御所へ伺った俺は久しぶりに冷泉さんにお会いしたので、去年のことだがついお尋ねしてしまった。
「鷹狩《たかがり》はいかがでしたか」
「楽しかったです」
冷泉さんは優しく微笑んで下さる。
「もっと何度も気軽に行けると良いですよね。豪勢で綺麗でしたが」
俺はあの仰々しい行列を思い出し、つい苦笑してしまった。
「そうですね」
冷泉さんも苦笑なさって。帝として背負うものが重いのに少しも文句を仰らないのを尊敬しつつ、心配にもなった。
「春宮さんも十一歳ですね」
冷泉さんは春宮の年も覚えて下さっていて、俺は恐縮した。
「元服も近いですね」
「ありがとうございます。まだまだ頼りないのですが」
春宮が早くしっかりしてくれたほうがいいのだろうが、冷泉さんの御世が長く続いてほしい気持ちもあって、俺はあいまいに苦笑した。
「玉鬘さんの裳着も滞りなく終わってよかったです。光《ひかる》は内大臣さんとも仲直りできたみたいで」
「そうですか」
冷泉さんは光から連絡がきてはいるのだろうけれど、俺の話も優しく聞いて下さった。そこへ小さくて動きの早いリスのような侍女が一人、御簾を上げてチラとこちらを覗いた。
「やめて下さい」
御簾の外で柏木くんが必死に止める声が聞こえる。
「みかどですか?」
帝にみかどですかと訊く人を初めて見たので、俺は驚いてしまった。
「はい」
冷泉さんは脇息にもたれて、優雅に微笑まれる。
「私を尚侍に」
彼女は早口で言いかけたが、冷泉さんの眼光に捕えられて釘付けになったのか、しばらく言葉を止めた。
「下働きに、使って下さい」
彼女はそれだけ言うと御簾を戻して、また小動物のように去ってしまう。
「申し訳ございません。とんだご無礼を」
柏木くんが可哀想なくらいに頭を下げるので、冷泉さんはフフフと笑われた。
「近江《おうみ》さんですね。構いませんよ」
冷泉さんは麗しく微笑まれて、毛ほども気にされていないご様子だった。近江さんというのは内大臣さんが引き取ったという娘さんかな。柏木くんが責任者なのか、苦労しているようだ。
「玉鬘さんの出仕の話がでていますか」
「ええ。父上は十月にとお考えのようです」
冷泉さんの表情は変わらず、悲しくも嬉しくもないご様子だった。
「玉鬘さんはどうなるのでしょうか……」
俺は女性の幸せについていくら考え続けてもわからず、降参状態だった。
「玉鬘さんが笑顔になってくれたらと思うのですが。光も蛍も俺も、お手上げで」
結局子世代である冷泉さんに押し付けようとしている。
「生まれる時期は選べなくても、誰の子を産むかは選べるかもしれませんね」
冷泉さんが何気なく仰るので、俺は時が止まったかと思った。
「それは、つまり……」
「誰の子を宿すか決めるのは女性でしょうから」
冷泉さんはやっぱり優しく微笑まれて、有無を言わせない。
「……そう、ですね」
俺は噛みしめるようにうなずいて、これが冷泉さんの救い方なんだと悟った。父・親・は・選べるかもしれない……。子は男女の縁でできると俺は思い込んでいたので、その発想に衝撃を受けた。しかし発言主である冷泉さんご自身は、光のように道ならぬ恋と知りながらやむにやまれず、という感じではなかった。さりとて快楽や背徳に耽るふうでもなく冷静で、どこか奉仕的にすら見える。
「女性が望めばの話ですが」
冷泉さんはそれだけ仰ると、微笑んで遠くを望まれた。玉鬘さんは帝に何を望むだろう。
俺の知る限り、冷泉さんが女性に何か命令したり強要なさることは一切無かった。
「どうしてほしいですか?」
と、微笑んでただ優しく訊いて下さるだけ。それでも冷泉さんと一緒ならどんな深い闇に堕ちてもいいと思う女性は必ずいるんだろうな。つよかった。まばゆいくらいに輝いているのに底知れず冥《くら》くてあたたかかい、深淵のような感じがした。このお方は我々がどんなに汚く愚かで誤った選択をしたとしても、それを止めようとはなさらないだろう。ただありのままを受け入れ、抱きしめてかばいながら深い深い場所までともに落ちて下さるだろう。どれほど御身が傷ついたとしても。
どうしてそこまでして下さるのだろう。帝位におられるのもご本意ではないが下りることもままならず、強いて無感情におなりなのではないか。夕霧くんへの加階だけを心の支えになさって……。
無礼を承知で俺はそんな心配をした。入道宮さまが生きておられた頃の冷泉さんはこういう感じではなかった。光と父子の再会をしたときだって、ショックは受けておられたが今の氷ような雰囲気ではなかったのに……。あの本によほど悪いことが書いてあったのだろうか。あの予言書を読まれてから、冷泉さんは変わってしまわれた気がする。
十九歳の冷泉さんには人を惹きつける魔力のようなものがおありで、絶対的な権力をお持ちなのにどこか儚げで、完璧なのに放っておけないところがあられた。満開の藤の下に佇み微笑まれながら、そのまま晩春の陽光に溶けて消えてしまいそうな、そんな危うさが感じられる。どうしてだろう。藤は生命力が強く子孫繁栄を象徴する縁起の良い花なのに……。
冷泉さんは何か考えておられるご様子だったので、俺は静かに御前を辞した。お任せする以上何も言うことはできない。ただ俺の心はとても冷たく、沁みるように痛くて。冷泉さんのお心遣いを有り難く、ここまでおさせすることを申し訳なく思った。