https://www.warhistoryonline.com/war-articles/queen-elizabeth-ii-auto-mechanic.html / https://www.warhistoryonline.com/world-war-ii/queen-elizabeth-ii-war-years-mm.html )が残っているが、これは戦時下の国民の士気(morale らー)を高める目的で撮影・公開された物である。女王は今でも夏の間スコットランドのバルモラル城(Balmoral Castle)に籠もると、附近を自分でドライブする。時代が下って1993年には女王が英国陸軍の施設を視察に訪れた際に機関銃(machine gun)を試し射ちした( http://cdn.golftrendster.com/wp-content/uploads/2016/10/5.jpg )。

第二次世界大戦で辛くも戦勝国となりながら食糧品配給制度(food rationing)が戦後も延々と続いている中、しかも対日戦勝から二年後の1947年8月15日(金)には英領印度(現在のインド、パキスタン、バングラデシュ)を失ったイギリスで1947年11月20日(木)、当時のエリザベス王女=後の女王エリザベス二世は、五歳年上のドイツ系のデンマーク王子兼ギリシア王子で英国海軍(Royal Navy)士官のフィリップ殿下(Prince Philip, Duke of Edinburgh, 1921-2021)と結婚した。2017年11月20日(月)は結婚七十周年記念日=プラチナ婚式だった。話はやや前後するが、1947年4月21日(月)には二十一歳(伝統的に英米で成人とされる年齢)の誕生日に訪問先の英連邦南アフリカのケープタウン(Cape Town, South Africa; Kaapstad, Suid-Afrika)にてニュース映画用にスピーチ動画( https://www.youtube.com/watch?v=RUlToHE_27U / https://www.youtube.com/watch?v=AsrRFNhdCOE )を収録し、次期女王になる覚悟を表明していた。

1952年の年初に英連邦の豪州とニュージーランドを夫婦で歴訪した帰路、アフリカの英領ケニアに滞在中の2月6日(水)に父である国王ジョージ六世の訃報(ふほう)が飛び込んできたため、その時点から女王となった。

イギリスの近世から近代の歴史では、エリザベス一世(Elizabeth I, 1533-1603; 在位1558-1603)やヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の治世のように女王の時代が長く続 くと国が発展するという体験があるため、今回王位に就いた若い女性君主エリザベス二世には明るい未来が待ち受けているように見え、戦争で疲弊し、しかも上述したように食糧品配給制度(food rationing)が延々と続き、ひもじい思いをしていた国民から大きな期待が寄せられた。食糧品配給制度が公式に終了したのは1954年7月4日(日)のことであり、戦時中から実に十四年半も続いたのだった。

王女(Princess)時代に長男ウェー ルズ大公チャールズ皇太子(Charles, Prince of Wales, b.1948)と長女アン王女(Anne, Princess Royal, b.1950)の二人を、女王(Queen)になってから次男ヨーク公アンドルー王子(Prince Andrew, Duke of York, b.1960)と三男ウェセックス伯エドワード王子(Prince Edward, Earl of Wessex, b.1964)の二人、合計四人の子をもうけたが、末っ子を除く四人中三人までが後に離婚を経験している。1932年12月25日(日・祝)以来、祖父ジョージ五世(George V, 1865-1936; 在位1910-36)の代から続く毎年恒例グリニッヂ標準時15時(15:00 GMT; fifteen hours Greenwich Mean Time)の聖誕祭メッセージ(Christmas message)を1952年以来欠かさず継続している。1957年12月25日(水・祝)にはテレビ(開始当時はまだ白黒)を通じた動画( https://sites.google.com/site/xapaga/home/queenxmas1957 )でも放送するようになったが、それは恰(あたか)もヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の時代に舞い戻ったような、女性君主(a female monarch)ならではの家庭的な雰囲気の演出に成功している。

1975年5月7日(水)から同12日(月)には夫のエディンバラ公フィリップ殿下とともに今のところ最初で最後の訪日を果たし、東京で昭和天皇(しょうわ てんのう; Emperor Hirohito, 1901-89; 在位1926-89)と 皇后良子(Empress Nagako, 1903-2000)=後の香淳皇后(こうじゅん こうごう; Empress Dowager Kojun, 1903-2000)の両陛下の歓待を受け、京都と伊勢神宮と御木本(みきもと)真珠島(現在のミキモト真珠島)を訪れた。最終日に名古屋駅から東京駅まで新幹線ひかり100号の11号車に乗車したが、当日は生憎(あいにく)の大雨で定刻より3分遅れて名古屋を11:58に発()つ羽目になったが、東京駅には13:56と30秒に着き、定刻通りの到着となった。英女王は「新幹線は時計より正確だと聞いています。」という名言を残した。

しかしながら、1989年(昭和六十四 年)1月7日(土)に崩御(ほうぎょ)した昭和天皇の葬儀に当たる1989年(平成元年)2月24日(金)の「大喪(たいそう)の礼(れい)」にベルギー、スウェーデン、スペインといった一部の君主国から国家元首(国王)が参列し、米仏独伊といった共和制国家から国家元首(大統領)が参列したにも拘(かか)わらず、英国内に沸()き起こった戦争の過去を巡る反日感情(anti-Japanese sentiments)を考慮して女王は出席を断念し、英国王室としては代わりに夫のエディンバラ公フィリップ殿下(Prince Philip, Duke of Edinburgh, 1921-2021)を派遣するにとどめた。なお、英国政府としては首相の代わりにハード外相(Douglas Hurd, or Douglas Richard Hurd, Baron Hurd of Westwell CH, CBE, PC, b.1930)を派遣した。ちなみにオランダ王室は、やはりオランダ国内の反日感情を考慮して誰ひとりとして「大喪の礼」には出席しなかった。

1997年 8月31日(日)、長男の元嫁ダイアナ妃(Diana, Prince of Wales, 1961-97)の急死を受けて同年9月初旬には人気が急落するが、その後また持ち直し、以前のような高い人気を誇る。2012年5月から6月にかけて国民の圧倒的な支持を受け、在位六十周年(Diamond Jubilee)を祝った。

2013年4月8日(月)には半年年上の元首相サッチャー女男爵(Margaret Thatcher or Baroness Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90)が亡くなったが、2015年9月9日(水)、ヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の在位六十三年七ヶ月の記録を破り、英国史上最長君臨記録及び女性君主としての世界最長君臨記録を達成。その後は日々更新中。

ちなみに母親のエリザベス皇太后(Queen Elizabeth The Queen Mother, 1900-2002)は、2002年3月30日(土)に百二歳の誕生日を目前にして他界するほどの長寿を全(まっと)うした。エリザベス二世の妹でアメリカ映画 Roman Holiday(邦題 『ローマの休日』1953年)の主人公(欧州某小国のアン王女)のモデルになったとされる(但し、制作サイドはモデル説を全面否定)スノウドン伯爵夫人マーガレット王女(Princess Margaret, Countess of Snowdon, 1930-2002)は、長寿だった母親が亡くなる丁度七週間前の2002年2月9日(土)に満七十一歳で歿している。

2015年10月20日(火)夜、バッキンガム宮殿の大広間で中国の習近平(习近平; Xí Jìnpíng, b.1953; 国家主席在任2013-)主席への歓迎晩餐会が執り行なわれた。1989年6月4日(日)の天安門事件(Tiananmen Square Incident of 1989)では、民主化運動を繰り広げていた学生ら三百人余りを中国共産党(中共)独裁政府の人民解放軍が戦車を使って轢()き殺した。命からがら逃げ伸びた学生たちは日本やアメリカに亡命した。習政権は事件から四半世紀以上が経過した現在も自国民虐殺事件の真相究明を拒(こば)み続け、政権に批判的な知識人や弁護士やマスコミ関係者などを弾圧している。そうした中国に対して常日頃から批判的な言動を繰り返し、尚且(なおか)つ中共支配下のチベット(西蔵; Tibet)での人民虐殺について怒りの声を上げているチャールズ皇太子は晩餐会を公然と欠席し、女王もそれを許した。バッキンガム宮殿の女王の家臣たち も、1989年物(中共政府が忌(い)み嫌う数字)の血のように赤いボルドー(Bordeaux)地方のグラーヴ(Graves グはーヴ; 英語読みすると「グれイヴズ」となり、「複数の墓」を意味してしまう)産の超高級赤ワイン(市価は日本円にして一本約30万円)を供することで、習近平主席への当て付けをしてやったのだと、一部マスコミが報じている。女王は習近平への不快感を表すために手袋のまま握手をしたと言われている。おまけに2016年5月11日(水)付のタイムズ紙(The Times)の報道によると、女王主催の園遊会の参加者に習近平一行について、「非礼だった」という発言をして周囲を驚かせた。この発言には、訪英した中共首脳の一行が連れてきた多数の警備スタッフに護衛用銃器を携行させる許可と、反習近平政権デモの取り締まりを要求したが(そもそも外交上あり得ない要求)、当然ながら英警備当局はいずれも拒否したという背景がある。

