光《ひかる》が四十一歳になった夏頃から、蛍は髭黒さんが捨ててしまった元奥様の娘である真木柱さんと付き合い出したらしかった。
「俺にはあなたと結婚したい理由があります。だいぶ年上で申し訳ないけど。付き合って下さい」
蛍はシンプルにそう言って、彼女に交際を申し込んだそうだ。
「いや、それ半分合ってるけど半分は誤解でさ」
蛍は俺にまで噂が広まっていることに苦笑しながらこっそり教えてくれた。
「柏木のすぐ下に弟がいるじゃん?」
「ああ、あの歌が上手い」
「そうそう。どうもあいつが俺より先に真木ちゃんに言い寄ってたらしいんだよね。そしてあいつは、俺の死後真木ちゃんと再婚する男なんだ」
「そうなんだ……」
俺は驚いてしばらく黙った。
「予言が前にずれて来たのかな」
「どうもそーらしいよ」
蛍もそれが楽しみのようでワクワクしている。
「俺このまま二人の成り行きを見守ろうと思ってさ。なんか面白そーじゃん? 俺と真木ちゃんの間には娘が生まれる予定なんだけど、もしかしたら変わるかもね」
誰・の・子・か・は・選・べ・る・かもしれないという冷泉さんのお言葉はついに現実化するのだろうか。俺は驚きのあまり目を見開いた。俺たちはあの予言を覆し、未来を変えることができるのか……?
「俺、真木ちゃんには幸せになってほしくてさ。二人が上手くいきそうなら身を引くつもりだよ」
蛍が嬉しげに言うので心優しい人だなと思った。彼らの交際が続くならそれでいいし、もし真木柱さんが蛍を選ぶなら妻として迎える覚悟もあるのだろう。髭黒さんの元奥様は本当に気の毒だったけれど。娘さんには幸せになってほしい。
「心配なのは夕霧だよ。あいつ二宮さんのことどーすんのかな」
「二宮……」
三宮が柏木くんと結婚したことで、彼に降嫁するはずだった二宮はまだ独身のままだった。
「予言では柏木の死後夕霧が二宮さんを好きになって、雁ちゃんは嫉妬して実家に帰っちゃうんだよ」
「そうなの?!」
俺は驚いて動揺してしまった。雁さんとの間にはたくさんお子さんもいるのに。二宮のせいで夕霧くんの家庭は崩壊してしまうのだろうか。
「夕霧は雁ちゃんに通いつつ二宮さんも妻に迎えて、結構仲良くやるんだよ。藤典侍《とうないしのすけ》の産んだ子を世話したりしてさ」
藤典侍というのは五節で夕霧くんに文をくれて彼を当惑させた女性のことで、あの後宮仕えして典侍になっていた。彼女との間にも子ができるのか。夕霧くんほどの地位で妻が二人だけというのはかなり誠実なほうではある。宮仕えしている女性とは自由に会ったり一緒に住んだりできるわけではないので、普通の妻とも違うし。
ただ夕霧くんと同居し彼の子を大勢産み育てている雁さんは、当然自分こそが夕霧くんの正妻だという強い矜持を持っているだろう。二宮がそれを脅かす存在になるなんて、俺にはかなりつらい予言だった。
◇◇◇
三宮と柏木くんの穏やかな幸せを漏れ聞くたびに、俺は二宮のことが気になった。あの子をもらってくれる人はいないのだろうか。夕霧くんに頼むとは、どうしても言えない。
皇女というのは扱いが難しくて、光が敬遠したのもそのせいだった。最も愛する女性より位・が・高・い・皇女を娶ってしまえば、どうしても扱いを上にせざるを得ない。今まで一位だった女性は当然嘆き悲しむことになる。
「私に下さってもいいですよ」
冷泉さんは微笑んでそう仰って下さるけれど。片付かない子を押し付けるようで申し訳ないし、入内するには後見が弱すぎて女性たちの争いの中で埋もれるだろう。二宮の母である一条御息所さんも承知しないだろうと思った。
