「私より好きな人ができたら、私を捨ててね」
「えっ?」
「遼くんには、幸せになってほしいから……」
ハルカは潤んで、揺れる瞳で俺を見た。
「それができてりゃ苦労しねーんだよ」
俺は投げやりになって言った。もう何年も探してるのに、全然見つかりゃしねーんだよ。何ならハルカが連れてきてよ。
「既婚者のほうがモテるって言うしさ」
ハルカはそんな俺を慰めるように謎の応援をしてくる。これから結婚しようって時に、不倫すすめてくる新妻がどこの世界にいるんだよ。
「ハルカは無責任すぎるよ。ハルカが俺を幸せにしてよ」
やっと信号が青に変わって。俺はハルカの手を引いて歩き出しながら笑った。舟のような三日月が綺麗で。
「だって……自信ないよ」
「そのセリフ、子どもがいても言えんの?」
「それは……」
さすがに子どもに気の毒だと思ったのか、ハルカが沈黙して考えている。良かった、そのくらいの情はあるんだと思って俺は安堵した。俺たちは吸い込まれるようにホテルに入って。俺はハルカと繋いでないほうの手でエレベーターのボタンを押した。
「もっと俺を夢中にさせて。虜にしてよ」
部屋へ入るなり、耳元でささやいて長いキスをした。よろけるハルカを支えて、ベッドに運んで。ハルカを喜ばせたいって俺の願いは、少しずつだけど叶いつつある。
「今夜の星、綺麗だったね」
ハルカとまた星を見たいと思った。サークルを抜けてから、デートがてら通った海。夜の砂浜に二人並んで、遠い星を数えたい。
ハルカは裏も表もないような人だが、どこか底知れぬところがあり、俺に海を思わせた。俺の知っているハルカは、ただ光が届く上澄みの部分だけなのかもしれないと思うと、矢も盾もたまらず、どんな危険を冒してでも、もっと深く知りたくなってしまう。気づいたら溺れてる。危険な女だ。
「ハルカ……好き」
俺はハルカの裸の胸に飛び込むと子犬のように甘えた。なんにも要らないんだ。ずっと、俺とここにいて。
「不倫だけは絶対しないでね。俺以外、誰も好きにならないで」
俺は自制できる自信がなかった。気づいたら殺してたってことに、ごく自然になりそうに思った。
「しないよ。私も……遼くんが好き」
ハルカは眠そうな目で俺を見つめると、優しく抱きしめてくれた。ああ、本当に……なんて透明で空っぽで、罪深い天使なんだろう。無力な俺を悪魔に変えておきながら、自分は虫一匹殺せないって顔で、ふわふわ俺に抱かれている。こんな女を捨てられる男がいるのだろうかと俺は思った。なんの邪魔にもならず、控えめで、誠実で。いつも笑って、世界を眺めている。こんな女の手を離せるやつがいるのだろうか。この世にはもったいないくらいだ。お前は背中に羽でもはやして、永久に天国で遊んでいるべき存在だよ。
そんなハルカにかりそめでも昇天気分を味わわせてやるのが、夫となる俺の義務のようにも感じていた。まあ何事も永遠じゃないんだ、俺もいつか衰えて、ハルカと縁側で茶でもすする間柄になるんだろう。早くそうなってくれたら楽なんだけど、とハルカが内心期待しているような気がして。それが悔しくて、必死に抗おうとする自分もいた。与えあい、奪い合ったって何も残らない。ハルカ好みの、あっさりしたやり方で。
ハルカの寝顔を見たら、俺も眠くなってきて頬を寄せ合って眠った。生まれ変わっても記憶があったら、またこいつを見つけ出して意地でも一緒になってやる。今度は絶対待つもんかと思った。