冷泉さんは小さい頃から絵がお好きで、ご自身でも上手に描かれた。俺や光《ひかる》もよく描いてもらっていたっけ。
新しく入内なさった梅壺女御も絵が上手らしく、冷泉さんは昼間も梅壺でお過ごしになられたりして交流を深めていた。それが弘徽殿女御の父である権中納言さんの挑み心に火を付けてしまったらしく。弘徽殿では今風の絵を集めながらなかなかお見せしないなど、冷泉さんを巡る二人の女御の争いが起き始めていた。
「負けず嫌いは本当変わらないな」
権中納言さんは若い頃から光に負けるものかと必死だったけれど。今でも変わらぬその姿勢に苦笑しながら光はどこか嬉しそうだった。
「でも出し惜しみするのはよくないね。どうせなら堂々と競わせようよ」
こうして御所ではいい絵を集めたり描かせたりすることがだんだん流行になっていった。俺は春宮のいる梨壺にしか行かないので通りすがりの気配程度しか感じないが、弘徽殿ではだいぶ熱が入っているらしく、朧月夜さんまで絵を収集し始めたのには驚いた。
「どうせ争うなら勝ちませんと!」
弘徽殿女御は朧月夜さんの姪なので、彼女は当然弘徽殿側についてあげるようだ。俺も何かあげたほうがいいのかな。斎宮下向の日の儀式は綺麗だったなと思い出して、俺はそれを描いてもらって梅壺女御に差し上げることにした。母からは弘徽殿女御に贈れという絵が届くし、五歳の春宮まで乳母にならって絵を描いている。皆すっかり絵に夢中のようだ。
光も梅壺女御を応援すべく絵を集めている様子だったが、どこか浮かない顔に見えた。
「左右に分けて競わせて、それを見て楽しむなんてさ。なんか怖い遊びだよね。負けたくないから準備はするけど」
梅壺、弘徽殿ともなかなかの絵が集まって、見に行かれる冷泉さんが大変そうに思われた。それならばということで、日を改めて帝の御前で絵合《えあわせ》が行われることになった。
◇◇◇
絵合は帝と中宮さまが見守られる中、殿上人も見物するような大規模行事になった。俺は柱の陰からでも見たいなと思っていたら
「ここ座りなよ」
蛍が奥まった端っこの席を分けてくれる。
「いいの?」
「うん。俺判定頼まれてるんだよね」
蛍が冷泉さんの御前に出ると冷泉さんは嬉しそうに手を振られた。俺にも気づいて下さって
「朱雀さん。一緒に見ましょう」
ご自分の隣を示して下さるけれど、
「いえいえ、ここで結構です」
俺は恐縮して蛍のくれた席に座った。今日は中宮さま主催だと思うから俺は目立たないようにしていないと。
絵を入れる箱や広げる敷物、童たちの衣装まで趣向が凝らされていて、これは凄い催しだなと俺は舌を巻いた。この日のためにどれだけの注文《ちゅうもん》が出され、職人たちが立ち働いたことだろう。
絵は左が梅壺、右が弘徽殿と分けて提示された。左には光、右には権中納言さんが畏まって控えている。蛍はその運動神経の良さを活かし素早く判定しようとしていたが
「わかんねー……」
どちらも選りすぐりの絵ばかりで、なかなか甲乙つけがたいようだった。
「それはこちらでしょう」
「あ、はい」
困る蛍に中宮さまが時折助言して下さる。左右両者とも接戦で、絵合は夜になっても続いた。最後の品として光が自ら描いた須磨の巻を出すと、絵の技巧もさることながら当時の情感まで伝わってくるようで皆圧倒されてしまい、左の梅壺側が勝利した。
「お前絵もかけんのな。なんか怖えわ」
絵合が無事に終わり酒宴になって。蛍はため息まじりにつぶやいた。
「器用貧乏なだけさ。何も残りゃしねえよ」
光は勝ったわりには嬉しそうでもなく、静かに飲んでいる。
「女・帝・って感じだったな」
光はよほど悲しかったのか、その単語を何度も口にした。
「上に立つのが似合う人なんだろうな。知識も教養もプライドもあってさ」
寂しくて悔しそうだが、諦めの色も見える。
「帝の母って権力握れるんだね。俺大后さんだからそうなんだと思ってた。皆ああなっちゃうんだね」
「そうだね」
俺は相槌をうって。今日の中宮さまの堂々としたお姿を思い出した。
「強くならなきゃ、やってこられなかったのかもしれないね。母からの圧力が中宮さまを強くしてしまったのかもしれない」
「それだけじゃないさ」
光は少し笑うと
「あれで正しいんだろうね。若い帝を支える母としては」
昔の恋人が完全な母になってしまったことを惜しむような、尊ぶような目をして言った。
だいぶ遅くなってから月が上り、今日の主役たちに楽器が配られた。権中納言さんは負けて悔しそうだったが色に出すのも癪だとばかり、すました様子で和琴《わごん》を奏でた。とても上手い人なので、皆が聴いているのも意識して華やかに掻き立てる。
「久々に弾くわー」
蛍は箏《そう》をもらうとサラサラと音調を整えた。花々を巡る蝶のように軽やかな音色が響く。光は琴《きん》をもらって少し物憂げに弾いた。女房が琵琶を持ち上手な人に拍子を取ってもらって合奏すると、伸びやかな調べが春の御所に広がり夜明けの空を彩った。絵合の労に対する褒美として中宮さまは皆に禄を下さった。蛍には御衣も下さる。
「須磨の巻は中宮様に差し上げて下さい」
光はそう言い置いてこの宴を去った。
「『冷泉帝の御世から始まった』と伝えられるような文化、芸術を興したいんだ。あの子の名が後世に残るようにね」
さり気なく語る光は優しい父の顔をしていた。