「姫君はこのつらさを誰かに訴えたいと思いました。でも見知らぬ国で知り合いがいません。王子様が唯一の頼れる人ですが、まさか王子様にこのつらさも言えず黙って笑っているしかありませんでした。不満があるような顔は見せられないと思いました。」
書きながら俺はつらいなと思った。善意と好意のかたまりのような人を裏切ることは容易ではない。妃と王子を奪い合うような真似はこの姫君にはできないだろう。自分の気持ちを押し殺し、黙って見ているしかないのか。
「姫君は寂しくなると海岸に行きました。澄んだ海の底がはっきり見えます。ときおり知った顔が現れて彼女を心配そうに見つめました。海の国の人は皆、陸に上がった彼女のことを気にかけていたのです。姫君はそれを見るとたまらなくなりました。今すぐ飛びこんで皆に会いたい。でもそれでは死んでしまいます。彼女はもう海に暮らせないのです。姫君はお別れをしようと思いました。王子様に最後、ひと目だけ。ひと目だけでも会いたい。会って好きでしたと言いたい。そう思い、ある夜お城へ忍び込みました。」
俺はここまで書いて葵さんへ送った。葵さんはどんな展開を期待しておられるのだろう。葵さんは妃目線で読んでいるのかな。それとも姫君目線なんだろうか。俺は尋ねられないのがもどかしいような気持ちで寝床に入った。恋に破れた全ての人が救われる世があればいいのに。
お返しに下さった挿絵も、海の国の同胞の心配そうな表情、姫君の思いつめた様子などが細かく描かれいつも以上に熱が入っている感じがした。絵を描いてくれた女房も続きを気にしてくれているのだろうか。十五夜を過ぎだんだん遅くなる月の出を待ちながら、俺は続きを書いた。
「王子様はもうおやすみになっておられました。薄暗い寝所にそっと近づきます。姫君はそこではっと足をとめました。王子様は一人ではありませんでした。お妃様とともに幸せそうに眠っておられます。姫君はそれをじっと見つめました。これが答えなのだ。ゆるぎない答え。これ以上何を言って王子様をわずらわせることがあるだろう。お妃様を悲しませることがあるだろう。姫君はお城を立ち去りました。二度と振り返ることなく、海岸への道をひとり駆けました。」
俺は息を吐いて筆を置くと、墨をすって心を落ち着けた。筆に墨を含ませて。一気に姫君の最後を書く。
「東の空が白んで夜が明けるところでした。姫君は美しい朝焼けに瞳を染めると、崖から一直線に身を投げました。もう思い残すことはない。最後はふるさとの海で死のう。姫君の体は波にのまれ泡になろうとしました。そのときです。大きな腕がぐっとのびて姫君の体を支えました。やさしく包んで抱きよせます。彼女が王子にしたようでした。同じように姫君は介抱されました。
『お前にはダメだといったのに。私は悪い王だね』
腕の主は王様でした。海の王様が姫君を抱きあげておられます。
『海の掟を破ってしまった。お前は今度こそ幸せになるんだよ』
王様はそう言って微笑むと、姫君を家族のもとへ送ってくださいました。彼女はまだ生きています。再び海で暮らせるようになったのです。姫君はうれしいと思いました。でもお礼を言うべき王様がいつの間にかおられませんでした。
『王様は退位なさるのだよ。お前を助けるため、すべてを捨てたのだ』
姫君はそれを聞くとたまらなくなって家を飛び出しました。長い衣を脱ぎ捨て、ぐんぐん泳いで、王様を追って西へ西へと向かいました。」
俺は書いてしまってから見返すこともなくそのまま葵さんへ送った。見返すのが苦しいような恥ずかしいような、妙な気持ちだった。姫君が死なないのは良かったかな。このように王権を使えたら格好いいだろうなとは思う。
これに対する返事は本当になかなかこなかった。俺はもうあの巻物を葵さんの手元で永遠に持ってもらってもいいと思った。もちろん処分してもらっても構わないのだけれど。ひと月、ふた月すぎて季節も変わろうかという頃、丁寧な返事が届いた。
「素晴らしいお話をありがとうございました。とても面白かったです。最後姫君が家を飛び出すところが素敵ですね。姫君はその後王様にお会いできたのでしょうか。」
海の王様が姫君を抱き上げる様子や姫君のぐんぐん泳ぐ姿がいきいきと描かれていて、俺はありがたく思った。この先はどうなるんだろうな。
「そうですね。王様と会えて思いを伝えたのかもしれません。結婚して仲良く暮らせるといいのですが。」
俺は何気なく書いたが、葵さんの返事はもっと現実的なものだった。
「こんなに素敵な王様ですから隠棲先にも奥様をお持ちかもしれませんね。女性たちが放っておかないでしょうから。」
そう書かれると後が継げなくて俺は苦笑した。物語の終わりは現実の始まりか。
一人の男が一人の女しか愛さないということが可能なのだろうか。もしそれをしてしまったら、泣く人より笑う人のほうが多くなるのかな。それとも負けて涙をのむ人が増えるのか。俺には判断できない気がした。光《ひかる》のような貴公子がそれをしたら多くの女性はがっかりするだろう。
「春宮さまが海の王様のような気がして胸踊らせながら読みました。またお聞かせ下さいね。」
葵さんが家に縛られ苦しんでいる姫君だとして、俺に救う方法はあるのだろうか。光と引き離し宮中へ連れ出すか? この狭い京《みやこ》で。
葵さんの字を見ながら俺はじっと考えた。無理だ。宮仕えこそ実家の後ろ盾が物を言うのに。光を婿にして喜んでいる左大臣が許すわけはない。いくら考えてみても妙案は浮かびそうになかった。