また年が返って光《ひかる》五十歳、冷泉さんは三十二歳になられた。夕霧くんは二十九歳。もう三十代目前だな。光と奥様はお変わりないだろうか。年齢が年齢なので、そろそろ体の不調が出ても仕方ない頃だろうと俺は思った。
俺は早寝早起きして毎日祈り、平和に過ごしていた。俺は僧に向いていたかもしれないな。もともと母の罪を償うためにと願った出家だが、そういう理由がなくても早晩僧になっていただろう。競争の果てに何があるのだろうと俺はすぐ思ってしまう。誰かを泣かせてまで手に入れる幸せに何の意味があるのか。己の願いが叶うことが良いことなのかすら、俺にはわからない。
薫くんは三歳、匂宮くんは四歳になった。匂宮くんは十二月、薫くんは一月生まれなので、一歳差と言っても二人は実質ひと月しか違わない。仲良く育っているだろうか。ただでさえ歳が近いのだから、匂宮くんの競争心を煽らないためにも周りはあまり二人を比べないほうがいいのかもしれない。
匂宮くんは女性ばかりの六條院で光の奥様に特別愛されながら養育されているようだった。薫くんはしょっちゅう祖父の致仕大臣さんに会いに行くそうで、叔父や従兄弟たちに囲まれて賑やかに雄々しく育っていることだろう。
◇◇◇
「朱雀さん、十五夜に冷泉院へお越し下さい。」
秋のはじめ冷泉さんから文を頂いて、俺は緊張しながら山を下りた。冷泉院にお邪魔するのは初めてだな。御所に参るより緊張する気がするから不思議だ。
冷泉さんは譲位されてからも人気がおありなので、院について来る女性たちも多かった。中宮さまを尊重なさることも在位中と変わらずで。少しはゆっくり羽を休めておられるだろうか。
「すー兄《にい》きたきたー」
俺が忍びやかに到着したときには、光や蛍は既に来ていたようだった。蛍が遠くから手招きして俺を呼んでくれる。
「兄貴痩せた? なんか小さくなってない?」
光は俺を見ると開口一番心配してくれた。
「背は元から低いけど……さらに縮んだかな?」
俺は皆からじっと見おろされて苦笑した。一応帽子も被ってるんだけどな。毎日精進料理で酒も飲まないし、たしかに少し小さくなったかもしれない。
冷泉さんを中心にして左手に光と蛍、右手に夕霧くんが座っていた。俺は夕霧くんの隣に座らせてもらい、ちょうど良い高さにのぼった月を眺める。
「兄貴元気だしてね」
光はいつもより悲しそうな顔をしてそう言ってくれた。そうか、そろそろ俺も死ぬのかな。これは冷泉さんが俺に用意してくれた最後の宴なのかもしれない。
「今までありがとう。皆に会えて楽しかったです」
俺は丁寧に頭を下げた。
「やめてよそういうの」
光が悲痛な顔をして止めるので苦笑してしまった。悪役相手にも別れは惜しんでくれるのだろうか。
「俺まで死にそうに感じるじゃん」
「光は長生きしそうだけどね」
「どういう意味?!」
「憎まれまくって世に憚ってるからなー」
蛍は苦笑して光を眺めている。
「そういえば二宮さんさ、どーなったか知ってる?」
「ううん」
俺は二宮については母親と本人に任せるつもりで、何も関与していなかった。
「二宮さんに通ってる貴族がいるんだよ。もちろん夕霧以外のね」
「へえ……」
ついに予言に書かれていない人が現れたと思って、俺は嬉しいような不思議な気持ちがした。
「結構位の高い人だよ」
「真木柱さんはどう?」
「いい感じなんだなーこれが」
蛍は片目をつぶって教えてくれた。真木柱さんと柏木くんの弟さんの仲も上手くいっているようだ。
「良かったね」
俺は二宮の近況も聞けたのでいよいよ心置きなく逝ける気がした。
「お前あの巻実現しなくていいの? 雁ちゃんとの微笑ましい夫婦喧嘩が」