2017年2月6日(月)、女王が Sapphire Jubilee (サェファイャジューブァリー)と呼ばれる即位六十五周年の日を迎え、大ロンドン市ウェストミンスター区(City of Westminster, Greater London)内のバッキンガム宮殿(Buckingham Palace)附近では公式な祝砲が鳴らされた。女王自身はこの日をイングランド東部の別邸であるサンドリンガム館(Sandringham House)で過ごし、公式行事には参加しなかったが、英王室は記念として、1947年11月20日(木)に当時はまだ王女(Princess)だった同女王がエディンバラ公フィリップ殿下(Prince Philip, Duke of Edinburgh, 1921-2021)と結婚した際に父親の国王ジョージ六世(George VI, 1895-1952; 在位1936-52)から贈られたサファイアのネックレスとイヤリング(sapphire necklace and earrings)を着けた三年前の2014年の写真を公開した。

女王は2020年4月21日(火)に94歳の誕生日を迎えたが、同年(2020年)12月23日(水)に87歳の誕生日を迎える上皇(じょうこう; Emperor Emeritus Akihito of Japan, b.1933; 天皇在位1989-2019)=平成時代の天皇よりも七歳と八ヶ月年上である。

なお、女王の五つ年上の夫=王婿(お うせい: Prince Consort)であるエディンバラ公フィリップ殿下(Prince Philip, Duke of Edinburgh, 1921-2021)は失言癖(しつげんへき: history of gaffes)で悪名(あくみょう)高かったが、2021年4月9日(金)に満100歳の誕生日まであと2ヶ月ほどで薨去(こうきょ)した( https://www.bbc.com/news/uk-11437314。中でも有名なものを後期授業資料( https://sites.google.com/site/xapaga/home/princephilipgaffes )で紹介。

【参考】

The Beatles (John Lennon, Paul McCartney, George Harrison and Ringo Starr)

“Her Majesty” (1969)

Written by Lennon–McCartney (i.e. John Lennon, 1940-80 & Paul McCartney, b.1942)

Sung by Paul McCartney (b.1942)

ビートルズ

直訳「女王陛下」

邦題「ハー・マジェスティー」

1969年発表・発売

作詞作曲: レノンとマッカートニー

歌唱: ポール・マッカートニー

https://en.wikipedia.org/wiki/Her_Majesty_(song)

https://ja.wikipedia.org/wiki/ハー・マジェスティ

https://www.youtube.com/watch?v=v9tj1p-wRdM

https://www.youtube.com/watch?v=gA5JmQjE69w

[歌詞開始]

Her Majesty’s a pretty nice girl

女王陛下はとってもいい娘(こ)

But she doesn’t have a lot to say

だけど言葉は少なめ

Her Majesty’s a pretty nice girl

女王陛下はとってもいい娘

But she changes from day to day

だけど日によって変化する

I wanna tell her that I love her a lot

言ってみたいな、すごく好きだって

But I gotta get a bellyful of wine

だけどその前にワインを腹いっぱい飲まないと

Her Majesty’s a pretty nice girl

女王陛下はとってもいい娘

Someday I’m gonna make her mine, oh yeah

いつの日か彼女にするよ、そうさ

Someday I’m gonna make her mine

いつの日か彼女にするのさ

(日本語訳: 原田俊明)

女性君主に関する近年の法改正

イギリスの王制(君主制)も最近までずっと男性優位で来た。女性君主(女王)の時代が過去に何度かあったのと、そして現在も女王の時代なのは、偶々(たまたま)男性の継承者がおらず、消去法的に女性に王位が回ってきただけの理由である。

ところが2011年10月28日(金)から30日(日)にかけて豪州西部のパース市(Perth, Australia)で開催された第22回英連邦諸国首脳会議(22nd Commonwealth Heads of Government Meeting)の席で、共通の王室である英国のウィンザー家(the House of Windsor)を戴(いただ)く英連邦の君主国16ヶ国間で「パース協定(Perth Agreement)」が締結された。従来の王位継承が男子優先長子相続(male-preference primogeniture)だったのを改め、性別に依らない長子優先相続(absolute primogeniture)を定め、配偶者がカトリック信徒(a Roman Catholic)であれば王位継承欠格とする従来の規定を廃止し(但し、自身がカトリック信徒であれば欠格となる規定は維持)、結婚に際して君主の承認を必要とする王族の範囲を王位継承順位6位までに縮小するとした。周囲を見渡せば、1979年にスウェーデン王国が、1983年にオランダ王国が、1990年にノルウェー王国が、1991年にベルギー王国が、2009年にデンマーク王国が、従来の王位継承が男子優先長子相続(male-preference primogeniture)だったのを改め、性別に依らない長子優先相続(absolute primogeniture)へと法改正していた。英国(及び他の英連邦君主国15ヶ国)の動きは、北欧(Scandinavia)や欧州大陸(the Continent)の君主国の動向に呼応した形である。

保守党のキャメロン(David Cameron, b.1966; 首相在任2010-16)内閣は上記の「パース協定(Perth Agreement)」に基(もと)づき、「2013年王位継承法(Succession to the Crown Act 2013)」という法律を議会で成立させた。この法律は2013年4月25日(木)勅裁、2015年3月26日(木)効力発揮となり、今後は男女の性別に関係なく君主の子供の中で最年長の者が王位を継承することになった。しかし今の女王の長子は男性(チャールズ皇太子)で、そのまた子供にも男性(ウィリアム王子とハ リー王子、但し、日本のマスコミの呼び方ではヘンリー王子)、そのまた子供には上に男子(ジョージ王子)、下に女子(シャーロット王女)しかいないので、この法律が適用されるのは事実上、ウィリアム王子の孫(現女王の玄孫(やしゃご))の代からである。

同時に「カトリック信徒を配偶者とした者は王位継承権を失うこと」とした三百十四年前の「1701年王位継承法(Act of Settlement 1701)」から続く条項も撤廃された。しかしながら相変わらず「イングランド教会信徒のみが王位継承権を持つこと」と「カトリック信徒は王位継承権を失うこと」の条項は残された儘(まま)である。そのため、ガーディアン紙(The Guardian)や英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)等の左派系マスコミはこれを非難している。

歴代女王番外編

Queen Boudica

ブーディカ女王(? - AD60 or 61; イケニ族女王在位AD60/61前後)

https://en.wikipedia.org/wiki/Boudica

https://ja.wikipedia.org/wiki/ブーディカ

ローマ帝国支配下の紀元60年または61年に大規模な叛乱を起こした部族の指導者。イングランド東部のイースト・アングリア(East Anglia)地方ノーフォーク(Norfolk)州辺りに居住していたケルト系(Celtic)の古代ブリトン人(Britons)のイケニ族 (Iceni)という部族がいたが、そこはローマ帝国の直接の支配が及ばなかった。紀元43年にブリテン島に遠征・侵攻してきたローマ軍と同盟関係を結ぶことでイケニ族は独立を維持していた。しかしイケニ族の王プラスータグス(Prasutagus, ? - c.AD60)が死去すると、イケニ族の領土や財産は有無を言わさずローマに没収された。ローマ帝国の法律では財産相続を男子のみに限り、女子には継承権を持たせなかったため、寡婦(かふ)となったブーディカも遺された娘二人もイケニ族の土地や人民を継承する権利がないとされたのだった。イケニ族は重税を課され、イケニ貴族たちは奴隷の身分にまで貶(おとし)められた。ローマの歴史家兼元老のタキトゥス(Tacitus, c.AD56-c.117)の記述によると、征服者となったローマ兵たちはブーディカを鞭打ち、娘二人を強姦したという。紀元60年または61年頃、ロー マ帝国領ブリタンニア総督スエトニウス(Gaius Suetonius Paulinus, c.11BC - c.AD69)が軍を率いて北ウェールズのモナ島(現在のアングルシー)の抵抗勢力を討ちに遠征していた間隙(かんげき)を衝(つ)いて、 ブーディカ女王率いるイケニ族は近在のトリノヴァンテス族(Trinovantes)の協力を取り付けて武装蜂起した。叛乱軍はローマ殖民地カムロドゥヌム(現在のコルチェスター市)を破壊し、市制が敷かれて二十年しか経ていなかったロンディニウム市(現在の大ロンドン市シティー区)とローマ殖民地ウェルラミウム(現在のセント・オルバンズ市)を次々と破壊し、住民多数を殺害した。ローマの歴史家たちは叛乱軍の規模を兵力10万とも23万とも記述しているが、対するローマ帝国軍は1万の兵力しか持たなかった。しかしワトリング街道の戦い(Battle of Watling Street)でローマ軍が最終的に勝利して叛乱は鎮圧された。ブーディカ女王は敵に捕まる前に服毒自殺したとする説や、叛乱途中で病死したとする説があるが、娘たち二人の消息は不明である。総督だったスエトニウスはローマ帝国第五代皇帝ネロ(Nero, AD37-68, 在位AD54-68)によって罷免(ひめん)された。

なお、ブーディカの綴りには、現在定説とされる Boudica の他に Boudicca があり、過去にはボウディケア(Boadicea)またはボウディシア(綴りは同じBoadicea)と呼ばれたこともある。ブーディカの名がケルトの言語で「勝利」を意味することから、同じく「勝利」を意味するヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1819-1901; 在位1837-1901)の治世に持て囃(はや)され、想像力を働かせて鋳造(ちゅうぞう)された銅像が街頭に建てられ、絵画が描かれた。

【動画】

【ゆっくり解説】恐怖!〇問の叡智な歴史・3選!

