秋の終わり、二宮の母である一条御息所さんが亡くなられたという知らせが届き俺はお悔やみの文を書いた。二宮の返事は思ったより落ち着いていて。彼女に通う貴族がいると聞いてはいたが、御息所さんは娘についてその人に後見を頼んでいたのだろう。
俺が死んだのは雪の夜のようだった。それ以降の記憶がない。静かに降り積もる雪が匂いも音も消して、この世に俺しかいないように感じた。それが不思議と苦痛ではなくて。夜明け前、暗闇の先に微かに見えるひかりと差し向かいになり、目を閉じて。俺はやっと迎えがきたのだと悟った。
◇◇◇
とても長い間眠っていたような気がした。まぶたというものがあるのならば、うっすらそれを開く。澄んで清浄な世界のようだった。俺はしばらく仰向けで寝転んだままぼんやりしていて。だいぶ経ってから、俺のことを横からじっと覗き込んでいる人がいることに気づいた。
「大丈夫ですか?」
髪が長くて女性のようだった。起き上がろうとする俺に手を貸してくれる。俺は半身を起こすとまだぼんやりしていた。白い靄のようなものが足元に漂い、俺たちを優しく包んでいる。美しい人が俺をじっと見つめているので
「はじめまして。朱雀です」
俺はそっと頭を下げた。彼女は瞳の奥で微笑むと
「はじめまして。葵です」
丁寧に答えてくれた。彼女の微笑みは夕霧くんにそっくりだった。
「お疲れだったのですね。ずっと眠っておられましたよ」
葵さんは俺を見つめて心配そうに教えてくれた。
「迎えに来て下さったんですか」
「はい」
「すみませんでした。お待たせして」
葵さんが微笑んで首を振られるので俺は恐縮した。見た目、変じゃないかな。年もとったし……。葵さんは亡くなられた時と同じ、若く綺麗なお姿のままだ。
「夕霧くんからよろしくお伝えするよう言付かりました。夕霧くん、とても立派になられて」
俺はそう話しながら胸がいっぱいになって、しばらく言葉が継げなかった。
「お子さんが十二人おられて。皆とても可愛く、しっかり育っておられます。光《ひかる》も元気で、孫が春宮になって。国の祖父になるでしょう。葵さんのご実家も安泰で、とても栄えておられます。ご親族も次々出世なさって。夕霧くんも太政大臣になられるそうです」
たくさん話したいことがあったはずなのに。いざ葵さんを前にすると何も思い出せなかった。こんなこと全部ご存じだろうに。自分の口から説明したくて仕方ない。
「他の方のことばかりですね」
葵さんは強い瞳で俺をじっと見つめて下さる。
「あなた様のことは」
そう問われて、俺は苦笑した。
「俺は……年を取りました。皆に助けられてばかりで。出家したので髪も無いでしょう」
そう言って思わず頭に手をやったが、黒髪の感触があるので俺は驚いて引っ張った。確かに若い頃のような黒髪が、サラサラと胸まで伸びている。
「若返ったのかな……?」
俺はしばらく首をかしげて考えていたが、よくわからなかった。葵さんは俺の隣にそっと座って下さる。ここは天国なのかな。夜空の雲の上のようなぼんやりした空間だった。時間もあるようでないような場所で。俺はただ葵さんと一緒にいられて、満たされていた。
「父上……」
そんな俺の目の前をスーッと通っていく人がいて。父上だった。帝時代の、だいぶ若い父上のような気がする。そしてその後ろを静かについていく若い女性がいて。
「……母上?」
物静かで芯の強そうな女性だった。この人が昔の母なのかな。父上の進むほうへ一心についていく。その後ろに少し間隔を空けて二人の女性が歩いていた。よく似た二人で。
「桐壺さん、藤壺さん」
俺は会ったこともない人の名がはっきりわかるので不思議に思った。二人は仲良く談笑しながら歩いていて、俺に会釈してそっと通り過ぎていく。そして
「朱雀さん!」
忘れ得ぬ懐かしい声で呼ばれて。俺はやっと目が覚めたような気がした。
「柏木くん……!」
柏木くんは釣り竿を肩に担ぎながら、俺に笑って手を振っている。
「ここは天国なのかな?」
俺が尋ねると
「まだ道の途中ですよ」
柏木くんは笑って教えてくれた。
「兄貴遅すぎ。まだ寝てたの?」
そのとき背後から聞き慣れた声がしたので俺が驚いて振り向くと、今度は光がスーッと近づいてくるのが見えた。
「光! 死んじゃったの?」
「死んじゃったよ。何年たったと思ってんの」
光は笑って俺のそばを通り過ぎる。隣には奥様かな、藤壺さんによく似た女性が微笑んで付き添っていた。
「また後でね」
光が先に行ってしまったので俺は少し焦った。その後ろを
「すー兄《にい》おさきー」
蛍も明るく手を振って過ぎていく。隣にいるのは亡き奥様かな。蛍と腕を組んで見つめ合い、とても仲が良さそうだった。
「みんな行っちゃった……」
みな同じ方へ向かって進んでいくようだった。それぞれのスピードで、話したり笑ったりしながら、幸せそうに歩いていく。
「皆死んじゃったんでしょうか。世界が終わって……」
俺が心配になって尋ねると
「時が経っただけですよ。世界はまだ続いています」
葵さんは冷静に教えてくれた。こういうところ夕霧くんにそっくりだなあ。俺は心から安心できる気がして。
「行きましょうか」
葵さんが手を差し伸べて下さるので、俺は彼女を見つめると、その手をそっと握った。不意に涙がこぼれて。
「はい」
俺で、いいのかな。でも握ったこの手を離したくなくて。
「よろしくお願いします」
俺が頭を下げると葵さんは微笑んでくれて、俺たちは一緒に立ち上がった。目の前の視界は白く霞んでいて。足元も雲に包まれているがよく見ると
「星の海だ……」
漆黒の空に無数の星々が瞬いて、天の川に立っているような感じがした。
「にーおーくん、あーそーぼー」
「薫、お前いつまでそんなガキみたいなこと言ってんだよ」
ずっと下から少年たちの声がして、俺は耳をすませた。
「におくん大人になったの?」
「なっ……てないけど心構えだよっ!」
「じゃ賭弓《のりゆみ》やろー」
「賭弓って……お前もうそんなことしてんのかよ」
「皆してるよー」
「俺は賭け事は死んだかあちゃんに止められてんだよっ!」
「におくん育ちよすぎー」
「一応帝の子どもだぞっ!」
仲の良さそうな声に俺は思わず微笑んだ。葵さんと握った手はあたたかく、足元から頭上まで、辺り一面星でいっぱいで。風もないのに葵さんの長い髪は緩やかになびいて、海の中にいるようだった。俺は葵さんを見つめると幸せを感じて。少し照れて微笑むと、一歩ずつゆっくり歩き出した。