いろは談義「陶芸の心」で話された内容全編です。
日 時は、2012年11月12日(月)に開催した邦楽いろは談義でのお話です。
テーマは、陶芸の心
講 師は、 佐々木求さん(無二窯主宰)
会 場は、 広島市まちづくり交流プラザ南館4階 C会議室 でした。
(小見出しは、編集部がつけました。)
1、焼き物を志した、その時代
私が焼き物を志したのは、昭和49年ぐらいで、第1次のオイルショックの頃です。
車の会社に勤めていたが、ちょうど高度成長の最中で公害がだんだん、
目立っようになっていたけれど、企業の対応もまだ鈍いという時代でした。
こないだ事故を起こした(福島)第一原発ですか、島根県にも第一原発ができたころに、
島根のほうの窯にお世話になったわけです。
最近あまり聞かなくなりましたが、民芸が盛んに言われていた時代がある。
大正から昭和にかけて白樺派という文芸運動がありましたが、その中に柳宋悦も加わっていた。
彼は木食仏(もくじきぶつ)という、江戸時代の木食上人というお坊さんが作った素朴な
荒っぽい削りの木彫の仏さんを、全国各地を行脚しながら集めている。
それを収集するため旅に出るうちに、いろんな工芸、手仕事に出会うわけです。
それで、これは放っておいたら無くなってしまうと切実な思いがあって、
民芸運動を起こすきっかけになったといわれています。
(柳宋悦は)いろんな本を書いていて、私も彼の本を読んで感動して民芸に傾倒していくわけです。
倉敷の民芸館を作った外村吉之介氏の紹介で、最初は、皆さんもご存知の益子の
濱田庄司氏の処で修行する予定だったが、最晩年だったので病気をされたりしていたので、
次に沖縄にでも行くかとなって金城次郎という人のところに行くことになったが、
結局、浜田庄司や河井寛次郎らの指導を受けて育った出西窯に、
お世話になることになった。5年間ほど。
そのあと、短期間宍道湖のそばの船木研児氏のところでお世話になった。
その次に江津。江津には大きな窯があって、作るものが巨大だったので大きな窯だった。
それが残っていた。そこで、下働きはなしにして月謝を払うから大物作りだけ教えて欲しいと頼んで、
山の中で廃屋のようなところに2ヶ月ほどいました。結局5年半ほど山陰にいた。
その後、西条へ帰って、それから自分で始めようとしてみると、
結局何も判っていないようで、苦労した。
焼き物はなかなか一言でいえない深いものがある。いまだに、わからないことばかりです。
何年になるか・・・。31歳で始めて、もう40年近い、38年くらいか。
2、仏教との出会い
31歳の4月に山陰へいって、その夏に山本空外(くうがい)というお坊さんに出会う。
彼は26歳のとき広島文理大学ができて、広島の出身なので強く請われて
若くして助教授に迎えられて、2年半ほど文部省の在外研究員としてヨーロッパに行く。
最初にドイツのフライブルグ大学に行かれる。
ご存知のハイデッガーがまだ現役で教授をしていた大学で、彼の講義も受けたそうです。
ハイデルベルグ大学、ケルン大学、そしてパリ大学。パリ大学が一番永かった。
ヨーロッパの名門大学の教授と対等に議論された。天才といわれたそうです。
帰国後、ギリシャ末期のプロティーノスの「一者」に関する論文を東大に提出し、
32歳で文学博士となり、33歳で教授になられました。
18歳で悟りを得られ、以来念仏の生活を行じ続けておられました。
専門は西洋哲学ですが・・・。
「悟り」という言葉がありますが、覚ったということで、
仏教は、悟った人の教え、あるいは悟った人になるための教えと言われていますね。
だから仏さんはどっかに決まったものがあって、それを拝むというんではない。
悟るというと、距離が遠い気がするかもしれませんが、何かが判る。
つまり、「生命の根源に生かされている」ということが判る。
「生きているのは自分お手柄ではない」ということが覚る。
漢字で書くと、覚者あるいは、仏陀。仏陀はサンスクリット語の音訳。
サンスクリット語で、覚った、ということです。
上人に出会って、自分の中でモヤモヤしていたものが、もやが晴れて、
求めるものが明確になった。私の考えていたことが方向違いで無いとわかった。
当時、周りにそういう話をすると、おかしいんじゃないかという反応しかなかった。
佐々木君は詩人だねと言われたりして、現実離れしたことを言っているという意味だった。
3、焼き物について基本を
焼き物の話をしますが、
まったくの素人から入ったから、最初は粘土を練る、薪を運ぶ、昼間は肉体労働をしながら、
夜、先輩のロクロを借りて、少しずつ練習をする。昼間、ちらちら見ながら、
先輩弟子をみて練習する。そういう日々でした。
焼き物のと言われるものは、土器、陶器、磁器に分かれる。
違いがわかりますか?