ゆっくりで叡智を学ぶ

2021年8月7日(土) 公開

https://www.youtube.com/watch?v=_iVaylH0P0M (3:24-5:36 of 8:34)

英国歴代女性首相(2名+1名)

マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher, or Baroness Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90; オクスフオッド大学サマヴィル学寮卒)=政界引退後はサッチャー女男爵

https://en.wikipedia.org/wiki/Margaret_Thatcher

https://ja.wikipedia.org/wiki/マーガレット・サッチャー

1925年にイングランド北東部のリンカン州グランサム市(Grantham, Lincoln)に小さな雑貨商の娘、マーガレット・ヒルダ・ロバーツ(Margaret Hilda Roberts)として生まれた。つまり下層中産階級(lower middle class)の出身ということになる。ロバーツ嬢は女性教授のいなかった時代にオクスフオッド大学の学生になり、化学(Chemistry)を専攻した。大学内で政治家の登竜門とされていたオクスフオッド組合(Oxford Union)への入会が「女だから」という理由で認められず、代わりに保守党協会(Conservative Association)に入会し、1946年には同協会会長を務める。1950年に二十四歳の若さで初めて国会に立候補するが、敢(あ)え無く落選した。

1951年に実業家のデニス・サッチャー(Dennis Thatcher, 1915-2003)氏=後の英勲爵士デニス・サッチャー(Sir Dennis Thatcher, 1915-2003)=と結婚し、1953年に上級弁護士(barrister: 法廷で弁護できる法廷弁護士)の資格を取得すると同時に双子の男女を出産。サッチャー夫人は「女だから」という理由で保守党(Conservative Party; 通称・別称・蔑称 Tories)の推薦をなかなか得られず選挙では落選が続いた。初当選して議員になれたのは三十四歳のとき、1959年のことだった。当時は女性議員は全体の4%しかいなかった(2019年12月12日(木)の総選挙後は過去最高の32.0%; 日本は2021年3月時点で衆議院9.9%、参議院22.9%)。そこまでのし上がるのにサッチャーは発話訓練(elocution lessons)を受け、生来のズーズー弁を矯正し嫌味なほど綺麗な容認発音(RP: received pronunciation)を身に着けた。

1970年にサッチャーは唯一の女性として(紅一点で)閣僚となり、1975年に野党保守党の党首になり、1979年5月の総選挙で保守党が勝利したことを受けて、英国史上初の女性首相(the first Prime Minister in British history)となった(1990年11月28日まで)。男性政治家も顔負けの強硬的な政治手法で知られ、「鉄の女」(the Iron Lady)の異名(いみょう)を獲得したが、サッチャーに嫌悪感を抱く層からはマギー(Maggie)と呼ばれた。下層中産階級(lower middle class)出身のくせに上流気取りのアクセントで喋る鼻持ちならない女をイラつかせる(annoyする)目的で、反対派は下層風のニックネーム「マギー」を使ったのである。

サッチャーに遅れること約二年でノルウェー王国初の女性首相になった十三歳年下のブルントラン(Gro Harlem Brundtland, b.1939; 首相在任1981, 1986-89 & 1990-96)女史は、二度目に首相になった1986年に閣僚(cabinet ministers)の半数に女性を起用した。ブルントランがサッチャーにも女性閣僚を増やす意思があるかどうか尋ねたところ、「閣僚に抜擢できるほど有能な女性がいない。」とサッチャーが答え、ブルントランは失望したという。 実際、サッチャーは十一年半の首相在任中、たったの一人しか女性閣僚を任命しなかった。それは自分より一歳だけ年下のヤング夫人(Janet Young, 1926-2002)=後のヤング女男爵(Baroness Young, 1926-2002)=であり、1982年から’83年にかけて一年二ヶ月の間だけ、王璽尚書(おうじ しょうしょ Lord Privy Seal)という1307年から続く英国でも最古の閣僚職を務めさせた(なお、英国総理大臣職は、その四百十四年後の1721年に成立し、日本国総理大臣職は、それから更(さら)に百六十四年後の1885年に成立した)。2013年4月8日(月)にサッチャーが亡くなった際、ブルントラン女史は追悼の言葉を述べながらも、「私は彼女から何かを学んだだろうか。答えはノーだ。」と断言している。ここにサッチャーとブルントランという同時代の二大女傑の政治スタンスの違いが如実(にょじつ)に発現している。

1982年1月9日(土)に溺愛(できあい)していたドラ息子のマーク(Mark Thatcher, b.1953)=後の第二代サッチャー准爵(准男爵または準男爵の訳語もあり)マーク(Sir Mark Thatcher, 2nd Baronet, b.1953)が、ダカール・ラリー(Dakar Rally)=通称 パリ=ダカール・ラリー(Paris-Dakar rally)=日本での通称「パリダカ」という自動車耐久レースで行方不明になると、サッチャーは人目を憚(はばか)ることなく動揺した。英首相としてアフリカの各国に息子の行方を現地警察や現地軍がすぐさま探すよう徹底的に圧力をかけたたけでなく、もし守らなかったら報復すると恫喝(どうかつ)した。五日後の同年(1982年)1月14日(木)にマークは発見されるが、その公私混同ぶりはサッチャーの経歴には汚点となった。また、マークには性別違いの双子(英語では twin sister というため姉なのか妹なのか不明だが一部日本語サイトではとされる)であるキャロル(Carol Thatcher, b.1953)も居るが、犬猿(けんえん)の仲である。それといのも母親のサッチャー首相が息子だけを可愛がり、娘には冷淡だったからだと考えられている。

サッチャーは教育予算の削減で悪名(あくみょう)高い。首相になるよりもずっと前の1970年~’74年に文部科学大臣(Secretary of State for Education and Science)を務めたが、学校給食で低所得層にそれまで無償で提供されていた牛乳を取り去った。そこで反対派からは「サッチャー、サッチャー、ミルク盗み!(Thatcher, Thatcher, milk snatcher!)」とダジャレで揶揄(やゆ)された。

イギリスの大学関係者でもサッチャーのことを良く言う人は、自身が事実上創立した私立バッキンガム大学(University of Buckingham; 通称 Buckingham University)を除き、ほぼ皆無(かいむ)である。歴代の卒業生宰相に名誉博士号[註]を授与してきたオクスフオッド大学(University of Oxford; 通称 Oxford University)の大学評議会(日本で言う教授会)は、博士号授与の是非を巡って採決したところ、反対738票、賛成319票という大差で授与しないことが決定した。

サッチャーは経済の立て直しのために公的支出を劇的に削減し、政治の市場介入(=金持ちの活動抑制)を中止し、富裕層優遇策を採った。その結果、インフレ(inflation)が進み、企業の倒産で失業者が街に溢(あふ)れ、政権掌握から二年でサッチャーは英国史上最悪の嫌われ者の首相となった。

