玉鬘さんの出仕は十月の予定と冷泉さんは仰ったが、彼女は間一髪のところで髭黒大将さんと結ばれたようだった。髭黒さんはずっと内大臣さんに彼女との結婚を懇願していて、それが実を結んだようだ。このタイミングなのかと俺は思った。内大臣さんの娘としては先に弘徽殿女御が入内されているので、玉鬘さんを尚侍にするのは姉妹で帝の寵愛を競い合うことになり、親として抵抗があったのだろう。
「内大臣さんが辛抱強く玉ちゃんを説得して、しぶしぶだけど了承したようだよ。」
光《ひかる》が文でそう教えてくれたが複雑な気分だった。春宮の伯父だから結婚相手として有望なのは確かだが、髭黒大将さんには既に奥様がおられる。奥様とお子さんたちはどうするつもりだろう。
「彼女の出産は来年十一月です」
夕霧くんは予言の一部を俺に教えてくれた。そのことについて未来を知っている光、蛍、夕霧くん、冷泉さんで極秘会議が開かれるらしい。最近めったに御所に来ない光まで集うのは相当のことだろう。玉鬘さんは光だけでなく蛍や夕霧くんにも助けを求めていたよな。冷泉さんのお姿も目にしただろうし……。
「朱雀さんも来ますか」
わざわざこの話を俺に伝えに来てくれた夕霧くんは、真っ直ぐな瞳で尋ねた。
「ごめん、俺……怖くて」
俺は情けないけれど手が震えて。怖かった。来年十一月に出産ということは、今からしばらくの間彼女は確・実・に・妊・娠・し・な・い・。処女でなくなった玉鬘さんが誰と関係したかわからないだろうし、隠すすべはいくらでもあるだろう。玉鬘さんは髭黒さんと結ばれはしたが、まだ光の邸にいるようだった。尚侍として出仕はさせるのかもしれない。
俺は胸をギュッと掴まれたように苦しく、息ができなかった。一人の女性のもとへ複数の男が通うことは珍しくないのだろう。一夜の思い出を作ることもあるのかもしれない。既婚者と通じることも、あるのかな……。何が彼女の救いになるのか。俺は叶わぬ恋に涙したことも恋敵と争ったこともなくて。貴族なんかじゃない、ただの世間知らずだった。
「夕霧くん、あの」
俺は帰っていく夕霧くんを呼び止めた。夕霧くんは振り向いて、じっと俺を見つめてくれる。
「冷泉さんに」
俺は苦しい胸を押さえながら、絞り出すように言った。
「冷泉さんのこと頼むね。俺、冷泉さんにはあまり無理してほしくないんだ。なるべく自由に生きて、幸せになってほしい」
俺なんかが頼むのもおかしなことだが、言いたくて仕方なかった。冷泉さんはきっと自分が傷つく行為も人のためなら平気で行い、どんな痛みも感じないフリをする。いつも笑顔で何でもできて余裕綽々で。心配だった。いつ、誰に心の痛みを見せているのだろう。
「伝えます」
夕霧くんはつよい瞳でうなずくと礼をして去っていった。俺は仏間にこもると祈ることしかできなかった。また身体が奥底から冷えていくように感じる。玉鬘さんの願いが一つでも叶うと良いと思うけれど……それは彼女の夫を傷つけることになるのだろうか。俺はこれ以上誰も傷つかないでほしかった。
◇◇◇
冷たい知らせは雪とともに冬の京へ降り積もった。玉鬘さんを得て舞い上がった髭黒大将さんは古い奥様を完全に捨ててしまったらしい。元奥様についての悲しい噂は朱雀院にこもる俺の耳にも届いた。
「元の性格はお優しい方なのに、物の怪が悪さをして」
「香炉の灰を背中からかけたそうよ」
「三人もお子さんがいるのに、若い女に夢中になって」
髭黒さんの態度を見かねた父宮が元奥様を引き取ることになり、髭黒さんの邸で仕えていた女房たちが元奥様を不憫がって、噂はたちまち広がった。たしかに可哀想だった。別の女の所へ通う支度のために、夫の衣へ香《こう》を焚きしめる奥様の気持ちを思うと胸がつぶれそうだ。なんでそんな酷いことをさせるんだろう。新妻である玉鬘さんも悪く言われるし、誰も幸せにならない結婚だった。
「六條院の奥様が仕掛けたらしいわ」
光の奥様を悪く言う人までいて俺は驚いた。髭黒さんの元奥様と光の奥様は腹違いの姉妹で、元奥様の母親は光の奥様を嫌っているのでこんなことを言い出したらしい。光や内大臣さんを直接悪く言うことはできないのでこんな噂が流れたのかもしれないと俺は思った。そのくらい京の人々の元奥様に対する同情心は厚く強かった。
「玉鬘さんは大丈夫かな……」
気の毒だなと俺は思った。大恋愛の末ならまだしも、しぶしぶ引き受けた婚礼でここまで言われてはたまらないだろう。髭黒さんももっと気遣い、どちらの女性も大事にすることはできなかったのかな。光なんてあんなに女性いるのに上手く扱って。光って本当にすごいんだな……。
悲しい噂のまま年が明けて、光三十八歳、冷泉さんは二十歳になられた。もう二十歳と言うべきか、まだ二十歳と言うべきか……。夕霧くんは十七歳だ。
今年は男踏歌があって、御所のあと朱雀院にも来てくれた。可愛い少年たちが足を踏み鳴らして踊って。髭黒大将さんの息子さんも混じっていた。
この男踏歌に合わせて玉鬘さんの尚侍出仕があったそうで俺はため息をついた。結婚後の今行くのか……。玉鬘さん出仕の儀式は光、内大臣さんに髭黒大将さんの勢いも加わって盛大だったそうだ。
「出産は十一月」
夕霧くんの言葉が呪いのように耳にこびりついて離れなかった。今は一月か。父親は選べるかもしれない……。冷泉さんのお言葉を思い出すのも怖い。
玉鬘さんははじめ髭黒大将のことが好きではなかったが、可愛い子どもたちに恵まれ夫にも愛されて徐々に幸せを感じるようになった。という昔話のような結末しか俺の頭では思いつけなかった。髭黒さんは別居しても子どもたちの面倒は見るだろうが、元奥様のことはもう……。
玉鬘さんは少し宮仕えをしたようだが、髭黒さんが奪うように自邸に連れ帰ってしまいそれきり出仕することはなかった。そして夕霧くんの言う通り、十一月には可愛い男の子が生まれた。