三宮を無事に送り出してほっとした俺は、まだ出家しないでと言われはしたが準備だけはしておこうと思った。西山に土地があるのでそこに寺を作って、出家したら住もうと思う。今までは手を洗う水すら汲んできてもらう生活だったが、自分のことはなるべく自分でする生活をしてみたい。
俺がそんなことを考えながら仏間で祈っていると、朧月夜さんが遠慮がちに祈る俺の袖を引いた。
「朱雀様」
「はい」
俺は何気なく振り向いたが、彼女にしては珍しく少し言いにくそうにしている。
「どうか、されましたか」
「私、姉のいた二條の邸に里帰りしようかと思いまして」
姉というのは俺の母のことだった。母は数年前に寿命で安らかに亡くなっている。
「少しのんびりしてこようかと思っております」
「そうですか。それは素敵ですね」
俺は何心なくうなずいた。
「俺も今すぐではないのですが、そのうち出家したいなと思っていまして。朧月夜さんはどうするのだろうと心配だったので。暮らしの困りごとはないですか。俺からも幾らかお遺ししますね」
俺は彼女への財産分与の手続きを進めておこうと思った。長い間とてもお世話になったなと思う。朧月夜さんは俺の話をききながら急にウルウルと瞳に涙をためた。
「朱雀様大好きです。本当は離れたくありません……」
「は、はい」
「でも朱雀様の信心深いご様子を見ると、愛しい方を神仏に取られた気持ちになってしまいます。そんな自分がふがいなくて……」
「……そうでしたか。こちらこそ気を配れず、すみませんでした」
そんなことを考えておられたのかと俺は意外な気がした。俺が日夜祈ることが彼女には負担だったのだろうか。俺は位を下りてから気楽な気持ちになってしまって、女性の相手をするのもサボりがちだった。寂しい思いをさせてしまって、申し訳ないことをしたかな。
「今までありがとうございました。お世話になりました」
俺が丁寧に感謝の気持ちを伝えると、朧月夜さんは俺の胸に飛び込むようにして抱きついてきた。
「大好きです」
「ありがとう。俺もです」
俺たちはひしと抱きしめ合うと、あたたかい気持ちで別れた。いつもそばにいてくれて、ちょっと近すぎる気もしたけれど。いつも支えてくれて、俺にはもったいないくらい有り難い人だと思った。
◇◇◇
「うちの子が妊娠した。」
秋の初め、光《ひかる》からの文は短かったがかなりの緊急事態を予感させた。光のお嬢さんはたしか去年の四月に入内なさったよな? まだ少女のような方だと思っていたが……。俺は驚いてしまって急いで御所へ参内した。
「冷泉さん、ご無沙汰してます」
「いらっしゃいませ」
「裳着の御祝いをありがとうございました」
冷泉さんはいつものように微笑んでおられたが、俺はご挨拶もほどほどに春宮に会いにいく。
「春宮、元気……?」
俺は何から話したらいいかわからず当惑した。なんということをしてしまったのか……。二人は結婚しているのだから叱るのはおかしいが、褒めるのも適切でないような気がして発言に困る。俺に初めて子ができたのはこんなに若くなかったので、我が子ながら先輩のような妙な感じがしてなかなか切り出せない。
「父上」
春宮は無聊を慰めるという感じで頬杖をつくと、物足りなさそうな顔をしていた。
「明石《あかし》女御が里帰りしてしまって、つまらないです」
「そう、だよね」
俺は言葉をつまらせながら、何と言おうか考えていた。
「彼女には優しくしてる?」
「してますよ、もちろん」
「だよね」
ええと、なんて言ったら良いんだろう。
「彼女気分悪そうだったんじゃない?」
「でも帰ってしまうことはないのに」
「お産は大変なんだよ。命に関わるんだから」
俺が心配そうに言うと、春宮は驚いた顔をして俺を見た。
「そうなんですか?」
「そうなんだよ。特に最初のほうが気持ち悪くなるんだ。体調も崩しやすいし。彼女を大事にしないといけないよ」
そう言われるととても心配になったようで春宮も動揺していた。
「祈祷をさせたほうがいいですか」
「目立たない形でね。何か欲しいものがないかきいて、あれば贈ってあげて」
光の所でいろいろしてくれてはいるんだろうけれど。気遣う姿勢を見せることが大事ではないかと俺は思った。
「無事に帰ってきますよね?」
「そう思うけど。祈ろう。俺も祈るから」
光は孫がたくさん生まれると言っていたから、お亡くなりになることはないと思うけれど。だいぶ若いお嬢さんの出産なので心配だ。春宮は出産の大変さを知らなかっただけで冷淡ではないようだった。女房たちにあれこれ尋ねては、指示を出している。
俺は春宮が少しはわかってくれたようでほっとしながら退出しようとしたが、冷泉さんに呼び止められて御前に出た。
「朱雀さん、今年は父上の四十の賀がいくつもあるのですが、私が行こうとすると止められてしまいます」
冷泉さんは微笑みながらもどこか不満げだった。行幸になると迎える側が大変だからなあ。
「夕霧くんは参加できるのに。私も行きたいです」
冷泉さんが珍しくわがままを仰っていると思って俺は少し嬉しくなった。
「光と入れ替わってみられますか」
俺が何気なく言うと、冷泉さんのお顔がみるみる輝かれる。
「なるほど……面白そうですね」
冷泉さんは横を見ながら微笑まれ、何か考えておられるご様子だった。実現できるのかな? 光と冷泉さんはお顔や体格もかなりそっくりで、光は見た目も若いので遠目ならいけるかもしれない。
俺は悪いことを言ったかなと思ったが、取り消すこともできないのでそのまま退出した。どうなるのかな。でも実現したら面白そうだなとは思っていた。