光は夕霧くんにニヤリと笑ったが
「微笑ましくない」
夕霧くんは不機嫌そうに眉を寄せた。
「雁ちゃんのこと鬼・呼ばわりして実家に帰られちゃうんだよなー。お・い・ら・か・に・死・ね・とか言われて」
「どういう状況?!」
とても微笑ましいとは思えなかったが、光と蛍は苦笑しながら夕霧くんを見ている。予言の中の夕霧くんはなかなか大変なようだ。
「このままだと他の男に取られちゃうよ? 二宮さん風流な美人だろうに」
「いい」
「雁ちゃんに散々子ども産ませといて『うるさい家は嫌』とか言う奴だからなー。今の夕霧のほうがよっぽど良いよ」
光がもったいないと言った様子で尋ねたが、夕霧くんはにべもなかった。蛍はそんな夕霧くんを褒め称えて。夕霧くんの言葉に嘘や無理は無いようだ。
「未来って、変わるんだね」
あんなに強くそれを望んでいたのに。いざ叶ってみると不思議な気がして、俺はしみじみした気持ちで言った。
「楽しみだね」
これから先が楽しみだ。その気持ちを持てたことが嬉しい。
「変わらぬ未来もありまして」
冷泉さんは優しく微笑まれると、俺にこっそり教えて下さった。
「私にも娘が生まれました。少し前ですが」
「そうでしたか……おめでとうございます」
俺は感極まって、涙をこらえながら御祝いを申し上げた。
「本当に、ご苦労をおかけしました」
お詫びすら不適切な気がして、ただただ頭を下げる。
「冷泉さんと夕霧くんの未来が無事だといいのですが」
俺はそれだけが心配でつい口にした。
「あまり予言を違え過ぎて、天変地異でも起きないか心配で」
「そのときはそのときです」
冷泉さんはニコニコ笑って仰って、相変わらず肝が据わっておられる。
「今宵の月を楽しみましょう」
皆が酒を飲む間、俺はお茶をもらって十五夜の月を眺めた。予言が記された昔にもこの月はこうして照っていたのかな。この月だけがすべてを知っている気がして。俺は今まで生きてきた年月を思った。一人じゃなかったから生きてこられたな。みんながいたから。楽しかった。
「どんなことでも夕霧に相談して、一人で抱え込まないんだよ。いい子だから」
光は酔いながら冷泉さんに説教していた。冷泉さんをじっと見つめて、頭や頬を撫でてあげている。三十歳を超え娘さんまでおられる冷泉さんの頭を撫でるということに俺は驚愕したが、冷泉さんは微笑みながら抵抗なさらず、どこか楽しげだった。どっちが子供かわからないなあ。いくつになっても子供は子供で、心配になってしまう親心はよく理解できた。
夕霧くんを見て葵さんを思い出すように、光は冷泉さんを見ると入道宮さまを思い出すんだろうな。困難ばかりの恋だっただろうけれど。冷泉さんがこうして笑っていて下さるだけで救われる気がする。何をして下さったとかそういうことではなくて。夕霧くんや冷泉さんの存在自体に、俺たちは救われたと思う。
「本日はありがとうございました」
俺は今日呼んで下さったことに感謝して、冷泉さんに御礼申し上げた。
「お元気で」
冷泉さんは優しく微笑んで見送って下さる。光と蛍は眠ってしまって、門に向かう俺に最後まで付き添ってくれたのは夕霧くんだった。今日はあまり酒を飲まなかったのかな。それほど酔ってはいないようだ。
「ありがとうございました」
夕霧くんがお礼を言ってくれるので、
「俺の方こそありがとう。夕霧くんに出会えてよかったです」
俺は丁寧に頭を下げた。夕霧くんはそのつよい瞳でしばらく俺を見ていたが
「母によろしく、お伝え下さい」
少し微笑んで言ってくれた。瞳の奥で煌めくような、俺の大好きな微笑みで。
「伝えます」
俺で会えるかなと思いながらも、俺はうなずいて約束した。