9.
久が帰宅すると、珍しく兄の敬が実家に来ていました。
「おかえり」
ドアを開けて迎えてくれます。
「あいつに会った?」
「ああ」
久は上着を脱ぎました。
敬は砂糖なしのミルクコーヒーを淹れてくれます。
「あいつ何だって」
「別に」
久はしばらく黙ると
「今が一番幸せだって」
小さく言いました。
衝撃でした
この程度が幸せなんて
「そう」
敬はすこし黙ると
「あいつ本当気持ち悪いよな。病気なんじゃね」
小さく笑いました。
久が思わず睨み上げると、敬はいつになく残念そうな沈んだ顔で、前を見つめていました。
「俺はさ、あいつが可哀想だと思うよ。自分自身にすごく粗末に扱われてるあいつがさ」
もっと自分を大切にすればいいのに。
権利を主張して争えばいいのに。
敬は悔しい気がしました。
随自身が思ってるほど随の価値は低くないと思います。
「もっと強くてしたたかな奴ならほっとくんだけどさ」
敬にはそういう友だちが何人もいました。
そういう人間を評価してもいます。
「本当に、病気ならいいのにな」
いつか治る病気ならいいのに。
敬は眼鏡をかけると車のキーをとりました。
「おやすみ」
十時過ぎなのに随の家に寄ると
「俺が家賃を取りにくる間は永久に居ていいから」
来月の家賃を徴収して帰りました。
10.
妹から連絡があって、随は会いに行きました。
八年ぶりでした。
妹は十六になっていました。
背が高くて、すこし義父に似ていました。
「久しぶり」
「元気?」
「まあ」
「嘘つき」
妹はカバンを放って座りました。
「かばったんでしょ、お母さんを」
妹はコーラを飲みました。
「お母さんは後から帰ったんじゃない。最初から家にいた。お父さんはお母さんを殺そうとしてた。お兄ちゃんはそれをかばった」
「なぜそう思う」
随はアイスコーヒーを飲みました。
「お母さんから聞いたの」
妹はストローで氷をつつきました。
「施設って楽しかった?」
「別に」
「ご飯美味しいんでしょ」
「普通だよ」
「でも私よりマシだと思うな」
妹は下を向いていました。
「お母さん、不倫してたんだよ」
随は息を止めました。
「お母さん不倫してたの。お父さんはそれで怒った。すごく凶暴だったでしょ? 薬のせいなんかじゃない。ものすごく怒ってただけ」
嘘みたいでした。
今作った嘘みたい
そんなこと考えたことありませんでした。
頭が真っ白になります。
「その人お母さんが好きなわけじゃなかったの。娘が目当てだった。なのにお兄ちゃんはお父さんを死なせていなくなっちゃってさ。ずるいよふたりとも、お母さんお母さんって。私のことはちっとも守ってくれない」
「賄《わい》」
随は思わず立ち上がりました。
「お前……」
母さえいればいいと思っていました。
娘には母が必要だから
母さえいればいいと信じていました。
だから俺がかばって
「嘘だよ」
妹は兄を見つめて、はじめてすこし笑いました。
「すごくいい人だよ。不倫してたけど。お母さんや私をすごく大切にしてくれるよ。お金持ってるし」
随はかたんと椅子に座り直しました。
妹は兄に心配されて満足そうです。
でもすこし寂しそうでした。
持っていたスマホを無意識にいじりました。
「すまなかった」
「何が? お父さんは悪くなかったから?」
「うん」
悪いから刺したわけではありませんでした。
向かってきたから戦ったのです。
手加減できるような相手ではありませんでした。
力がつよくて
必死でした。
「腹が立ったからって刃物振り回すのは犯罪だよ。お兄ちゃんは悪くない」
「でも殺すことはなかった」
「そうだね」
妹は寂しそうでした。
「死んじゃうことなかったよね。お兄ちゃんを傷つけて、罪を負わせてさ。馬鹿みたい」
妹はスマホばかりいじって、コーラの氷は溶けかけていました。
「弟が生まれたんだよ。小さくて可愛いの。いやなこと全部忘れさせてくれるよ。今のお父さん、いい人でさ。私がいると邪魔みたい」
妹はばいばいと手を振りました。
電話番号を教えてくれます。
随も小さく手を振りました。
「お母さんには、お兄ちゃんのお父さんも、私のお父さんも、もう要らないね」
寂しそうに笑う声だけが、長く耳に残りました。
11.
「生きてたんだな、親父さん」
前来たゲーセンに随は来ていました。
クレーンでぬいぐるみを狙います。
「裁判までは、生きてた」
「うん」
随はボタンを押しました。
クレーンの先がぬいぐるみに引っかかりますが、持ち上げるとすぐ外れてしまいます。
二度くり返してお金がなくなりました。
もう一度お金を入れて
リプレイを
「飛び降りたのか」
「首吊りだよ」
随の目は動きませんでした。
「鬱で。気づけなかった」
「あの金は遺産か」
「うん。手切れ金」
ゲームに負けて、随はゆっくりこちらを見ました。
「本当に、すまない」
涙も出ないほど、かすれた声でした。
「裁判記録、読んだんだ」
敬は怒ってはいませんでした。
眼鏡の奥の瞳も、静かなまま
裁判の焦点は殺意の有無でした。
なぜ斬りかかったかについて、義父はかたくなに黙していました。
「かばわないんだな、息子を」
「許せなかったんだよ、俺が」
「どうして?」
「裏切り者を、かばったから」
選択肢はない気がしました。
当時もないし、今も
選択肢なんてあった試しがありませんでした。
「母さん不倫してたんだってさ。その人と今は幸せで、子どももいるんだって。よかったよね」
随はすこし笑いました。
馬鹿らしい気がして
でも救った人が幸せならすこしは意味があったかなと思いました。
亡くなった義父が一番可哀想だと思いました。
「なぜ黙ってた?」
「父が、黙ってたから」
不倫されたことを知られたくなかったんだろうと随は思いました。
鬱で働けなくて養われて不倫されて、法廷で晒されて、記録を取られたくなかった。
母親はそれを見抜いていたなと敬は思いました。
だから嘘をついた
父子だけの争いに見せかけるために。
「いいのか」
母になれば許されるなどと、敬は思っていませんでした。
「お前に罪をきせようとしたんだぞ」
「俺なら」
随は冷めていました。
「十二なら、たいした罪にならないから」
頭いいよね
少し笑います。
随は誰も殺していなかった
母を助けようとしただけなのに
その母親が、自分をかばって傷ついた息子に全ての罪をなすりつけ、何食わぬ顔で、帰ってきたらこうなっていましたって
通報して、離婚して再婚して、今は幸せに暮らしています、だって?
ぜったいに許さない
敬は誓いました。
でも随がいいというなら、これ以上は追わない
今は
「謎はすべて解けちゃったね」
随は寂しそうに笑いました。
「つまらなかった」
調べてみたら死にぞこないの、ただの間抜けな男です。
「これ以上悲劇は起こらないと思うよ」
敬は約束しました。
「これからは楽しく暮そう」
「うん」
随は笑って、新婚さんを駅まで送ってあげました。