年が明けて、光《ひかる》四十八歳、冷泉さんは三十歳になられた。夕霧くんは二十七歳。柏木くんは三十二歳だ。
もうすぐ薫くんが生まれるだろうと聞いて、俺は新年早々山を下り朱雀院へ向かった。院には最低限の管理をする院司しか置いていなかったが、山寺での自立生活にも慣れたのでそれほど困ることは無いだろうと俺は思った。
「朱雀さん!」
数人の供だけ連れて、馬に乗ってのんびり歩いていた俺を後ろから呼び止めたのは柏木くんだった。
「柏木くん。おめでとう」
「あけましておめでとうございます」
柏木くんも馬で来ていたが、一人にしては何本もの釣り竿を馬に乗せている。
「たくさん竿を使うんだね」
「釣りをしていると子どもたちが寄ってくるので、あげているのです。今は釣りの時期じゃないので手入れのために預かってきました」
柏木くんの微笑みはいつもどおりで優しかった。
「三宮さんの出産を見に来て下さったのですか」
「うん。もうすぐみたいだから」
「うちに泊まっていかれませんか?」
「お邪魔じゃないかな」
「三宮さんも喜びますから」
「ありがとう。じゃあ少しだけ」
柏木くんがそう言ってくれるので、俺はついお言葉に甘えた。
「柏木くん、三宮にいろいろ譲ってくれたみたいでありがとう」
俺は柏木くんと駒を並べて歩きながら、何気ないふうを装ってお礼を言った。
「いえ」
柏木くんは微笑んだまま少し視線を落とす。
「……怖くない?」
無神経かもしれないが、俺はそう尋ねた。
「そうですね……怖いです。怖いですけど」
柏木くんは前を向くと澄んだ瞳で続けた。
「死期がわからないよりずっと良かったです。覚悟もできるし、限りある時間を精一杯楽しむこともできました。悔いが無いといえば嘘になりますけど……俺はあの予言書を読めて良かったです」
柏木くんははっきりとした口調で答えてくれる。
「強いね」
俺は畏敬の念を抱いた。自らの死と正面から向き合う柏木くんを尊敬していた。
「三宮と結婚してくれてありがとう」
「こちらこそ。彼女と夫婦になれてこんなに長く過ごせたなんて……夢のようです」
柏木くんのあたたかい言葉に、俺のほうが救われていた。
◇◇◇
柏木くんの覚悟は僧の俺よりよほど澄み切って潔かった。己の死期を知れば残りの時間を充実させることができる。確かにその通りだと思う。ただ未来を知るのは辛いこともあっただろう。俺は柏木くんの邸の奥の部屋に座らせてもらうと、静かに手を合わせて祈った。
俺たちはなぜ生まれてくるのだろう。肉体がなければ感じられない慾を満たすためだろうか。大切な人に会いやり残したことをやるためだろうか。この世はつらいと知っていながらなぜ赤子の誕生を祝ってしまうのだろう。あの世には永遠があるのだろうか。俺は左手に巻く数珠をじっと見つめた。もし彼がそちらに行くなら……どうか彼を頼みます。
一月半ば、薫くんは生まれた。三宮は小柄なので心配したが、薫くんは夜明け頃元気な産声を上げて生まれてくれた。帝と冷泉さん、それに光も産養を贈って下さった。祖父である致仕大臣さんは大喜びで柏木くんの息子を抱っこしに来た。彼は生まれたばかりの薫くんに頬ずりして「寿命が伸びる気がする」と泣いて喜んでいた。
「良かった」
柏木くんは父親の喜ぶ顔を見てとても満足そうに微笑んだ。
「これが見たかったんです。俺の子が生まれたってことを父に知ってほしくて。これで思い残すことはありません」
俺は嬉しいのに悲しい気がして。つい涙ぐんだ。致仕大臣さんが気遣ってくれて、三宮にはしっかりした良い乳母がついてくれる。三宮は皆に手伝ってもらいながら楽しそうに子育てしていた。抱っこしてあやしたり授乳したり、本当に幸せそうだ。柏木くんも暇さえあれば抱っこして、薫くんの顔をじっと見つめていた。
「俺に似てるかな?」
微笑んで三宮に尋ねたりして、とても仲の良い夫婦だった。