春が過ぎ、夏になった。重く病むはずの光《ひかる》の奥様は相変わらずお元気なようで、俺はそれだけで救われる気がする。
「皆で祭見たよー。」
蛍は文で皆の近況を教えてくれた。物見車の混雑も例年どおりで賀茂祭も無事終わったようだ。俺の住む西山の寺は朝晩涼しいが、京は暑くなってきただろうな。六月頃だろうか、
「三宮さんが懐妊されました。」
この重要な報せを短い文で真っ先に俺に伝えてくれたのは夕霧くんだった。いよいよか……。三宮の子は光亡き後の主人公だと冷泉さんは仰った。そして彼を柏木くんの子として明るく育てることが俺たちの狙いであり、あの本に対する挑戦でもある。
「柏木はだいぶ喜んで皆に知らせてます。」
夕霧くんのこの一文だけでも、妻の妊娠に浮き立つ柏木くんの様子が想像されて俺は微笑んだ。三宮の体調は問題ないかな。二人は初めての赤ちゃんに必要なものを揃えたり名前を考えたり、幸せな時間を過ごしていることだろう。
「帝と冷泉さんが安産祈祷してくれてるよ。俺もしておくね。」
光からもやさしい文が届いて、俺は皆の思いやりに感謝しながら沈思黙考した。生死が予言通りなら、三宮の子は無事に生まれるだろう。そして柏木くんは亡くなってしまう。だが俺は予言を違え、三宮を柏木くんに降嫁させた。その上での出産だ。赤ちゃんは最初から柏木くんの子として生まれてくる。それがどんな意味を持ち、どのくらい未来を動かすのか。
「お父様お元気ですか。私はこの春から懐妊致しました。もう無理かもしれないと思っていたので、夢のように嬉しいです。旦那様やご家族の皆さまもとても喜んで下さって、この子に会えるのが今から楽しみです。」
三宮からの文にも、母になる喜びが溢れているようだった。
「お母様が生きておられたらどれほど喜ばれたことでしょう。体を冷やさないようにね。三人で幸せになって下さい。」
俺はそう書きながら、三宮が妊娠を喜んでくれて本当に良かったと思った。新しい命の誕生に怯え後悔することほど悲しいことはない。柏木くんも三宮の妊娠について悩み隠す必要がなくて良かった。それだけでも二人が結婚した意味はあったと俺は思う。
ただ、俺は三宮に予言を読ませていない。彼女はこれから起こるかもしれない不幸を何も知らない。それは不公平だ。未来を知る権利は皆にあるはずだが、あの本には重大な秘密が書いてある。そこを除いた部分だけでも多くの人に読んでもらうべきだっただろうか。いや、一部を読めば全部読みたいと願う人が必ず出てきてしまうだろう。それはどうしてもできない……。
赤ちゃんが生まれて一番幸せな時期に愛する夫を亡くすとしたら、三宮はどれほど嘆き悲しむことだろう。柏木くんと出会わなければ良かったと思ってしまうだろうか。彼女は夫亡き後も気を強く持ち、息子を育てながら生きていけるのか。年老いた俺はどれだけ娘を支えられるだろう。
俺はこれで正しかったのか何度も自問した。柏木くんの死期はもっと後にずれるかもしれないし、息子の誕生が彼を救うかもしれない。そうであってほしいが……。幸せな結婚生活と可愛い我が子の存在が、今まで三宮を支えていたものがそのまま重荷に変わる可能性もある。それでも俺には他の選択肢は無かった気がして。何度やり直せと言われても二人を結婚させただろうと思った。
◇◇◇
「朧月夜が出家したよ。」
秋頃来た光からの短い文は俺をとても驚かせた。神仏に俺を取られた気がすると言っていたあの朧月夜さんが出家とは……。
「兄貴がいないのが寂しすぎるんだって。」
光は俺に気を遣ってそう書いてくれたのかもしれない。俺は彼女が同じ道に進んでくれたことを意外ながらも嬉しく思って微笑んだ。恋人というより姉のような人で、いつも俺の世話を焼いてくれたな。気配り上手で優しい人だった。有能で多才な方なので六條院に迎えられてほしい気もしたが、二番手三番手扱いというのは彼女のプライドが許さなかったのかもしれない。
俺は僧として日夜祈りを捧げた。すべての命が精一杯輝くように。御仏の加護があるように。三宮の妊娠は順調な経過をたどり、十二月になっていた。
「匂宮が生まれたよ。今のところ可愛いです。」
光はお嬢さんの出産も文で教えてくれた。匂宮くんは明石女御が産んでくれた四人目の孫になる。
「お父様、旦那様から横笛を頂きました。子が生まれたらあげてほしいと。」
ある日三宮から届いた文に俺はドキリとして、だいぶ長い間見ていた。
「お邸や荘園の権利証なども譲って頂きまして。結婚してこれほど長くなれば妻に渡すのが習慣だと仰るのですが、そんなものでしょうか。」
俺はなんと返事を書くべきか悩んだ。
「柏木くんの仰ることをよく聞いて、その通りにしたらいいよ。体はつらくないですか。温かいものを食べてよく眠ってね。柏木くんとゆっくり過ごして下さい。」
西山の寺には雪が積もっていた。俺は文の使いに酒食を提供して足止めした。暗い雪道は危ないため、文は明日持って行ってもらうことにしよう。柏木くんはいつもニコニコ笑って機嫌が良さそうに見えたが、やはり死を覚悟しているようだ。どれほど信じているかはわからないが、もしものための行動を取っているのだろう。
柏木くんは京を離れて旅に出たり、邸にこもったりすることはなかった。他の貴族と同じように御所に通い何食わぬ顔で自分の務めを果たしている。俺は帝に柏木くんの休暇を乞おうかと思ったが、病でもない彼に突然そんなことを言い出すのも不自然で、何もできなかった。
「夕霧くん、柏木くんの様子に変化ないかな。三宮に財産を遺してくれているようだけど。」
「冷泉さんに薫のことを頼んだそうです。祖父母がいるので必要ないかもと言っていたそうですが。」
俺は夕霧くんからの文を読んで胸が締め付けられるように感じた。柏木くんはこのまま、昨日と同じ今日を過ごしながら亡くなるつもりだろうか。本当にそれでいいのか? 彼は冷泉さんとの約束を守り、三宮にも予言のことは告げていないだろう。妻の前で明るいフリをし続けるのはどれほど苦しいことか。
俺はいつも三宮のそばに居てくれる柏木くんに心から感謝しながら、運命が変わることを願った。柏木くんには三宮と共に我が子の成長を見届けてほしい。夕霧くんと並び立ち帝を支えてほしい。これから先もずっと……。俺は僧としてふさわしくないほど彼の存命を願った。