「玉鬘さんの話はきいた?」
「ええ、俺の姉らしいですね」
柏木くんはその人が居るであろう西の対を眺めながら言った。
「悪いね、光《ひかる》が変なことに巻き込んで」
「お嬢さんが少ないので、婿がほしかったんだろうと思いました」
柏木くんは優しい人なのか、怒ってはいなかった。
「父が言うには、息子が立派に育つことと良い婿を得る喜びは全く別物らしいです」
内大臣さんの婿ということは雲居雁さんの相手だよな。俺はつい夕霧くんを見てしまったが、彼は寝返りをうったのか背中しか見えず、その表情はわからなかった。
「姉のことを父に言おうか迷っているんですが、知ったとしても太政大臣の許しを得ずに取り返すことは難しいと思います」
「そんなに強いんだ、光って」
柏木くんが無言でうなずくので、内大臣と太政大臣の力の差を俺は思い知った。俺は官位を争う相手として光と対峙したことはないからなあ。昔から光の仕事ぶりは迅速正確で隙がないし、何より光には皆を圧倒するカリスマ性がある。政治家としての光は思った以上に容赦ないのかもしれない。
「ここにいたのかお前ら」
そのとき御簾を上げてスッと入ってきたのは蛍だった。
「俺も寝かせてー」
彼は夕霧くんの隣にドカッと座るともう大の字に寝転んでいる。この宴ハードだよな。光の企みを阻止するために集まったつもりだが、すでに負けそうな気がする。
「蛍さん、筋書き通りにやったんすか」
「もう面倒臭いから省いた」
起きてしまった夕霧くんが尋ねると、蛍は投げやり気味に言った。
「光の顔見てるとムカつくんだよなー。ぎゃふんと言わせてやりてえけど、どーしたらいいもんか……」
そう言いながら、蛍は気を失うようにもう眠り込んでいる。
「夕霧くんおはよう」
「おざす」
夕霧くんは起きた瞬間から機嫌が悪そうで、眉根を寄せて俺を見た。このキツい目、好きだなあ。
「あいつの悪事を京じゅうにバラしてやる」
燃えるような瞳でそう言うのだけれど
「そんなことしたら姉さんのほうが恥かくよ」
柏木くんが冷静に止めてくれた。
「あの方のなさることを止められる人間は、この京にはいない」
「クソッ」
柏木くんの言葉に夕霧くんは歯噛みをして悔しがった。
「彼女は光と結婚したいとは思ってないのかな」
「もう婿を募ってしまってるので。この状況で親・と結ばれたら、周りが姉さんのこと何て噂するか」
「そっか……」
思った以上に難しい問題らしいと俺は悟った。よくこんな複雑怪奇なことをするなあ。亡き恋人の娘だから手は出せない、ということだろうか。それにしては皆、光が真面目に後見することを疑っているようだし。
「つらいだろうね、玉鬘さんは」
俺はため息をついて彼女に同情した。どうしたらいいんだ……? 白馬に乗った王子が現れて、囚われの姫を颯爽とさらっていったらいいのか。さらうと言ったって取り次いでもらえないと会えないのだから内通者がいなければ難しい。ここは光の邸だから女房たちだって光の味方で、光の許可しない男とは取り次がないだろう。手の打ちようがなかった。
「柏木、着替えてきたら」
「ああ」
夕霧くんがそう声をかけると柏木くんはうなずいて立ち上がった。今日は昼から何かあるって言ってたな。柏木くんは俺に頭を下げていったん自分の邸へ帰っていく。夕霧くんは下を向き後頭部の高い位置で髪をギュッと結い直すと俺を見た。
「昼から中宮様の御読経があります。秋の町へ」
「行って大丈夫かな? 俺中宮さまや女房たちとは面識あるから」
「そうか……」
夕霧くんはしばらく考えていたが
「すみませんが、終わるまで待っててもらえますか。送るので」
「はい」
俺がうなずくと準備に立った。中宮さまって前斎宮さんだもんな。伊勢への出立を見送ったときかなり間近で会ってしまっているので、さすがに彼女を騙すのは難しいだろう。中宮になられたお祝いを伝えたい気もするけれど、こんな姿じゃ驚かせるだろうし。彼女は冷泉さんに入内なさって本当に良かったと思う。
蛍はかなり直前までスヤスヤ寝ていたが、使いが衣装を持ってくると驚くほど素早く起きてサッと着替えた。
「じゃあねー」
そして俺に手をふると行ってしまう。俺は正座の足を崩すと玉鬘さんのことをじっと考えていた。柏木くんは姉だからダメ、夕霧くんは彼女の妹である雲居雁さんと結婚するかもしれないからダメ、蛍もおそらくその気がない、俺たちじゃ救えないか? どうしても髭黒さんを好きになれないなら冷泉さんしかないだろうな。誰かの妻になった後宮仕えするパターンも無くはなかった。それで帝の寵愛を受ける場合も。無くはないけど……。
この日の御読経は日暮れまでには終わって、正装した夕霧くんたちはとても凛々しい姿で帰ってきた。皆中宮さまから禄を賜ったようで、夕霧くんは女性の装束をもらっていた。
「俺は弟として近づくことができるので、様子を探ってみます」
帰りの車の中で夕霧くんは冷めた口調で言った。
「俺は柏木が救えればいいので。彼女の運命は変わらないかもしれません」
「そうだね」
俺も力なくうなずいて。髭黒さんのことが好みじゃないなら、気の毒だけれど結ばれるって運命は知らないほうが良いんだろうと思った。