俺の子を妊娠したとかいう女がハルカに喧嘩を売ってきたとき、この無駄な争いに終止符を打とうと俺は思った。
「結婚、したら……? お子さんにはお父さんがいたほうがいいと思うよ」
いつもは何も言わないハルカもさすがに堪えたのか、俺に意見してくれた。俺は嬉しかった。こんなクソみたいな事情でも、彼女の静謐な湖面に少しでも波風を立てられたことが純粋に嬉しかった。
「あの女の言ってることは嘘だよ」
「えっ?」
「俺は必ず自分のゴム使ってるし、『ピル飲んでる』も信用してない。そんなヘマはしないよ」
絶対の確信があった。「DNA鑑定する」と言うと、女はあっさり引き下がった。
「他の男との子を、俺に育てさせようとしてたのさ」
「…………」
ハルカはそんな人種がこの世に存在するのかと目を丸くして、ただ俺を見つめていた。そんな奴もいるんだよ、この世界にはさ。
「ハルカ、俺と結婚してくれない?」
俺は何の前置きもなく言った。仕事帰りに寄った居酒屋で。ディナーも指輪もなかった。
「ハルカよりいい女、この世に存在しないみたいだから」
「そんなことはないと思うけど」
ハルカは冷静に苦笑して否定した。大げさすぎることは俺もわかっていた。だいたい横取り狙いの女と比べられたって、嬉しくもなんともないよな。でもフリーだと嘘をついて誰かと付き合うのは嫌だったし、ハルカと別れるのはもっと嫌だった。俺には他に方法がなかった。
ハルカはしばらく黙ったまま、運ばれてきたカシスソーダを一口飲んだ。俺は生ビールのジョッキを傾けて。最初の一杯なので、互いにまだ酔ってはいなかった。
「俺は浮気するから、嫌?」
「ううん、それは全然、いいんだけど……」
いいんだ……。ハルカに女友達がいない理由がわかる気がした。この価値観、なかなか共有できねえわ。
「私って、空っぽじゃない? 何にもないっていうか……」
俺たちはカウンター席にふたり並んで座っていた。ハルカがぼんやりと、前を見るともなく見る視線がうつろで美しい。
「私昔から、好きなものとかどうしても欲しいものとか、何もないんだ。自分はどこか欠けてるんだろうなって、いつも思ってて」
料理も下手だし、と言ってハルカは控えめに笑った。下手というより興味がないんだろうと俺は思っていた。食についてあれこれ考えないことで脳の効率化を図っているというか。毎日同じものを食ってても一向に構わないと思っているところがハルカにはあった。外食も苦手で、ファストフードとかチェーン店のファミレスとか、温めるだけ、揚げなおすだけのマニュアル化されたメニューを出された方が安心するといった節があった。見た目から味が想像できない物は食べたくないという、一種の怖がりかもしれない。