土器は、縄文式とか弥生式で、600度から700度の低い温度で焼く。焚き火をしてその中で焼いた。
縄文人が焼き物を意識的にしようと気づいた日常的な作業は何か?
火を焚くことです。暖を取ったり料理をしたりする。焚き火をしたら、土が固まる。
地面が焼けて赤黒くなって硬くなる、固まることが判ったようです。
普通に、乾いて固まった場合は、カチカチになっていても水に溶かすとザ~と溶ける。
200度くらいの熱を加えたら、粘土には戻らなくなる。
これは、乾燥では飛ばない結晶水が、700度から800度くらいの温度まで飛び続けるからなのです。
焼き物で、普通に乾燥させて素焼きをするのが、800度くらい。
土器はそれより温度が低い。その証拠は、すすが残っている。黒っぽいところがある。
素焼きをするとき、200度くらいで中を見ると、真っ黒です。煤だらけ。
それが温度が上がって、800度くらいになると煤も完全に燃えて、なくなります。
多孔質の吸水性のあるものになる。少し叩いても壊れないくらい固くなる。
本焼きは1250度~1300度くらいですから、それに比べるとまだもろいんですけど。
吸湿性を利用して、適切に溶いた釉薬(うわぐすり)の中にザブンとつける。
一瞬であげる。適切な濃度に溶いてあるから、さっと浸けたら、すぐにあげる。
厚くかかると所定の色が出なかったり、溶けて流れるわけですから、器の表面に流れて、
窯の棚板にくっついたら、釉薬と棚板の表面のアルミナが融け合ったものが固まると
ダイヤモンドの固さになる。取れなくなる。
打撃を加えて取るが、傷になる。そういうことがちょくちょく起こるので、そうならないように。
4、陶器と磁器、その原料
陶器と磁器の違いは、原料がそれぞれ土と石の粉。石粉に粘土を混ぜたものもある。
磁器はガラスと同じ、割れ方も直線的に割れるし、水も通しません。
薄くしたら光を通します。が、陶器は、表面だけはガラス質だが、中は土で、多孔質。
穴が開いている。釉薬の表面にも貫入といって、土の収縮率と釉薬の収縮率が違うので、
ひびが入る。窯出しに立ち会うと、ピーン、ピーンという綺麗な音がする。
それは、ひびが入いている。普通に入るんです。それが焼き物の特徴です。
貫入(かんにゅう)と言います。
釉薬により、貫入が目立つものと比較的目立たないものがある。
だから、陶器は水漏れが当たり前。極端な言い方ですが。
陶器は、土の荒さとか釉薬にもよるが、花器とか酒器とか、
長いこと液体を入れておくものは、水が透くことがある。
だから、昔は米のとぎ汁や、お粥で防水していたが、いまは防水剤があります。
陶器と磁器の違いを見分けようと思ったら、焼き物の高台の裏側を見ると判ります。
ここは釉薬を掛けていないから、素地が出ているからわかる。磁器は細かい乳白色をしていて、
陶器はやっぱり粘土の荒さ細かさによりますがザラットしている感じがします。
工芸一般で言えることだが、染織、染めたり織ったりする工芸ですが、
その原料が木綿と絹と麻では出来上がったものの質感が全く違う。
焼き物もおなじで、原料の土、どういう土を使うかで、焼きあがった感じはずいぶん違う。
ひとつは見た目ですが、赤い土と、白い土。赤い土は、鉄分が多い。
鉄分が多いと、同じ釉薬を掛けても色が違う。
鉄分は溶融温度が低いから、鉄分が多いと火に弱い。
溶岩のように窯の中で溶けてしまいます。鉄分が少ないほど耐火性がある。
耐火性があるということは、温度をある程度上げても焼きしまりにくいという欠点もある。
それからもうひとつは、粗いか細かいか。原料によって出来上がりが違う。
土を選んでから、制作ということになる。
5、作りかた 簡単なひねり
「ひねり」が一番簡単な作り方。ほとんど道具を使わずに、筒状に伸ばしていく。
それから、表面を削っていく。
それから、「ひも造り」は簡単に言えば粘土を紐状にしたものを積み重ねていく。
