政界復帰した光《ひかる》は入念に準備をして、十月に父院の御八講《みはこう》を催してくれた。御八講といえば昔年末に入道宮さまがして下さったことを思い出す。そこで出家を発表されて。光はボロボロ泣いていたっけ……。
父上、光と冷泉さんをお守り下さりありがとうございました。俺は父上にお礼申し上げて祈った。それが効いたのか父上のご遺志が遂げられた故か、俺の左目は不思議と回復して開くようになってきた。俺の役目も終りなのですね。父上がお赦し下さったのだと思うと有り難いし嬉しかった。
俺は些細なこともすぐ光に相談できる幸せな最期を過ごした。今まで荒れていた国政を少しずつ立て直す。俺を利用し刹那の利権を享受した人々は今後、政治的な荒海に投げ出されるだろう。気の毒だが、致し方ない。
俺はしばらく使われていなかった朱雀院を内々に整備しておいてもらった。そして年が明け、冷泉さんが元服なさるのと同時に譲位することを決めた。
「俺の世は楽しかったですか」
ある日の午後、看病しながら俺は母に尋ねた。自分の思うままにできて、少しは楽しんでもらえただろうか。
「呆気なかった。ただこれだけのために、今まで生きてきたかと思うとな」
母は静かに答えた。病は多少癒えたが覇気はない。
「俺は楽しかったです。母上とケンカできたことも。いい思い出になりました」
初めて肉親らしいふれあいができた気がした。あんなに腹が立つこと、他の人にはないから。昔から母の性格を諦めていたつもりではあったが、心の底から怒ってぶつかれたのは嬉しくもあった。怒りは期待の裏返しなのかもしれない。
「俺が生まれて嬉しかったですか」
俺は視線を下げると何気なくきいた。
「嬉しかった。院も喜んで下さった。これからもっと幸せになれるんだと思った。桐壺更衣が来るまでは」
母は三十年以上前のことを、まるで今起きた出来事であるかのように語った。
「気立てのやさしい、美しい女性だった。院が愛すのも無理なかった。そのうちまばゆいばかりの子まで生まれ、私は焦った。私にはそなたしかいなかった」
光に対抗する武器が俺一人とは心許なかっただろうに。俺は母に同情しながらきいた。
「自分がないがしろにされるのはまだしも、そなたまで愛されないのは耐え難く、許せなかった。全ては更衣とその子のせいだと思った。私は更衣を妬み苛んだ。誰もが協力してくれたよ。更衣に院を盗られたという気持ちは皆同じだった」
敵ばかりの御所に住む桐壺更衣の気持ちはいかばかりであったろう。俺は申し訳なく思った。俺がいなければ母もここまでしなかっただろうか。俺が殺したようなものなのかもしれない。
「私は院が好きだった。心の底から院だけを愛していた。最も早くに入内し全てをお捧げした。それでも院の愛は私を離れ数々の女を流転し、二度と戻ることはなかった。男のそなたにはわかるまい」
俺は若い母が父上に嫁いだところを想像した。俺に嫁いだ麗景殿さんや承香殿さんのような感じかな。彼女たちは男もこの世も、何も知らぬまま御所にくる。御所が彼女たちの全てになる。気の毒だった。帝に恋などしないほうがいい。子さえ産めればいいのだと割り切ってくれたほうが幸せだろうとすら思えた。
「もう、終りか」
母は静かに訊いた。
「ええ、終りにしましょう。俺も共におりますから」
俺も静かに応える。
「不肖な俺を帝にまでして下さり、ありがとうございました。ご恩に報えず、すみません」
「不肖などではない。更衣の子が特殊なだけよ。そなたは宝だった。昔からどんな子よりも優しく純粋で、自慢の息子だった。帝でいるには辛かったろう」
そこまで言ってもらえるとは思っていなくて、俺は少し驚いて母を見た。いつももっと頑張れ、まだやれると励ましてくれていたけれど。母は懐かしそうな目で俺を見つめていた。その瞳の中には、いつまでも幼いままの俺が生きているのかもしれなかった。