「悩んでるねえ」
出家について相談するため久しぶりに六條院を訪れた俺を見て、光は開口一番そう言った。
「奥様の体調は大丈夫?」
「お陰様で、息災だよ」
光がそう言ってくれるので俺はほっとした。
「柏木は?」
「元気みたいだね」
「良かった」
光はそう言うと、少し遠くを眺める。
「夕霧呼ぶわ」
光は女房に使いを頼むとしばらく黙った。
「二宮さんさ、どうしたい?」
「俺には、何も……何を言う権利もないよ」
「冷てえなあ」
光は苦笑しながら、やはり物思わしげに何か考えている。少し時間がたってから、いつものようにきつい目をした夕霧くんが入ってきた。俺に軽く礼をしてくれると、光の正面に座る。
「お前さ、二宮さんどうするつもり」
光は単刀直入にきいた。夕霧くんが二宮と交際するのは何年も後の話のようだけれど。夕霧くんは真っ直ぐな瞳で光を見つめたまま、黙っている。
「雁は泣かせない」
夕霧くんははっきりした口調で、それだけ言った。
「じゃ二宮さんを泣かすんだな」
夕霧くんは光の言葉に顔をしかめたが、口答えせずじっと黙っていた。
「百あるうちの十や二十でも、情を分けることはできねえのか」
光が尋ねると、夕霧くんは怒ったように言い返した。
「十や二十で愛すほうがよほど失礼だろ。百愛す人間を探すのが先だ」
「現れなかったら?」
夕霧くんはぐっと押し黙ったが
「俺が引き取る」
覚悟したように答えた。
「皇女を娶るなら正・妻・格・だぞ」
光が凄みのある声で言うので
「もういいよ」
俺は耐え難くなって二人の会話に口を挟んだ。
「あの子が邪魔なら出家させて山にでも連れて行くよ」
俺の言ったことがあまりに意外だったのか、光と夕霧くんは同時に俺を見た。その驚く顔がよく似ていて。俺はやっぱり親子だなと思った。
「兄貴それは……実の娘に冷たすぎない?」
「もちろん無理にはさせないけど。二宮には俺の財産をなるべく遺して暮らしに困らないようにしておくよ。一人で生きていけるかはわからないけど……」
俺はしばらく黙った後、泣きそうな気持ちで言った。
「せっかく夕霧くんが雁さんと一緒になれて幸せそうなのに。その家庭を壊すような真似、させられないよ」
俺は髭黒さんの元奥様を思い出していた。夕霧くんに妻子を捨てて別の女に走るような、髭黒さんのようなことをしてほしくなかった。夕霧くんにはいつまでも優しく誠実な夫、父でいてほしかった。単なる俺のエゴだった。
「どうするかなあ……」
光は考えあぐねた様子でため息をついた。
「もっと予言を引っ掻き回したら、二宮の未来も変わるかもしれないよ」
俺はあの予言に負けたくないという強い気持ちで言った。
「俺の親としての気持ちは、三宮は柏木くんが貰ってくれて良かったと思ってるし、二宮もなんとかなると思ってる。この世には予言に出てこない人も生きてるんだし」
いつか王子様が……なんておとぎ話の世界だろうけれど。皇女ならそれを信じる資格もあるのかもしれないと俺は思った。二宮に難があるとも思わないし。この世に生まれてきた人はみな、自分が主役の物語を生きている。台本などない、定めなき世を。あの本に書かれていることが全てじゃないはずだ。
「なるほど」
光は理解した様子でうなずくと
「お前よりいい男が現れるかもしれねえから自惚れるなってよ」
夕霧くんに向けて明るく言った。
「えっ?! いやそういう意味じゃ……」
俺が驚いて手をふると、夕霧くんは焦る俺を見て微笑した。その微笑みは少し目を細めただけなのに弾けるように眩しくて、俺に強い印象を残した。