ところが飛んで「火に入()る夏の虫」(a moth flying into the flame)の如(ごと)く、1982年4月2日(金)、遠く南米のアルゼンチン軍が英領フォークランド諸島(アルゼンチン側はスペイン語でマルビナス諸島と呼ぶ)を軍事占領した。イギリスも果敢に軍事行動に出るか、或(ある)いは国際社会に訴えて話し合いをするか、国論は二分された。緊急閣議を開いたサッチャーは怯(ひる)んでいる男性閣僚たちを一喝し、英軍にフォークランド奪還を指示し、英国海軍(RN: Royal Navy)の特務艦隊(a task force)を現地へ派遣した。こうして十週間に及ぶフォークランド戦争(Falklands War)の戦端が開かれた。この作戦には女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)の次男ヨーク公アンドルー王子(Prince Andrew, Duke of York, b.1960)=22歳も海軍軍人として出征したため、若い王族の戦死という失態は絶対に許されなかった。同年(1982年)6月14日(月)、英軍が完全勝利し、フォークランド諸島は再び英領に復帰した。英軍の戦死者255人、アルゼンチン側649人、味方英軍の流れ弾で死亡した島民3人。作戦の大成功(英軍の完全勝利)により低迷していたサッチャー人気は大きく回復するばかりか人気絶頂になった。皮肉なことにサッチャーの政治生命が敵のアルゼンチン軍に助けられた格好である。

1986年10月27日(月)にサッチャー内閣の主導の下で断行された金融市場のビッグバン(Big Bang of financial markets)=日本で言う「金融ビッグバン」=では英国企業の姿が消え、ロンドン市場は外国資本の参入で活況を呈す現象が生じた。テニスのウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon)と同様にイギリスは外国勢力に単に場所貸しをしているだけという事態を揶揄(やゆ)した用語として、ウィンブルドン効果(Wimbledon Effect)がある。日本企業はサッチャーの政策のお蔭で挙(こぞ)って英国進出できたため、日本の財界人でサッチャーを悪く言う者はほぼ皆無である。

サッチャー以前の1970年代に欧米で最も貧富の格差の少なかった英国社会を、サッチャーは十一年半の間にアメリカに匹敵するような格差社会に作り変えた。サッチャーは、正直者が馬鹿を見る福祉国家(a welfare state)をやめ、努力した者だけが報(むく)われ、そうでない者が痛い目に遭()うようなヴィクトリア時代の価値観(Victorian values)にまで時計の針を引き戻した。そうすることで英国の過去の栄光を取り戻そうとした。しかしこの政策は裏を返せば、結局は金持ちだけが優遇され、貧乏人ははじかれる政策だったので、強烈な反撥があった。その強硬な政治姿勢には貧乏人からの反撥のみならず、一部の金持ちからの反撥もあった。

サッチャーの後を継いだ同じ保守党(Conservative Party; 通称・別称・蔑称 Tories)のジョン・メイジャー(John Major, b.1943; 首相在任1990-97)=47歳=後の英勲爵士ジョン・メイジャー(Sir John Major, b.1943)=は、よりソフトな路線で「階級なき社会」(classless society)を提唱し、保守党の人気回復に努めるも人気は低迷した。1997年5月1日(木)の総選挙でトウニィ・ブレア(Tony Blair, b.1953; 首相在任1997-2007)=43歳の率いる労働党(Labour Party; 通称 Labour)に保守党は歴史的大敗北を喫し、その後十三年に及ぶ労働党政権が続くことになる。

サッチャー死去(2013年4月8日(月))直後のイギリスの動きについては下記参照。

註: 英国最古の大学であるオクスフオッド大学では博士号を DPhil と称している。これは羅典(ラテン)語の Doctor Philosophiae (ドクトる・フィロソフィアェ: 「哲学の博士」の意)の略である。しかし英国で二番目に古い大学であるケイムブリヂ大学(University of Cambridge; 通称 Cambridge University)では博士号を PhD と称している。これは羅典(ラテン)語の Philosophiae Doctor (フィロソフィアェ・ドクトる: 「哲学の博士」の意)の略である。羅典(ラテン)語は語尾変化があるので、語順は英語と比べて格段に自由である。米国最古の大学であるハーヴァード大学(Harvard University)は英国のケイムブリヂ大学の卒業生が建学したため、博士号をケイムブリヂ式にドットを足して Ph.D. としている。この Ph.D. の表記は全米の大学、やがては全世界の大学が真似するようになり、今日(こんにち)に至っている。

【サッチャーの死去に関連して】

英音楽チャート1位に「悪い魔女は死んだ」、サッチャー氏死去で

フランス通信社(AFP: Agence France-Presse)日本語版

2013年4月11日(木)

https://www.afpbb.com/articles/-/2938190?pid=10560029

個人ブログ

サッチャー元首相イギリス人に嫌われ、死を祝う歌が全英1位に

千日ブログ

2013年4月16日(火)

https://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-3198.html

さよなら、マギー~「内なる抑圧」の誘惑には、名前を付けて抵抗しよう

Wezzy (ウェジー)

北村紗衣(きたむら さえ, b.1983)武蔵大学専任講師(後に准教授)・博士(ロンドン大学国王学寮)署名コラム

2017年6月10日(土)

https://wezz-y.com/archives/47829

https://wezz-y.com/archives/47829/2

https://wezz-y.com/archives/47829/3

小見出し1: 「家庭の天使」のまぼろし

小見出し2: 男社会に適応したマーガレット・サッチャー

小見出し3: 心にひそむ闇のマギー

小見出し4: マギーを抑えるには

[サッチャー死去を巡る1週間の動き]

2013年4月8日(月) サッチャー(Margaret Thatcher or Baroness Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90)元首相・女男爵が満八十七歳で脳卒中のため歿。サッチャーの功罪(功績と罪科)について国論は二分。改めてサッチャー論争が起こる。

2013年4月11日(木) サッチャー歿から三日を経たこの日、「鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ(Ding Dong! The witch is dead)」が英国ダウンロードサイトの第1位に上り詰め、人々はサッチャーの死去を祝う。

2013年4月13日(土) サッチャー死去直後の週末(weekend)であるこの日、ロンドン都心のトラファルガー広場(Trafalgar Square)に約3,000人が「魔女は死んだ!(The witch is dead!)」などと叫んでサッチャーの死に気勢を上げ、(おそらくは酔った上での)警官への暴行容疑などで16人が逮捕される。

2013年4月14日(日) 翌日(月曜)にサッチャー元首相・女男爵の国葬(state funeral)に準じる規模の手厚い葬儀が執()り行なわれようという日曜のBBCラジオ第1放送(BBC Radio 1)の番組で、英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)への聴取者(listeners)からのリクエスト(request)として「鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ(Ding Dong! The witch is dead)」が殺到。BBCは苦渋の判断を迫られる。公共放送のBBCとしては、たとえ批判の多い死者であっても死者を嘲笑するような曲を全編に亘(わた)って流すことは拒否したが、他方、リクエストに対する検閲(censorship)を断行して、多くのリスナーが希望する曲を放送しないわけにはいかないというディレンマ(dilemma)に陥(おちい)った。そこで英国的な妥協(だきょう: compromise コンプろマイス)の産物として5秒だけの抜粋を流すことで解決を図ったのだった。

2013年4月15日(月) サッチャー元首相・女男爵の国葬(state funeral)に準じる規模の手厚い葬儀が、大ロンドン市シティー区(City of London, Greater London)内の聖パウロ主教座聖堂(St Paul’s Cathedral)にて執()り行なわれる。サッチャー本人の生前の希望から、保守党と自由民主党の連立だったキャメロン(David Cameron, b.1966; 首相在任2010-16)内閣は国葬にはせず、儀礼葬(ceremonial funeral)とした。そしてサッチャー本人の生前の希望から、現職の首相であるキャメロン氏が聖書の一部を朗読した。この葬儀にはサッチャーとほぼ同世代である女王エリザベス二世(Elizabeth II, b.1926; 在位1952-)とその王婿(おうせい: Prince Consort)であるエディンバラ公フィリップ殿下(Prince Philip, Duke of Edinburgh, 1921-2021)も出席したが、女王夫妻が元首相の葬儀に出席したのは、1965年1月30日(土)のチャーチル(Sir Winston Churchill, 1874-1965; 首相在任1940-45 & 1951-55)元首相のための国葬(state funeral)以来まだ英国史上二度目のことであり、異例中の異例であった。

【関連コラム】

マーガレット・サッチャー元英首相の子どもたち、現在はどうしている?

