この年の七月、藤壺さんは后になられた。今後は中宮さまとお呼びすべきかな。光《ひかる》は宰相になった。父上は可愛い若宮を春宮にすべくいよいよ譲位の心構えをなさって、若宮のご後見のため二人の地位を重くなさったらしい。蛍の言った通りになってきたなと俺は思った。
「一番早く入内なさった春宮女御を差し置いて立后とは……」
とヒソヒソ不満を口にしてくれる人もいた。春宮女御とは俺の母のことだ。たしかに一般的に考えれば、春宮を産んだわりに母の扱いは軽すぎるのではと俺も思っていた。父上にしてみれば俺がいなければ誰にも遠慮せず光を春宮にできたわけで、なぜ産んだという感じかもしれないが……。
「もうすぐ春宮の世がくることは確実なのだから安心なさい」
と父上は母をなだめるのだけれど。母と祖父の右大臣は長年我慢させられていたぶん、俺が即位した途端今までの不満を爆発させるように派手なことを行いそうで怖い気がした。贔屓も冷遇もほどほどにしてほしいんだけれど。思い切りやってしまおうとするあたり、父上と母は似た者夫婦なのかもしれない。
「光は宰相になりましたね。おめでとうございます。若宮もすくすく成長され、御所は幸せな雰囲気に満ちております。」
俺は光について不自然に触れないようにするのはやめて、葵さんには正直に今の胸の内を明かそうと思っていた。長く続くことが大切だから。光がこの文通を容認してくれていることもわかり、葵さんさえ嫌でなければ、俺はこの交流が細く長く、ずっと続くのもいいと思い始めていた。
「ありがとうございます。急な加階に思えますが若宮とお后様のご後見のためでしょう。春宮さまの御世も近いのでしょうか。」
葵さんの言葉にはどこか不安げな気持ちが表れていた。葵さんは左大臣の娘さんだから不安に思うのも当然だろう。頭中将さんと葵さんのお母上は父上の妹宮で、左大臣家と帝の繋がりは深かった。でも俺が即位してしまえば、たちまち右大臣の世になってしまう。
「俺が全てを決めることができるといいのですが。不安な気持ちにさせてすみません。」
父上のように強権をふるって今まで通り左大臣家を優遇するか。俺は書く手を止めて考えた。できるか? していいのか? 今までずっと待っていた右大臣家の人々の気持ちは? 長い間真面目に仕えているのに大して報われない人もたくさんいる。権力が交代すると信じているから待っているのに、裏切ったりしたら。それこそ秩序を破る行為で俺にはできそうもない。難しかった。
「俺も光と同じように、若宮と中宮さまをお支えしたいと思っております。」
今の俺にはそう書くのが精一杯だった。春宮になり帝になるということ自体、誰かの権力と打算が働いている。生まれながらの帝など存在しない。帝・に・し・て・も・ら・っ・た・という認識がおそらく正しい。
「帝になられたら、こんな文を交わすことも難しいのでしょうか。」
「そんなことはないですよ。むしろ今より楽になるかもしれません。俺は即位しても今の女房たちについて来てもらう予定なので、文通の自由くらいは確保するつもりです。ご安心下さい。」
葵さんがなおも不安そうに尋ねるので、俺ははっきりと約束した。初恋の人に会いにどうしても御所に来たければ尚侍《ないしのかみ》になって宮仕えしてもらう方法もあるし。葵さんがどうしても来たがり、光が同意すればの話だけれど。
「帝になられたら、何をなさりたいですか。」
葵さんが話題を変えてくれたので、俺の心は少し晴れた気がした。
「何をということもないのですが。先代から渡されたものを守り、つつがなく次の御世へお譲りできればと思います。疫病や災害の少ない世になってくれるといいのですが。民や国や帝の地位や、即位している間だけお預かりしているものをなるべく損なわぬよう保持して、次に繋いでいきたいです。」
本当は何も持っていないようだと俺も気づいていた。地位、名誉、まとう衣装や宝物《ほうもつ》だってすべて「帝」に与えられたものだ。俺名義のものではない。ただの朱雀に戻った時、俺には何も残らないのかもしれないなと思った。生きるために借りていた物を一つひとつ返して、人は死ぬのかもしれない。
「本当は帝位よりその後の出家のほうが楽しみなのです。光や葵さん、若い方々の幸せを祈りながら日々を送れたら。一番幸せですね。」
つい本音を書いてしまって。墨だから消せないけれど、せっかくだからそのまま巻いてお送りした。年寄りくさい好みだと笑われてしまうかな。葵さんが笑ってくれたらいいなと思っていた。