教室で教えるのはこれが多い。小さいものから大きいものまで作るのには適した作り方です。
それから、「型起こし」。手軽には料理で使うボールの外側の形を使って、
同じカーブのお皿を複数枚作ることができる。
それから、「水引き」は、ロクロ(電動、蹴りなど)の回転を利用して、
粘土をひとつの塊から伸ばして作ります。
このようにいろんな作り方があります。
削り、乾燥、素焼き、施釉
形ができたら、普通ロクロの上で、少し半乾きのときにひっくり返して、
余分な土を削り取って高台をつくる。
それから、ハンドルをつけるんであれば削った後、取っ手をつけてやる。
これで一応かたちは仕上がる。ゆっくり乾燥させる。急に乾かすと変形したり割れたりする。
焼き物は、ずっと目を離しちゃあいけん、と昔からいわれる。
子どもを育てるみたいに、ついとかんといけんという言い方をする。
乾燥して7割方乾いたら、天気の良い日に日にあてて、すっかり乾いたら素焼きをする。
芯に水分が残ったまま素焼きをすると、たいがい割れたりする。
素焼きは大体800度くらい。
英語で言えばビスケット。ビスケットみたいな色になっている。それから釉薬を掛ける。
いろんな種類の釉薬がある。服を着飾ったり、化粧したりという感じです。
それによって出来上がりの印象はまるで違ってくる。
6.いよいよ、本焼き 穴窯の魅力
それで、本焼きになる。
最近はガス窯、灯油窯、電気窯、が主流ですけれども、昔は、薪だけが燃料だった。
薪で焼く窯はだいたいご存知の登り窯。江戸時代初期に朝鮮半島から渡って来た様式。
量産できる窯で、この前のもっと古い窯は穴窯という。
縄文土器、弥生土器、その次に土師器が歴史上に現れる。
まもなく朝鮮から新しい技術が、奈良時代にロクロとか穴窯様式が伝わってきて、
それで焼かれた土器が須恵器とよばれ優れているから、土師器は短命で終わる。
山の斜面に穴を掘って焼いた。地下式です。
これが半地下式になり、地上式になり、後には煙突もつけてとなっていく。
煙突をつけることで、火の廻りが良くなる。
今度、西条に来たとき、小さい窯ですが見てもらったらわかる。
わたしの場合、その穴窯を90時間ぐらい、4日か5日かけて焼く。
最初の3日間ぐらいは、朝、火をつけて夜の11時くらいまで焚いて、
あと大きな切り株を入れておいて、朝になったら灰になっている。
温度は下がっていても、だんだん地面とかレンガとか壁は蓄熱をしてきているので、
2日目には少し高い温度からスタートする。
それを繰り返して、最後は徹夜で焚いて、翌日の昼ぐらいに終わればいい感じ。
そのぐらいの時間を焚く。大体、温度では1220度くらいになれば良い焼きができる。
が、たとえば、12時間ぐらい焚いても50度上がらなかったりする。
上がったり下がったりする、そういう時に心身ともに消耗する。
もう途中でやめようかと思ったりする。何とか最後までたどり着く。
それでも、全部がうまく焼けるわけではない。
しかし、ガス窯や灯油窯では焼けない焼け味が出る。
薪の灰がかかって、粘土の長石と溶け合って器の表面に釉ができる。
自然柚。これが、日本では釉薬の発見につながったといわれている。
穴窯の全盛期が安土桃山時代といわれている。陶芸の歴史の中で、安土桃山はピーク。
六古窯といって、起源が古く現代まで焼き物の産地として続いている窯場で、
備前、丹波、信楽、瀬戸、常滑、越前、です。
古備前とか「古」が付く江戸時代以前に焼かれたものは、焼きが味わい深いものが多い。
やっぱり現代人には作れないかもしれない。
現代は科学的に説明することが求められる。
さっきの仏教の話にしても同じ。昔はお伽噺で通じていたのが今は通じない。
仏さんが長い間修行してくれたおかげで、死んだら極楽へ行くんで
というようなことを言われても、ほんまかいな、胡散臭いの、と思う。
だから宗教離れ。無宗教が増えてきている、と思う。
仏教は最も深い宗教です。誤解を解いて、素晴らしい遺産を分かち合いたいものです。
