父上が院に移られたので、俺は帝の居所である清涼殿に引っ越すことになった。梅壺にいた女房たちも大半は付いてきてくれることになり、ひとまず安心する。塗籠を整理して蔵にしまうものと身近に置きたいものを選り分けたり掃除したり、やることはたくさんあった。中身を確認しようと書物や文などに目を通すとすぐに時間がたってしまう。
「私たちが致しますから」
俺はあまりウロウロしても邪魔になるので荷物は女房たちに任せることにして、昼御座に座っていた。畳の上に茵《しとね》を敷いてその上に座る。思ったよりふかふかして座りやすい席だった。緊張するな……。御帳台《みちょうだい》にも年季が入っていて、今までの帝はここに座ってどんなことを考えてきたのだろうと思った。
父上は中宮さまと共に院で普通の夫婦のようにお暮らしだった。引退なさった後も季節に応じて様々な宴を催して下さる。母は大后《たいこう》として弘徽殿に残った。父上についていくの嫌だったんだろうな……。若宮は春宮に立たれ、梨壺を春宮御所として使われることになった。まだ三歳だから母上が恋しくて仕方ないだろうに。乳母やお付きの女房たちがいてくれるから少しは気が紛れるかな。
春宮に対して様づけは変だし呼び捨ても嫌だしで、俺はどう呼ぼうか悩んだ末に「冷泉さん」とお呼びすることに決めた。これなら帝になられてからも多分変えなくてすむし、親愛の情は一応示せる気がする。
冷泉さんは父上や中宮さまが院に移られお寂しそうではあられたが、癇癪をおこして泣きわめくような方ではなかった。常に落ち着いて賢そうで、言いつけを良く守られる。無理されてないかな。
春宮が御所で養育されるのは仕方ないことだが、俺の場合父上は帝だし母も御所にいたしで寂しさを感じたことはなかった。冷泉さんは二人とも離れてしまって心細くないかな。光《ひかる》に頻繁に来てもらって冷泉さんを見守ってもらえたら一番いいんだけれど。俺が一点を見ながらそんな考えにふけっていると、
「みかど」
不意に呼ばれた気がして俺は前を向いた。御簾一枚を隔てて光が畏まった様子で座っていて。
「光。いつもみたいでいいのに」
俺はどこか可笑しくて苦笑してしまった。
「そういうわけにはいかないよ」
光もクスッと笑うと、急に真面目な顔に戻って仕事の話をすすめた。
「祭の件ですが」
「そうだね、斎院《さいいん》の体調も良いし予定通り行えると思う。御禊《ごけい》の日は供奉をお願いできるかな」
「かしこまりました」
光は宰相中将から大将に昇進してだいぶ上りつめた感はあった。父上は譲位なさるまでに光を上限ギリギリまで加階させたかったんだろうな。ただ官位に関わらず、どんな仕事を任せても光なら心配なさそうだった。公務の際の光は冷徹で一分の隙もなかった。
「忙しい?」
「御用とあらば承りますが」
「大将には、一日一回春宮と触れあう任を仰せ付けます」
俺は精一杯威厳を作って言ったつもりなのだけれど、光はくすくす笑いを必死に噛み殺して
「仰せのままに」
優美にお辞儀すると退出した。帝って難しいな。人に命令するって難しい。
斎院というのは賀茂社に奉仕する皇女で、俺の妹の三宮という人がその任に就いていた。宮中での潔斎も終わりいよいよ紫野へ発つので今年は行列が行われる。俺が光に頼んだのは祭の勅使だった。光以外にも位の高い貴族が美麗な装束で列に付き従うことになっていた。