サッチャーのお気に入りは、娘のキャロルではなく息子のマークだった

ハーパーズ・バザー(Harper’s Bazaar)日本版

エイミー・マッケルドゥン(Amy Mackelden)記者署名コラム

2020年11月16日(月)

https://www.harpersbazaar.com/jp/celebrity/celebrity-buzz/a34683149/margaret-thatcher-children-carol-mark-201116-lift1/

https://news.yahoo.co.jp/articles/7b0279c356daffb58835874ff5139e725688e40d (リンク切れ)

「鉄の女」マーガレット・サッチャー元英首相の知られざる母親としての素顔

ハーパーズバザー(Harper’s Bazaar)日本版

2020年11月28日(土)

https://news.yahoo.co.jp/articles/76645da3c77d967a33b9bfdd1a4a4b97b98e3959 (リンク切れ)

『ザ・クラウン』シーズン4のキーパーソン、サッチャー元首相の夫とは

彼は生涯、忠実で協力的な夫だった

ハーパーズバザー(Harper’s Bazaar)日本版

リーナ・キム(Leena Kim)記者署名コラム

2020年12月12日(土)

https://www.harpersbazaar.com/jp/lifestyle/movie-tv/a34948423/denis-thatcher-margaret-thatcher-husband-201212-lift1/

https://news.yahoo.co.jp/articles/4252f479d1b9d9b5b033b3767efd8427e594c339 (リンク切れ)

小見出し1: デニスとマーガレットは1949年に出会い、2年後に結婚

小見出し2: 叙勲を受けた退役軍人

小見出し3: 裕福なビジネスマンで法律を学ぶ妻の学費を出した

小見出し4: 1964年にノイローゼになった

小見出し5: 生涯、忠実で協力的な夫だった

小見出し6: マーガレットとデニスの結婚は、2003年の彼の死まで51年間続いた

【書評】〈許容する社会〉を女性首相サッチャーの登場が終わらせたという皮肉 『イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ』

婦人公論

フリーランス編集者・文芸評論家 仲俣暁生(なかまた あきお, b.1964)

2021年8月3日(火)

https://fujinkoron.jp/articles/-/4225

https://news.yahoo.co.jp/articles/b8ae4c2d19e0f74c288d5e7d468f2e1e3df387f7

https://news.yahoo.co.jp/articles/b8ae4c2d19e0f74c288d5e7d468f2e1e3df387f7/comments

サッチャー発言集

“In politics, if you want anything said ask a man, if you want anything done ask a woman.”

「政治に於()いて、何かを言ってもらいたければ男に頼みなさい。何かをやってもらいたければ女に頼みなさい。」

https://www.margaretthatcher.org/document/101374

(1965年5月20日(木)、全英都会女性組合(National Union of Townswomen’s Guilds)の全国大会での一下院議員としての発言だが、一人歩きしてしまい、「政治に於いて(In politics,)」の部分が省(はぶ)かれた形で一般には流布(るふ)している。)

“It was so refreshing to see everyone working. No one was standing around doing nothing.”

「(作業員)全員が働いているのを見るのは何とも気分爽快でした。何もしないで突っ立ている人が誰一人いないんですから。」

https://www.margaretthatcher.org/document/103182

(1977年4月15日(金)、最大野党保守党の党首として初来日時、神奈川県座間市の日産自動車工場を視察して川又克二社長(当時)に向かって)

“Defeat? I do not recognize the meaning of the word.”

「敗北? 私はその単語の意味を認識しておりません。」

https://www.mirror.co.uk/news/uk-news/margaret-thatcher-dead-iron-ladys-1818087

(1982年4月2日(金)または3日(土)、南米アルゼンチン軍事独裁政権に対してフォークランド戦争の戦端を開く是非を巡り、敗戦の可能性を側近に指摘されて)

“The people of the Falkland Islands, like the people of the United Kingdom, are an island race. Their way of life is British; their allegiance is to the Crown. They are few in number, but they have the right to live in peace, to choose their own way of life and to determine their own allegiance. Their way of life is British; their allegiance is to the Crown. It is the wish of the British people and the duty of Her Majesty’s Government to do everything that we can to uphold that right. That will be our hope and our endeavour and, I believe, the resolve of every Member of the House.”

「フォークランド諸島の人民は、連合王国の人民と同様に島国の種族です。彼らの生活様式は英国流であり、彼らの忠誠心は英国王室に向けられています。彼らは数では少数に属しますが、平穏に生活する権利を有し、自分流の生き方を選ぶ権利を有し、自分自身で忠誠心の対象を選ぶ権利を有しているのです。彼らの生活様式は英国流であり、彼らの忠誠心は英国王室に向けられています。英国民の希望であり、女王陛下の政府(=英国政府)の務めでありますのは、あらゆる手を尽くしてその権利を擁護することなのです。それこそが我々の希望であり、我々の努力であり、私が信ずるところでは、議会の一人一人の議員が抱く決意なのです。」

https://en.wikiquote.org/wiki/Margaret_Thatcher#First_term_as_Prime_Minister

(1982年4月3日(土)、南米アルゼンチン軍事独裁政権に対してフォークランド戦争の戦端を開くに当たっての英国議会での演説)

“In Britain today Japan has become a by-word for effort, ingenuity, excellence and success. Your art and design have long excited our interest and admiration. You have a sense of tradition, a taste for beauty, a pride in loyalty and a habit of harmony.”

「今日(こんにち)の英国で日本と言えば、努力、創意工夫、優秀さ、成功の代名詞になっています。あなた方の藝術(アート)や意匠(デザイン)は長いこと私たちの興味と 称賛の念を刺激してきました。あなた方は伝統の感覚や審美眼や忠誠心へのプライドや調和の習慣を有しておられます。」

https://www.margaretthatcher.org/document/105020

(1982年9月21日(火)、首相となってから来日し、日本記者クラブでのスピーチから)

“Feminists hate me, don’t they? And I don’t blame them. For I hate feminism. It is poison.”

「フェミニストたちは私を嫌ってるんでしょ。それも無理はない。というのも私はフェミニズムが嫌いだから。あれは毒だわ。」

https://www.newstatesman.com/archive/2013/04/margaret-thatcher-feminist-icon

(発言年月日不明、著名ジャーナリストのポール・ジョンソン氏に語った言葉がサッチャーの死に際して再びマスコミで注目集まる)

【動画】

辞任直前の英国議会下院=庶民院でのやり取り(1990年11月)

(下層中産階級の出身ながら努力して上流階級の発音を身に着けた例)

Thatcher’s Last Stand Against Socialism

https://www.youtube.com/watch?v=rv5t6rC6yvg

英国史上2人目の女性首相(the second Prime Minister in British history)

テリーザ・メイ(Theresa May, b.1956; 首相在任2016-19; オクスフオッド大学聖ヒュー学寮卒)

https://www.gov.uk/government/people/theresa-may

https://en.wikipedia.org/wiki/Theresa_May

https://ja.wikipedia.org/wiki/テリーザ・メイ

2016年6月23日(木)に実施された連合王国(UK: United Kingdom)の欧州連合(EU: European Union)からの離脱の是非(ぜひ)を問う所謂(いわゆる) Brexit referendum (ブレグジット国民投票)で離脱派(the Leave side)が勝利したことを受けて、残留派(the Remain side)のキャメロン(David Cameron, b.1966; 首相在任2010-16)内閣が自身の敗北の責任を取って2016年7月13日(水)に総辞職。与党保守党内の対立候補が総裁選に出馬することを断念したため、党内無選挙で同日にキャメロン内閣で内務大臣(Home Secretary: 日本の「法務大臣」に相当)を六年間務めてきたメイ(Theresa May, b.1956; 首相在任2016-)夫人の内閣が組閣。メイ夫人(Mrs May)自身は元々欧州懐疑派(Eurosceptic ユーろスプティック)で、ブレグジット国民投票では残留派(the Remain side)に身を置いていたが、皮肉にもEUとの離脱交渉を引き受ける羽目になった。

英国史上初の女性首相と成ったサッチャー(Margaret Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90)夫人=後のサッチャー女男爵(Baroness Thatcher)が、男性政治家も顔負けの強硬的な政治手法のため「鉄の女」(the Iron Lady)の異名(いみょう)を獲得したのに対し、メイ夫人(Mrs May)は自分の考えを表に出さず政治家同士で馴()れ合うことを良しとしないことで時に「氷の女王」(the Ice Queen)と呼ばれる。

2017年の年頭でメイ首相は強気だった。2017年1月17日(火)に行なった欧州連合離脱に関する演説で、英国はEUに「半分残り、半分出る」ような合意はしないと強調し、移民流入制限を優先し、欧州単一市場や関税同盟や欧州司法裁判所から脱退する方針を表明した。国民投票で離脱が決まり後悔と不安でガタガタになったイギリスを「決まった以上後戻りはしない」という強い姿勢を示すことで立て直した。そして同年(2017年)3月29日(水)、連合王国の離脱の意思をEUに対して正式に通告した。EUの規定により、この通告から2年以内に英国はEUから離脱する必要があったが離脱条件が議会の反対に遭い実現しなかった。