7、仏教の縁起思想
大乗仏教、小乗仏教。大乗とあるのは、お釈迦さんがなくなった60年後に
紀元前3世紀半ば、ローマ帝国のアレキサンダー大王がインドの北部に攻めてくる。
で、ギリシャ人がインドに来て、仏教徒になる。最初に仏像を作ったもんだから、
仏像がギリシャ人の顔をしている。このように、初期仏教はギリシャの文化の影響を受けて
大乗仏教として世界的宗教になっていく。
その後、仏像もインド人が作り、中国人が作り、日本人が作って、それぞれの国民の深さだとか
考え方を反映して顔も変わってくる。
ドイツの哲学者が、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)を見て、
深さに感動したといっている。ひとはその人のようなものしかできない。
字を書いても何かを創ってもその人の心が形になる。
そういう意味で、日本人の深さは素晴らしい。それは、自然本位の生き方をしてきたからだと思う。
自然の中で共生していくという、自然を生かしていく。
そういう考え方がまだまだ底流に流れていると思う。これが無くなってしまわないうちに、
再認識して深さをより深めていけば良いのだけれども…。
お釈迦さんが悟られたのは、何を悟ったかというと・・・、「縁起」思想。
西洋思想は原因と結果という、直截的ですが。
たとえば、私がいま生きていることは無数の要因が重なって生じている、という考え方。
ですから、自分の手柄では一切ない。無自性(むじしょう)。自分の手柄ではない。
頭がいいのも、顔がいいのも自分の手柄ではない。これに徹すれば、
威張ることもなければ嫉むこともないし、ここに真の平等に生きられる契機がある。
西洋的な考えではなかなかそこにたどり着かないんだけれども、
お釈迦さんが辿りついた仏教で千年の歴史は、縁起思想の歴史だといわれている。
8、 真髄といわれる般若心経
最後に現れる縁起が、如来蔵縁起という。
これはインドでは、千年の仏教の歴史があってそこで終結するんですが、
それはヒンズー教が攻めてきて、仏教は闘わない宗教なので全部チベットへ寺院も経典も、
お坊さんも疎開するんです。インドから仏教は無くなる。
なくなるが、ガンジーのような仏教的な考え方は地下に脈々と流れていて、
無血で独立を勝ち取るような考え方が現代も続いている。
最近はすこし怪しくなっているところもあるかもしれないけれど。
如来蔵とはどういうことか、というと清浄心。
清らかな気持ちが、煩悩にまみれていても、心の底に隠れいてる。
普通、損じゃ得じゃ、ええじゃ悪いじゃと言っている時は、それに無理やり蓋をしている。
蓋をとれば、本来は如来の心が隠れているという考え方。
自性清浄心(じしょうせいじょうしん)と言っている。
それで、膨大なお経が作られていて、一番最初のお経は、阿含経。
パーリー語で、アガマパダ。アガマというのは、こういう風にいわれたという、
唯一お釈迦さんが直接説教されたのを、お弟子さんが記録したのが
最初のお経で阿含経。膨大な数のお経があるそうです。
それから、千年の歴史の中で華厳経(けごんきょう)とか、法華経とか。
奈良の東大寺は華厳経によるお寺で、華厳宗です。
奈良の大仏の蓮華の中に一つひとつに仏様が彫ってある。
これは、すべての人が救われるという大乗仏教の考え方。
大きく乗というのはすべての人が救われる。一貫してそういう考え方が仏教にある。
紀元前後に大般若経というお経ができ、
この心臓部分だけを取り出したのが般若心経という有名なお経です。
一番短いけれども、仏教の真髄をこれしかないと言うところを表しているんだそうです。
で、山本空外上人によれば、世界中の文献が全て失われたとしても、
この般若心経が残っていれば、人類に望みがつながると。
そのぐらい、素晴らしいお経なんだそうです。
9、般若心経を読む
お経を、もうすこし説明して終わりますが、般若心経の最初の出だしをご存知です?
