若宮が歩かれるようになって光《ひかる》は本当に嬉しそうだった。小さな手を取って立たせてあげたりして。若宮も光を見るとニコニコと嬉しそうにお笑いになる。親子水入らずの時間を作ってあげたいけれど難しいよなあ。父上が光を頻繁に御前に呼んで下さるのがせめてもの救いで。光はあくまでも年の離れた兄のような顔で若宮をあやしていた。
光二十歳の二月、御所の南殿で花宴《はなのえん》が開かれた。光ももう二十歳になったんだなあ。俺の三倍くらい忙しい人生を送ってそうだけれど。
宴では父上を中心に左手に中宮さま、右手に春宮である俺が座した。蛍や他の親王たち、上達部らがお題をもらって詩を作る。
「春という字を賜りました」
と名乗る声さえ他の人とは違って聞こえて。光はやっぱり詩も上手で本当に何でもできるんだなと思った。
光はあれから中宮さまと会えているかな。御所にいる間は若宮もおられるし、無理だろうな……。里帰りのような機会があればいいけれど。恋人同士だから会えてほしいという気持ちと、下手に動いてバレないでほしいという気持ちが俺の中で交錯した。
御所の桜は綺麗に咲いて、うららかな春の午後だった。楽《がく》の音ものんびりと優雅で皆の衣の香《こう》も芳しく、俺は幸せな気持ちだった。このまま父上の御世が続き若宮を立派に育てあげ、そのまま譲位できたらいいのに。俺は嵐の中心にされるのが嫌でたまらなかった。でも母も祖父もそのために今まで必死で俺を育ててきたのだから。俺の存在って面倒くさい。
柔らかな夕陽が御所を照らして、宴も終りに差し掛かった。俺は近づいてきてくれた光の冠に桜の挿頭《かざし》をして声をかけた。
「おつかれさま」
「ありがとう」
光は以前より晴れやかな顔で微笑むと、春鶯囀《しゅんのうでん》の最後の一節をさり気なく舞って見せてくれる。こんな姿も中宮さまに届くといいなと思った。父上や母が亡くなるまで秘密の関係を続けていられれば。いつか二人が誰に遠慮することもなく堂々と愛を育める世が訪れるのかもしれない。
夜も更けて宴はお開きになり、中宮さまと俺はそれぞれの局《つぼね》に帰った。俺たちがいるとどうしても羽目を外せないだろうから。皆はこれからまだ飲むのかもしれない。俺は多少飲んだけれどまだまだ記憶は確かだった。空には月がのぼり、暑くも寒くもなく過ごしやすい春の夜だ。
寝ようとしたがのどが渇いて、俺は水でも飲もうと起き上がった。女房が気づいて立とうとしてくれたが押しとどめて、自分で灯りを持って歩く。まだあったと思うけれど、どうせなら汲みたての水を貰いに行こうかなどと思った。心地いい夜で、すこし夜風を浴びたいような気持ちもあった。
「夜中にごめんね。水を頼めるかな」
下働きの人に水を頼み、しばらく戸口でぼんやりしているときだった。
「朧月夜に似る物ぞなき……」
かすかだが綺麗な歌声が聞こえて、俺は何気なくそちらを見た。ちょうど弘徽殿の戸口が一つ開いていて、誰か背の高い人が待ち構えているようだ。その人は中の女性に何事かささやくと、サッと彼女を抱き寄せて室内に入り、戸を閉めてしまった。あまりにも鮮やかな手腕で俺は息をのんだあと、そっと視線を外した。
盗み見るなんて失礼なことをしてしまったけれど、あれは光かな? 弘徽殿の誰かと恋仲なんだろうか。まるで物語の一節のようだったと思った。月光に照らされた二人の影は美しく、互いを見つめ合う瞳は運命の恋人同士のようで、俺は見てはいけないものを見た気がした。