対するEUで中心的な役割を果たすドイツのメルケル(Angela Merkel, b.1954; 首相在任2005-)首相は、今や移民の殺到と、一部移民によるテロを含む凶悪犯罪の問題で力が弱っている。2017年9月24日(日)に実施されたドイツ連邦議会総選挙(独 Bundestagswahl 2017 ブンデスタークスヴァール・ツヴァイタウゼントズィープツェーン; 英 German federal election, 2017)で一応の勝利を収め、首相として四選に成功したが、マスコミから「極右政党」として敵視されている「ドイツのための(複数の)選択肢」(Alternative für Deutschland アルタナティーフェ・フュアドイチュラント)が大躍進する結果となった。一方、フランスのオランド(François Hollande, b.1954; 大統領在任2012-17)氏は影響力が弱くなる一方で、2017年4月23日(日)に第1回投票が実施された大統領選挙には出馬しなかった。そして当時39歳のマクロン(Emmanuel Macron, b.1977; 大統領在任2017-)氏が選挙で勝って2017年5月14日(日)に新大統領に就任したが、2018年11月17日(土)以来毎週土曜日に「黄色チョッキ運動」(仏 Mouvement des gilets jaunes ムゥヴマォン・デジレジョーヌ; 英訳 yellow vests movement or yellow jackets movement)が起きていてマクロン仏大統領は激しい抗議に晒(さら)されている。

メイ首相(当時)は一週間前の2017年1月20日(金)に就任したばかりのトランプ(Donald Trump, b.1946; 大統領在任2017-)米新大統領が大統領官邸のホワイトハウス(the White House: 「白い館」の意)にて外国の首脳として初となる会談の相手に選んだ相手でもある。但し、大統領就任直前には日本の安倍晋三(あべ しんぞう, b.1954; 首相在任2006-07 & 2012-)総理大臣がトランプ次期大統領のニューヨーク市内の私邸で会見している。同年1月27日(金)に開かれた会談後はホワイトハウス内にて記者を集めて合同記者会見(joint press conference)を実施し、英米の「特別な関係」(the special relationship)を内外に印象づけた。

ホワイトハウスが公開した米英二ヶ国首脳の発言( https://www.whitehouse.gov/the-press-office/2017/01/27/president-trump-and-prime-minister-mays-opening-remarks )と動画( https://www.whitehouse.gov/featured-videos/video/2017/01/27/president-trump-and-pm-may-joint-press-conference )。

英国首相官邸が公開した英米二ヶ国首脳の発言と質疑応答と動画( https://www.gov.uk/government/speeches/pm-press-conference-with-us-president-donald-trump-27-january-2017 )。

なお、外国の首脳として2人目は日本の安倍晋三(あべ しんぞう, b.1954; 首相在任2006-07 & 2012-)総理大臣であり、2017年2月10日(金)にホワイトハウス内にて会談・合同記者会見(joint press conference)を実施した後は、その儘(まま)一緒に大統領専用機エアフォースワン(Air Force One)に乗り込み在フロリダ州パームビーチ(Palm Beach, Florida)のトランプ氏別荘へ移動し、同年2月11日(土)には日米両国の首脳がトランプ氏所有のゴルフ場でゴルフ対決を楽しむことで強固な日米関係を内外に印象づけた。

日本国外務省が公開した日米首脳会談の日程( https://www.mofa.go.jp/mofaj/na/na1/us/page1_000297.html )。ホワイトハウスが公開した動画( https://www.whitehouse.gov/featured-videos/video/2017/02/10/president-trump-and-prime-minister-shinz%C5%8D-abe )。日本国首相官邸が公開した安倍首相冒頭発言( http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2017/0210usa.html )。日本国政府インターネットテレビ・内閣広報室が公開した動画( https://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg14920.html )。日本国外務省が公開した日米共同宣言和文( https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000227766.pdf )と英文( http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000227768.pdf )、ホワイトハウスが公開した英文( https://www.whitehouse.gov/the-press-office/2017/02/10/joint-statement-president-donald-j-trump-and-prime-minister-shinzo-abe )。

メイ夫人(英 Mrs May; 米 Mrs. May)は2017年4月18日(火)、大ロンドン市ウェストミンスター区ダウニング街10番地(10 Downing Street, City of Westminster, Greater London)の首相官邸前に記者団を集め、玄関前の階段に立って記者会見した。その内容は、議会下院(the Lower House of Parliament)=庶民院(the House of Commons)の選挙日程を三年早めた総選挙(General Election)を六週間後の同年6月8日(木)に実施するとの突然の発表だった。英国の首相は日本の首相同様に(日本が単に英国を模倣しただけだが)議会解散権(mandate to dissolve Parliament)を有している。但し、2011年定期議会法(FTPA: Fixed-term Parliaments Act 2011)が施行されて以来、首相による議会解散権が制限され、下院議員の三分の二(two thirds of MPs)が解散総選挙への賛成票を投じない限りは成立しない。欧州連合(EU: European Union)からの離脱の方針・方法について国民の信を問うための選挙であり、既に決まっているEU離脱の是非を再度問うわけではないとのことだが、EU当局は英首相の突然の発表に当惑したという。メイ夫人の発表のニュースは欧州委員会(European Commission)の定例記者会見中に飛び込んだが、同委員会の広報官は「ノーコメント」を貫いた。英マスコミ各社は「抜き打ち総選挙」(snap general election: 日本で言う「解散総選挙」に相当)と一斉に報じたが、首相(当時)本人は「抜き打ち(snap)」という用語には同意しなかった。なお、議会上院(the Upper House of Parliament)=貴族院(the House of Lords)に選挙は無く、無給ボランティア議員がいるのみ。そして翌日(2017年4月19日(水))に下院議員の三分の二を大幅に超える賛成票が投じられ、同年(2017年)6月8日(木)に総選挙を実施することが正式に決まった。

その後同年(2017年)5月22日(月)に三番目の規模の都市マンチェスターで、そして6月3日(土)に首都ロンドンで、イスラム教過激派によるテロ事件が相次いだ(同年3月22日(水)のロンドンでのテロを入れると3連続)が、総選挙は予定通り同年6月8日(木)に実施された。メイ夫人の与党保守党(Conservative Party; 別称・蔑称 Tories)は選挙直前の1週間で最大野党の労働党(Labour Party)党首コービン(Jeremy Corbyn, b.1949)氏の猛烈な追い上げを受け、しかもキャプテン・スカー(Captain SKA)によるメイ首相に対する中傷ソング ‘Liar Liar’ (「ライヤー・ライヤー」: 「嘘つき嘘つき」の意 https://www.youtube.com/watch?v=HxN1STgQXW8 )なる楽曲がネット上で大ヒットした。英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)は選挙での中立公正性(neutrality and fairness)に支障が出ることを恐れ、聴取者たち(listeners)のリクエストに応じることを拒否した。

投票翌日(2017年6月9日(金))未明に発表された開票とその後の修正発表の結果( https://www.bbc.com/news/election/2017/results )、保守党が得票率42.4%で13議席減の318議席にとどまり、定数650の議会で過半数割れ(議席率48.9%)を起こした。つまり議会の半数を抑(おさ)えるのにあと7議席が足りず、過半数にはあと8議席が足りなかった。それでも保守党が議会最大政党であることには変わりがなく、政権交代はない。対する労働党は得票率40.0%で30議席増の262議席(議席率40.3%)と大健闘した。これは保守党が推進していた緊縮財政(austerity measures)に対して有権者の嫌気がさしたことが最大の理由と考えられる。緊縮財政とは、メイ夫人がキャメロン(David Cameron, b.1966; 首相在任2010-16)内閣の内務大臣(Home Secretary: 日本の「法務大臣」に相当)を六年間務めていた時代に警察組織を2万人も削減したことや、やはりキャメロン内閣時代に起きた大学の学費(tuition fee)の高騰(こうとう)、それにメイ内閣での国民健康保険制度(NHS: National Health Service)の予算削減や身障者への補助金削減が含まれる。そのため保守党は大学生をはじめとした若者の間で不人気である。迎え撃つ労働党は、そうした有権者の不満をうまく引き出し、議席の大幅増に繋(つな)げた。抜き打ちの選挙を実施することで政権基盤を盤石(ばんじゃく)なものにしようと画策(かくさく)したメイ首相だったが、蓋(ふた)を開けてみれば大誤算だった。キャメロン前首相が二年前の2015年5月7日(木)の総選挙で大勝利した折角(せっかく)のレガシー(legacy)を台無しにしてしまった。そして議会下院(the Lower House of Parliament)=庶民院(House of Commons)は、今や決定的な勝者としての政党が無い所謂(いわゆる)「宙づり議会」(a hung parliament)になってしまった。今後は英国の政策決定に多大な障碍(しょうがい)が出ると懸念される。メイ首相は、自党の過半数割れという事態を乗り切るため、北アイルランドのプロテスタント系地域政党である民主ユニオニスト党(DUP: Democratic Unionist Party; 「ユニオニスト」とは北アイルランドが今後とも連合王国の一部であることを望む立場)に政権への協力を促した。結果として僅(わず)か10議席しか持たないミニ政党であるDUPがキャスティングヴォート(casting vote: 議会で賛否が対立しているとき、会議の議決を決める決定権を少数の第三党が持ってしまうこと)を握るのではないかと危惧する声が出た。