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空度一切苦厄」
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくうどいっさいくやく)
(「度一切苦厄」は元のサンスクリットの般若心経にはない。)
ここまでが一区切り。
「観自在菩薩」、は観ることにおいて、自在な菩薩。
「菩薩」は、ボディヒサツトゥーバの原語の音写で、縮めただけ。
菩薩は修行している人、「般若波羅蜜多」とは深い知恵で彼岸に到る、
外側の損得に心を奪われたりせずに生命に感謝して生きる、
これがいわば彼岸に到る--さとるということと。
深い般若波羅蜜多を行じている時、五蘊がみな空だということがわかった。
「照見(しょうけん)」すると言うのは、明らかになったということです。
「五蘊(ごうん)」とはどういうことか。その次に出てくる。
蘊は範疇を表すから、五種類といってもいいが、
「色受想行識」人間の知情意のすべてが空(くう)だとわかった。
では、空とは、どういう意味か? これが、さっき言った無自性(むにしょう)とつながる。
判りやすく言ったら、「おかげさま」ということです。手だって口だって自分が作ったものではない。
一億円出しても取り替えることはできない。それがいろんな縁起、もっと初めから言えば
地球が太陽から適当な素晴らしい位置にあったところから、生命が誕生したところまで遡って行ける。
そういう考えに立つという考えが仏教の根本にある。
そうしたら、対立することも無い、無自性ということが深くわかれば、
自分の手柄でないとわかれば、嫉むことも少なくなり、威張ることも少なくなる。
10、色即是空空即是色
もうすこし後に有名な、「色即是空空即是色」(しきそくぜくう くうそくぜしき)というのがある。
これはこの前に、今の流布している漢訳の般若心経にはない、サンスクリット語の原本が
法隆寺に、世界にひとつ残っていて、それを見るとこの前に、
「色空空色」とあって、
「色空空異空空異色 色即是空空即是色」
と、いうふうに、色と空が三段階に述べているんだそうです。
だから、ずばり仏教とは何かと聞かれたら、
色は空なり、空は色なりと言いなさい。
と、(空外上人は)言っとられましたけれど。
では、それはどういうことかというと、「色」は、今は科学の世界で計算ができる世界。
目で見える世界。英語で言うと「form」、形と言ってもいい。表面に出る形。
これ(板書した「空」を指して)は、それを支えているお蔭、目に見えない部分。
恵まれている命であったり、地球であったり、自然の摂理であったりと言う意味。
では、空は色なりとはどういうことかというと、そういうお蔭があってこそ、
目に見えない命の元があってこそ、科学の世界、計算の世界が成り立っている。
いまは科学が進歩して素晴らしいんだけれども、わかっていることはほんの一部、
0.001%かもしれない。わからないことは一杯ある。
それを早とちりして金儲けのために使ったりしようとすると、ああいう事故が起こる。
取り返しの付かない(福島の原発)事故が起こるわけじゃないですか。
だから、ドイツはそういう倫理的な理由で原発をやめようとした。
日本は原爆を落とされた国なのに、何をもたもたしているんでしょうね。
ほんとに政治的な決断をすれば不可能ではないと思うんですが、
いろんなしがらみで政治が動いていない、と思ったりするんです。
11、南無阿弥陀仏とは?
もうひとついいたいのは、特に西洋では仏教の研究が進んでいて、
経典成立史という学問があるそうです。
日本の今の仏教は宗派仏教といいまして、ある時代に中国で盛んに行われていた宗派を
勉強して輸入して持って帰った。ほとんど輸入仏教ですね。
禅宗の公案にしても中国でやっていたそのままをやっている。
まあ、法然と親鸞だけが行っていない。行かずに、すべての経典を24年間、心読して、
すべてをまとめて浄土宗を開くと、法然はいっている。
でも今は、一宗派としか考えられていない。もとは、そういう意味合いで浄土宗を開いている。
すべての宗をまとめて、念仏の宗派を開くと。
その念仏がまた問題ですよね。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。呪文みたいにお坊さんが言う。
たとえで言うと、最初お釈迦さんが説かれた縁起が根に当たるとすれば、
般若経が幹であり、華厳経とか法華経の花が咲いた。
そして実がなって、実がなっただけでは誰もが採られない。熟して地上に落ちてくれないと。
地上に落ちた音がインド仏教千年の歴史の中で、最後頃にできた「観無量寿経」の中に、
初めて、南無阿弥陀仏という言葉として結晶するのですね。
では、南無阿弥陀仏はどういう意味や? 知らないね、みんな。
これもサンスクリット語の音訳で、サンスクリット語はインドヨーロッパ語族に属する言語です。
