「君はこの世界でいつまでも、ひとりぼっちで生きていくつもりなの? いないかもしれない神に祈りながら、ひとりで」
いないかもしれない、神……。
私の心は、神さまのことを言われるとひどく痛みました。
「もう今までの役割に縛られなくていいんだよ。この世界は俺が変えたんだから。俺に触れた人々は、ただの村人たちだってみんな変わっている。今まで行けなかった場所へ行き、会ったことのない人々と出会い、人生を変えていってるよ」
勇者様の指先は、私の黒いベールを今にも脱がしそうでした。冷たい石壁に手をついてもたれながら、勇者様は上半身をかがめて、背の低い私に語りかけます。
「別に俺と連れ添わなくてもいいんだよ。君の初めての男になれれば。思い出になれれば、それでいい。こんな機会、もう二度と来ないかもしれないよ。修道女に手を出すなんて、この世界の気弱な住人たちじゃまず無理だろうからね」
別に変わらなくたっていい。私は一生、このままでいいのに……。
私は下を向いたまま、ぽろぽろ涙をこぼしました。石壁にもたれ、私を閉じ込める勇者様の腕をなんとかくぐり抜けて、聖堂の方へとぼとぼ歩きながら、両手で交互に、涙をぬぐいます。
「君がどれだけ神を愛しても、神は応えてはくれない」
勇者様の声は、私の絶望的な運命を予言するかのようでした。
「かりそめにも君を愛せるのは、この世界で俺しかいない。今にわかる」
私は重いアーチ型のドアをなんとか押し開けると、薄暗い聖堂に身を滑りこませ、力なくその場にしゃがみこみました。
「マリア、そこにいたのですか」
神父さまはそんな私に気づいて駆け寄って下さると、
「顔色が悪いですね。奥で休みましょうか」
私の手をとって、ゆっくり歩いて下さいました。
◇◇◇
私は聖堂の二階にある神父さまのお部屋の寝台に腰掛け、休ませてもらいました。神父さまが私のために、温かいお茶を淹れて下さいます。
「先ほど村から戻ったのですが」
神父さまは、私がすこし落ち着きを取り戻したのを確認しながら、ゆっくり話されました。
「結論から言うと、あの者の言うことは正しかったようです。あの者はたしかに勇者で、この世界を救ったともっぱらの噂です」
私はやっぱりと思いながら、暗い気持ちでうなずきました。あの方は私の心を読んでいると思います。やっぱりなにか、特殊な力をお持ちのようです。
「あの者は、村の皆からの評判はとても良いようです。そして、すこし言いづらいのですが……」
神父さまはしばし言いよどんだ後、
「マリアは孤児で、村の誰もが養えず仕方なく修道女にさせたのだから、勇者さまがもらって下さるなら願ってもない話ではないか、と言っていました」
私はお茶を飲む手を止めて、カップの中に浮かぶ自分をしばらく見つめていました。自分が孤児であるということも、私には知らなかったことでした。物心ついたときには神父さまと共に、祈りの生活を送っていたからです。私はこの生活が自分にあっていて、幸せだと思っていました。でも村の人々は、私の祈りを必要とはしていないようだと私は悟りました。
「あの者が君とのことを民に触れ回っているようで、皆もすっかりその気になっていてね。私に祝いの品を持たそうとする気の早い村人もいたほどだ。マリア、君は……。あの若者のことは、嫌いかい?」
神父さまがゆっくり、噛んで含めるようにおっしゃるので、私は困って、しょんぼりしてしまいました。村の皆も歓迎するようなことを、どうして私一人の意志で拒否できるでしょう。
「これが、運命なのでしょうか」
王女様と結婚なさるとおっしゃる方が私などに手を出して、本当にいいのでしょうか。私は神さまを裏切るばかりか、王様の怒りもかって、処刑されてしまうのでしょうか。
「君の不安ももっともだ。ただあの者は世界中に愛人を持っており、それを咎め立てられることも無いらしい。まさに英雄色を好む、ということのようだ」
「私が言うことを聞かなければ、教会やこの村も危ないのでしょうか」
私は一番気になっていたことを神父さまにお尋ねしました。恐ろしい魔物の封印が解かれたら。世界はまた、混乱に陥ってしまうのでしょうか。
「わからない。そこまで非道でなはないと信じたいが……」
私は神父さまのお返事をききながら、急に気が遠くなるように思いました。昨夜からほとんど眠れず、まぶたが鉛のように重く感じます。
「とりあえず、すこし休みなさい」
神父さまがそうおっしゃって下さるので、私はお茶のカップを小さなテーブルに置いて、靴を脱ぎ、寝台に横になりました。自分の居室で休むべきでしたのに。私はあまりにも眠くて、何も考えられないのでした。