メイ首相は2017年11月9日(木) 23:30更新、紙版では同年(2017年)11月10日(金)付の日刊テレグラフ紙(The Daily Telegraph)に寄稿し、「英国は2019年3月29日午後11時に欧州連合から離脱することを法律に明記する」( https://www.telegraph.co.uk/news/2017/11/09/determined-give-country-best-possible-brexit/ )と表明した。メイ夫人がEU離脱の具体的な日時を明言したのはこれが初めて。午後11時=23時とは、一見中途半端な時間に見えるが、英国時間よりも常に1時間早い中欧時間(CET: Central European Time)という時間帯に位置するベルギー王国首都ブリュッセル(仏 Bruxelles; 蘭 Brussel; 独 Brüssel; 英 Brussels)市=欧州連合(EU: European Union)の事実上の首都では、2019年3月29日(金) 24時=2019年3月30日(土) 夜半0時ということになる。メイ夫人は半年以上前の2017年3月29日(水)の時点で連合王国(UK: United Kingdom)の離脱の意思をEUに対して正式に通告していたが、EUの規定により、通告から2年以内に英国はEUから離脱する必要があるため、ギリギリの時間を選んだ次第である。ところがEUとの間で妥結した離脱案が英国議会で三度も否決され、離脱は同年(2019年)10月31日(木) 23:00にまで再延期することでEUと合意に達する。1時間の時差の関係で、EU本部が置かれているベルギー王国首都ブリュッセル市では2019年10月31日(木) 24:00=2019年11月1日(金) 0:00に相当する。

2019年5月24日(金)、保守党内部からも辞任圧力が強まっていたメイ夫人はとうとう2週間後に辞任することを明かし、ダウニング街10番地(10 Downing Street, City of Westminster, Greater London)の首相官邸前で辞任スピーチを読み上げた( https://sites.google.com/site/xapaga/home/theresamayspeech24may2019 )。これまで強気の姿勢を見せていたメイ夫人がスピーチの最後では涙ぐみ、涙を見せまいとして背中を向け、取り急ぎ首相官邸に入っていく姿が印象的であった。そして約束通り同年(2019年)6月7日(金)に保守党党首と総理大臣の職を辞したが、後継の保守党党首・総理大臣としてジョンソン(Boris Johnson, b.1964; 首相在任2019-)氏が就任した同年(2019年)7月24日(水)までは暫定首相(acting Prime Minister)として職務を遂行した。

私生活ではテリーザ・ブレイジャー(Theresa Brasier, b.1956)嬢としてオクスフオッド大学聖ヒュー学寮(St Hugh’s College, Oxford)在学中に知り合った1歳年下の同大学リンカン学寮(Lincoln College, Oxford)在学だったフィリップ・メイ(Philip May, b.1957)氏と、同大学卒業後の1980年に満24歳の誕生日が来る前に結婚したが、子供はいない。夫のメイ氏(英 Mr May; 米 Mr. May)は投資ファンド(investment fund)の顧客関係管理職(customer relationship manager)の職に就いている。

ケイムブリヂ大学ニューナム学寮(Newham College, Cambridge)特別研究員・古典学教授で現代英国を代表するフェミニストでもあるメアリー・ビアード(Mary Beard, b.1955)女史は2017年5月の講演の中で、メイ首相(当時)についてこう述べている。「テリーザ・メイについては、今はまだ何かを断定するには早すぎますが、結局失敗するために権力の座に就かされ、座らされ続けた女性だった、といつの日か回想することになりそうな気がしてなりません[後略]。」(メアリー・ビアード著、宮﨑真紀訳、『舌を抜かれる女たち』 晶文社、2020年, pp.85-86)と。

【関連コラム】

メイ首相は「要らぬギャンブル」で敗退した

悪夢としか言いようがない結末に

東洋経済オンライン

みずほ銀行チーフマーケット・エコノミスト 唐鎌大輔(からかま だいすけ, 生年非公開)署名記事

2017年6月10日(土) 4:00 配信

https://toyokeizai.net/articles/-/175589

https://toyokeizai.net/articles/-/175589?page=2

https://toyokeizai.net/articles/-/175589?page=3

https://toyokeizai.net/articles/-/175589?page=4

https://toyokeizai.net/articles/comment/175589

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170610-00175589-toyo-bus_all (リンク切れ)

小見出し1: 決勝点となったオウンゴール

小見出し2: 空費される離脱交渉の時間

小見出し3: 高まるクリフエッジ・リスク

小見出し4: ポンドドル相場は、なお1.20台が視野

(詳細はコラム記事本文へ)

セクハラで大揺れの英議会 親日・国防相が辞任 EU離脱交渉に影響「越えてはならない一線」明確化が急務

ブログ記事「木村正人のロンドンでつぶやいたろう」

ヤフーニュース転載

在英国際ジャーナリスト 木村正人(きむら まさと, b.1961)

2017年11月4日(土) 17:54 JST

https://news.yahoo.co.jp/byline/kimuramasato/20171104-00077766/

(詳細は記事本文へ)

メイ首相に単独インタ 初めての大阪は?

日テレNEWS24

2019年6月28日(金)

https://www.news24.jp/articles/2019/06/28/10458206.html

https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20190628-00000356-nnn-int (リンク切れ)

【比較参考】

西曆2019年 5月30日(木) アンゲラ・メルケル(Angla Merkel, b.1954; 首相在任2005-)独首相のハーヴァード大学卒業式スピーチ対訳

https://sites.google.com/site/xapaga/home/angelamerkelharvard2019

https://sites.google.com/site/xapaga/home/angelamerkelharvard2019cont

スコットランド自治政府に初の女性首相(the first female First Minister in Scottish parliamentary history)

ニコラ・スタージョン(Nicola Sturgeon, b.1970; 自治政府首相在任2014-; グラーズゴウ大学卒)

https://en.wikipedia.org/wiki/Nicola_Sturgeon

https://ja.wikipedia.org/wiki/ニコラ・スタージョン

1999年5月17日(月)に新たに設けられた役職であるスコットランド自治政府首相(英語 First Minister of Scotland; スコッツ英語 Heid Meinister o Scotland; スコットランド・ゲール語 Prìomh Mhinistear na h-Alba)にスタージョン女史が2014年11月20日(木)に就任。同自治政府5人目の首相だが、女性首相としては今のところ最初で最後。

スコットランド(Scotland)が連合王国(UK: United Kingdom)から分離独立すべく政治運動を続けるスコットランド民族党(Scottish Nationalist Party; 通称 SNP)の党首に就任したのが2014年11月14日(金)のことだが、これは同自治政府4人目の首相サモンド(Alex Salmond, b.1954; 自治政府首相在任2007-14)氏が同年(2014年)9月18日(木)に実施されたスコットランド独立の是非を問う住民投票(Scottish Independence Referendum, 2014)で独立派が44.7%対55.3%で敗北した責任を取って同年(2014年)11月14日(金)にまずSNP党首を辞任したことを受け、党内無選挙で同日(2014年11月14日(金))にスタージョン女史がまず同党(SNP)党首に就任した。上記のサモンド氏は続いて五日後の同年(2014年)11月19日(水)に自治政府首相を辞任したため、スコットランド議会で多数派を形成する同党(SNP)議員たちの有効投票によって同党(SNP)の新党首であるスタージョン女史が首相に選出され、同年(2014年)11月20日(木)に就任した。

スタージョン女史自身もスコットランド独立を強く推進しようとする一方で、欧州連合(EU: European Union)にはスコットランドだけでも残留したい考えを持っていて、上記のメイ(Theresa May, b.1956; 首相在任2016-19)英首相とは事あるごとに対立していた。

スタージョン女史が政界に入ったきっかけは上記のサッチャー(Margaret Thatcher, or Baroness Thatcher, 1925-2013; 首相在任1979-90)内閣の悪政によりスコットランドに失業者が溢(あふ)れかえるのを多感な思春期に目()の当たりにし、トゥリィの奴ら(the Tories: 保守党の別称にして蔑称)に政治を任せていたのではダメだという思いでSNPに接近したのだと語っている。