漢字には全く意味は無い。南無は、南無妙法蓮華経、南無八幡大菩薩。
南無、ナマスといって、帰依する、と言う意味だそうです。頭を下げる、敬意を表す。
インドのあいさつで、ナマステと言う。テはあなたと言う意味ですから、
あなたに頭を下げます、というのが挨拶。
「阿」というのは、無。まあ否定する。「弥陀」は、計量をすると言う意味。
「阿弥陀」で計量を越える。計算を超える。「無量寿」とも訳せます。
計り知れない尊い生命の根源に頭を下げるという素晴らしい言葉で世界は他に無いそうです。
空外上人は、英語、ドイツ語、フランス語、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語、梵語、パーリ語等
漢籍にも精通し、ほとんど重要な書物は読んだつもりだと言われますが、
こんな言葉はほかに無いと、言っとられましたね。
だから、これが磨耗して今は垢がついて、呪文みたいに履き捨てられそうになっている。
けれども、これを再認識して蘇えらせたいものだ、と言ってられましたね。
だから、宇宙の命をひとことで呼吸することだと言っても良いですね。
「南無阿弥陀仏」は。
「仏」と言うのは、それがわかったとか、覚らされた。
仏陀の仏ですから、「おかげさん」ということが、「空」ということがわかった。
般若心経にまともにぶつかるとなかなか難しいけれど、
般若心経を一言に絞れば、これになると言っておられましたね。
インドの千年の歴史の最後のお経にこれが出てくるのが素晴らしいですよね。
12、山本空外上人
ということであります。なにか煙に巻いたような感じですが・・・。
でも垢まみれで、捨てられたそうな言葉が、実はすごい宝だったという話ではありますよ。
最初に私もこれを聞いたときは、非常に感動して、
この人(山本空外)の話は百回ぐらい聞いたのですが、それでこの程度で・・・・。
すこしは伝わったかなと思います。私も修行中の身でして。
毎日、寝るときは一日の反省をして、南無阿弥陀仏をして寝る。
そうすると翌朝もたぶん元気で起きれるだろうなと。
山本空外上人のことをもう少し。
わたしがはじめて空外上人の本を買ったのが「念仏の哲学」という本です。
彼は一回大学を辞めるんです。40歳の働き盛りのときに学徒動員の隊長をしていたそうで、
今の高校生や大学生の何千人もまとめる隊長をやっとられる。
で、原爆に会われるんですね。しかし、九死に一生をえて、
目の前で何とか教授の妻ですといわれても、誰か判らん、顔もわからん。
沢山命をなくされたのを見て、自分も被爆して、もう現実の世界に帰ることはできなかったそうです。
その年、知恩院で得度して坊さんになったそうです。
それまでは、念仏はしていたが坊さんになる気はなかったそうです。
知恩院の管長とも、学者として知古の仲だったので、知恩院に来てくれと、
言われたのを断って、山陰の荒れ寺に入られた。
で、その近くの窯に私が行きましたから、私が会うわけです。どんな方か全く知らなかった。
最初あったとき、禅問答のように問題意識じゃのうといわれた。
会社を辞めて、ここへきたのはそういう問題意識じゃのう、といわれた訳です。
私の噂を、空外上人もどこかから聞いとられたかもしれないでしょうね。
空外上人が現役のころの倫理学研究室の書籍は世界的に有名だったそうです。
蔵書のラインナップが。同じ予算で買うのだが、言葉も全部わかるし、理解も深かったから、
同じ予算でもそれのかけようでずいぶん違うという話です。素晴らしい本が揃えてあったそうです。
大学を辞めて、山陰の無住の木次のほうの寺ですが、当時、貨物列車が2台ほど来たそうです。
書籍だけで、全部原書で、ラテン語だったり、ギリシャ語だったり。
いま空外記念館ができてそこに収められている。毎年10月に虫干しを兼ねて一般公開している。
蔵書もすばらしいが、書が素晴らしい。空外上人が板書される字をつい真似たくて書く。
素晴らしい字でした。墨蹟も沢山残っている。
広島の百メートル道路沿いに妙慶院という、ビルの中のお寺で、昭和35、6年ごろから、
月一回空外さんの法話があって300数回法話があったそうです。
中断してそれっきりになり。亡くなられたのは、7、8年前。100歳まで生きられました。
彼の大きさを全部紹介することはとてもできないですが。
ノーベル賞級の数学者の岡潔は「本者中の本者」と言い、湯川秀樹は彼の弟子になった。
自分では、あの人の弟子の端くれのつもりですが、坊さんにはなっていないから弟子と
いえるかどうか。彼の話を聴いて、何とか自分らしい生き方ができたと思います。
レーガン大統領が日本に来たとき、中曽根さんと仲良く最大級の国賓なので
土産を何をしようかとしたら、山本空外の書をくれとと言われたそうです。
中曽根さんは知らなかったらしいが、調べて渡したそうです。
書をするときは、念仏しながら、常に念仏をしながら書いておられました。
(陶芸の心 完)