2019年12月12日(木)に実施された議会下院(the Lower House of Parliament)=庶民院(the House of Commons)総選挙(General Election 2019)の結果、イングランド&ウェールズではボリス・ジョンソン(Boris Johnson, b.1964; オクスフオッド大学ベァリオル学寮卒; 首相在任2019-)内閣総理大臣=55歳が率いる与党保守党(Conservative Party; 別称・蔑称 Tories)が大方の予想に反して圧勝し、議会での安定多数(a working majority)を確保した。ところがスコットランドではスタージョンSNP党首・スコットランド自治政府首相=49歳が率いるスコットランド民族党(SNP)が大躍進した。スタージョン女史はテレビカメラの前でジョンソン首相のことを(スコットランドでは)負けた党のリーダー(the leader of the defeated party)とまで決めつけて挑発した。今やこのSNPという党は、スコットランドの連合王国(UK: United Kingdom)からの分離独立のみならず、欧州連合(EU: European Union)への新規加盟をも目指している。二度目のスコットランド住民投票(Scottish Independence Referendum)を2020年にも実施することをジョンソン首相に要求すると公言している。しかしながら、ジョンソン首相は二度目の住民投票を認める積りは無いと明言しているし、現に2020年中は新型コロナウイルス(new coronavirus; novel coronavirus; WHO国際名称 Covid-19)感染拡大もあり、住民投票は実施されなかった。また、北アイルランドでは連合王国からの分離と南のアイルランド共和国との統合(United Ireland)を目指すシン・フェイン(Sinn Féin; 略称 SF: アイルランド・ゲール語で「我ら自身」の意)が大躍進していることも悩みの種である。この勢いで行くと2025年頃には連合王国(UK: United Kingdom)という国体(national polity)は消滅し、イングランド&ウェールズ王国(Kingdom of England and Wales)という小国に転落する可能性すら見えてきている。

私生活では2010年に満39歳で七年越しの交際が実って当時45歳のマレル(Peter Murrell, b.1964?)氏と結婚した。同氏は現在SNP総務部長(SNP chief executive)という役職に就いているため、党内で妻の部下ということになる。夫婦別姓を推進していることもあり、マレル夫人(Mrs Murrell)を名乗らず、一貫して独身時代の苗字スタージョン(Sturgeon)を使って政治活動している。首相就任後の2016年になって五年前の2011年の流産(miscarriage)について英国放送協会(BBC: British Broadcasting Corporation)のラジオ番組「女性の時間」(Woman’s Hour)の中で初めて打ち明けた。そのため今でも子無しである。

【参考記事】

スコットランドの独立が決まれば何が起こる?

英国の国力低下だけでは済まない世界への影響

ダイヤモンドオンライン

田中均(たなか ひとし, b.1947)日本総合研究所国際戦略研究所理事長

2014年9月17日(水)

https://diamond.jp/articles/-/59087

https://diamond.jp/articles/-/59087?page=2

https://diamond.jp/articles/-/59087?page=3

https://diamond.jp/articles/-/59087?page=4

https://diamond.jp/articles/-/59087?page=5

小見出し1: 予想に反した世論調査での拮抗 スコットランド独立の問題点は何か

小見出し2: 英国の政治経済的影響力が低下 ポンドの大幅下落は不可避

小見出し3: ポンド使用、北海油田、EU加盟 英国と協議すべき課題は山積

小見出し4: 理性的な国益判断と国民感情のかい離 独立機運が他地域に広がる可能性も

小見出し5: 米国のイスラム国空爆にも世論の高まりが 合理的な国益判断を可能とする体制強化を

英スコットランド、独立問う住民投票の法案提出へ EU離脱に反発

フランス通信社(AFP: Agence France-Presse)日本語版

2016年10月14日(金) 11:48

発信地:グラスゴー/英国

https://www.afpbb.com/articles/-/3104361/18384736

(詳細は記事本文へ)

メイ首相らが美脚バトル? 英紙「レッグジッド」記事に批判殺到

フランス通信社(AFP: Agence France-Presse)日本語版

2017年3月29日(水) 6:55

発信地:ロンドン/英国

https://www.afpbb.com/articles/-/3123091/18860657

(詳細は記事本文へ)

世界初! 英スコットランドで生理用品の無料提供を義務化

フランス通信社(AFP: Agence France-Presse)日本語版

2020年11月25日(水)

https://www.afpbb.com/articles/-/3317751

https://news.yahoo.co.jp/articles/37d04b98b56d91e43b5f213006fcb2df9355f178

https://news.yahoo.co.jp/articles/37d04b98b56d91e43b5f213006fcb2df9355f178/comments

スコットランドが世界初「生理用品を無料化」、全学校で配布

フォーブズ日本版(Forbes Japan)

エラーナ・リン・グロス(Elana Lyn Gross)記者署名記事

2020年11月25日(水)

https://forbesjapan.com/articles/detail/38372

https://news.yahoo.co.jp/articles/3240da0d0348ca9620e7b17140369867aa3c2613

https://news.yahoo.co.jp/articles/3240da0d0348ca9620e7b17140369867aa3c2613/comments

スコットランド、全土で生理用品を無料提供 世界初の法案可決

CNN(Cable News Network)日本語版

2020年11月25日(水)

https://www.cnn.co.jp/world/35162894.html

https://news.yahoo.co.jp/articles/038fbf07eb182205c129e578489918b528aadcdf

https://news.yahoo.co.jp/articles/038fbf07eb182205c129e578489918b528aadcdf/comments

スコットランド、生理用品を無料で提供へ。「生理の貧困」をなくすための画期的な法律

ハフポスト(HuffPost)日本語版

生田綾(いくた あや)記者署名記事

2020年11月25日(水)

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5fbdaae7c5b61d04bfa50d36

https://news.yahoo.co.jp/articles/980d36f932bde293831481b1e5905b6c2bfa6a75

https://news.yahoo.co.jp/articles/980d36f932bde293831481b1e5905b6c2bfa6a75/comments

世界初! スコットランド、学校を含む公共施設で生理用品を無料提供へ

ビジネスインサイダー日本版(Business Insider Japan)

ヘイヴン・オレッキオ=エグレジッツ(Haven Orecchio-Egresitz)記者署名記事

日本語訳: 山口佳美

2020年11月26日(木)

https://www.businessinsider.jp/post-224784

https://news.yahoo.co.jp/articles/be8cfde4d398692bbb1ed2d49ecbceaa83d5d7a7

https://news.yahoo.co.jp/articles/be8cfde4d398692bbb1ed2d49ecbceaa83d5d7a7/comments

「生理の貧困」撲滅へ…スコットランドで生理用品を無料提供する法案が成立

金銭的に余裕がない「生理の貧困」の撲滅に向けて――。

コスモポリタン(Cosmopolitan)日本版

2020年11月27日(金)

https://www.cosmopolitan.com/jp/trends/society/a34783817/scotland-period-products-free/

https://news.yahoo.co.jp/articles/796431acc3b4ff66788a8b12021a95203968aef2

https://news.yahoo.co.jp/articles/796431acc3b4ff66788a8b12021a95203968aef2/comments

イギリスで「連合王国」解体の危機が起こっていた。今後の火種として暗い影。

ヤフーニュース個人

欧州/EU研究者・執筆家・編集者 今井佐緒里(いまい さおり, 生年非公開)署名記事

2020年11月27日(金)

https://news.yahoo.co.jp/byline/saorii/20201127-00209577/

スコットランド首相、独立巡る住民投票が阻止されれば法的措置も

英ロイター通信(Reuters)日本語版

2020年11月30日(月)

https://jp.reuters.com/article/britain-scotland-idJPKBN28A17J

https://news.yahoo.co.jp/articles/fc233a094b41ca5515c86ddaefc70002697e3d0b

https://news.yahoo.co.jp/articles/fc233a094b41ca5515c86ddaefc70002697e3d0b/comments

スコットランドが世界で初めて「生理用品無償化」の法案可決。日本にも負担軽減求める声

ヤフーニュース個人

室橋祐貴(むろはし ゆうき, b.1988)日本若者協議会代表理事、Platnews編集長、Platn代表取締役

2020年12月12日(土)

https://news.yahoo.co.jp/byline/murohashiyuki/20201212-00212109/

古くて性差別なルールよ、さようなら!生理用品の付加価値税が廃止に

現代ビジネス

新連載「イギリスのSDGs事情ってどうなのさ?」

在英イラストレーター クラーク志織(Shiori Clark, 生年非公開)

2021年2月23日(火)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/80305

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/80305?page=2

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/80305?page=3

https://news.yahoo.co.jp/articles/e8e0f45290b3d396fe54575415d4548f67e608c0

https://news.yahoo.co.jp/articles/e8e0f45290b3d396fe54575415d4548f67e608c0/comments