6.
随の家には大きめのベッドがありました。
部屋を借りるとき、お古でもらったものです。
とても寝心地のいいベッドで、薄くて軽い羽根布団にくるまると、ぐっすり眠ることができました。
随はここで眠るのが大好きで、王がたまに泊りにくるのも、このベッドが好きだからかなと思うほどでした。
「よかったら持ってく?」
随は王にきいてみました。
長身の王の方がこのベッドに似合う気がします。
「いや、いい」
王は即座に首を振りました。
「これはここにないと意味ないから」
随の家をたびたび利用する王にはそれが大事のようでした。
「女連れこみたいなら一人暮らししろよ」
「家賃もったいないじゃん」
「だからって人んち使う奴があるか」
「やけに怒るね」
王は笑って敬を見ました。
「愛《あい》ちゃんと何かあったの」
敬は先日結婚して、愛という美人の妻を持っています。
「関係ねえわ」
「図星だね」
王はふふと笑いました。
「あんないいベッド譲って。大丈夫?」
「何が」
「新婚生活がさ」
「飽きたんだと」
「もう飽きられたの?」
「馬鹿。ベッドにだよ」
敬は王の肩をこづきました。
「もっとスプリングのきいた奴がほしいんだとさ」
王はふうんとうなずきましたが
「俺はあのベッドの方が好きだけどね」
それだけは譲れないという口調で話します。
「くどいようだが、あの部屋もベッドもお前のじゃねえから」
「わかってるよ。俺らのでしょ」
「全然わかってないな」
「女と寝たベッド人に譲ってんの?」
「現在進行形で使ってるお前に言われたくないわ」
「俺は綺麗に使ってるから」
「俺が汚いみたいな言い方やめてほしいんだけど」
随は思わず苦笑しました。
先行く敬に王が合わせて、ふたりはどこまでも仲がよさそうです。
よくあんな会話ができるな
こんな街中で
久はすこし離れて、随と並んで歩いていました。
随はいつものように穏やかな顔でくつろいでいます。
呼んでもらったけれど、随は式には出ませんでした。
一生に一度の晴れ舞台だから
特に新婦さんにとっては
何かあるといけないので
申し訳ないけど辞退します。
敬は怒ることはありませんでした。
むしろ優しかったくらいで
「馬鹿だな」
ため息をつくと遊びに誘ってくれました。
親しい友だちだけで祝いなおす、早い話が飲み会でした。
7.
「おめでとうございます」
「ありがとう」
随はビールを注ぎました。
敬が謹んで受けます。
小さな居酒屋だけど飯は悪くないようでした。
王はビール片手に、久は飲めないので飯中心で、ぱくぱく食べています。
喫煙組は風下の席をもらって、でも随は吸いませんでした。
人前ではあまり吸わないたちで、乾杯を済ませると、のんびり冷酒をなめています。
「敬ちゃん支払いは」
「俺の祝いなんだからお前が払えよ」
「俺三千円しか持ってないよ」
「お前さっきゲーセンでかなり使っただろ」
「俺が払おうか」
随は寝ぼけ眼で財布を探しました。
始めて一時間もたってないのに、すぐ酔ってしまいます。
「随さんこっちですよ財布」
「ありがとう久くん」
「本当弱いね」
「つまみ食わないからな、こいつ」
敬は軽くため息をついて、随が札を出すのを止めました。
「俺がまとめて払うよ。ポイントたまるし」
「せけえ。弁護士とは思えないよ」
「弁護士じゃねえよ。ただの事務員」
「何とか書士だろ」
「事務員さ」
弁護士への憧れは薄れていました。
どちらかというと、実務家より研究者になりたかった
事務所のボスは優秀でした。
国際離婚と親権が今の主な仕事範囲です。
「もらった金使った?」
「あんなの生活費にもならない」
随が寝てしまったのをいいことに、敬は本音を吐きました。
「贅沢だね」
随は寝ながら久の側に傾いて、久は黙って兄を見ています。
「愛ちゃん元気?」
「会わないのか」
「会わないよ。理由がないもの」
王は何杯もビールを飲んで、けれどちっとも酔いませんでした。
宴もたけなわというのに、損な体質です。
「いくつの時別れた」
「四つかな」
「それからずっと?」
「親は会ってるみたいだけどね」
不思議な離婚でした。
年子の姉と弟は、父と母に分かたれ、十数年親同士は付かず離れずでありながら、姉と弟は何となく疎遠でした。
「学生時代から付き合ってる女と結婚する奴なんて本当にいるんだね。都市伝説かと思ってた」
王は笑って話題を変えました。
「私も。受け入れてくれるとは思ってなかった」
そのとき個室のふすまがするりと開いて、ゆるく波打つ長髪の愛がそっと姿を見せました。
「こんばんは、愛ちゃん」
「こんばんは、王さん」
ふたりは互いの名を呼んで、しばらく見つめあいました。
染めた髪も瞳の色も、よく似通ったふたりです。
「旦那のお迎え? こき使われてんだ」
「帰る途中だから」
愛は車で来ていました。
「悪いな。主賓が寝ちまうから」
敬が目で示すとおり、随はすっかり寝入って隣の久に寄りかかっています。
「この人が随さん」
愛は近づいて、随の顔をそっと見つめました。
「痛そうね」
下唇の傷に指をのばして静かな寝息にふれると、遠慮して、そっと手を引きました。
「ほら。帰るよ」
王と久に抱えられて、随はぼんやり起きました。
「ありがとう」
両脇を固められ、車で家まで連行されます。
家の鍵は敬が開けてくれました。
「おやすみなさい」
王に支えられてベッドに入ると、随は安心して眠りました。
8.
横腹を斬られたときたくさんの血が出て、随は長くICUに入っていました。
輸血にはRh-の血が必要でした。
あまりにも大量の血が入れ替わったので、一度死んで生まれ変わったような気がしました。
目がさめた時そばにいたのは、父でも母でもなく、若い警察の人でした。
ん……
随は夢を見ていました。
古い昔の夢です。
飲むとたまにこういう夢を見ることがありました。
皆そばにいて
前世の夢のようでした。
「随さん」
揺らされて、随はゆっくり起きました。
「久くん」
目の前には、王ではなく久がいます。
随はすこしわからなくて、軽く頭を振りました。
「お話したいことがあります。夜また来てもいいですか」
「はい」
久は七時前に起こしてくれました。
「学校大丈夫?」
「昼からです」
「早起きだね」
バイクで来たのかなと思いました。
結構遠いのに
「よかったら使って下さい」
随は乱れを直して寝床を貸しました。
授業まで時間があるなら、二度寝したほうがいいと思います。
着替えて顔を洗って、久のおかげで随はいつもどおりの時間に出勤できました。
帰りがすこし遅くなりそうなので、久にメッセージを入れました。
「お疲れさまです」
「待たせてごめんね」
八時頃ラーメンを食べて、ふたり一緒に帰りました。
「ミネラルウォーターしかなくて」
途中自販機で飲み物を買います。
家について灯りをつけて、ふたりはソファに座りました。
久はまっすぐ前を向いて、久がひとりで来たのは初めての気がしました。
「俺は、兄はあなたを利用してると思います」
久は静かに話し出しました。
「四年前家には借金がありました。兄はそれを返そうと働き始めて、そこにあなたがいた。この家もそうです。祖父母の家だったのを売れなくて困ってたところにちょうどあなたが来て、貸した」
随は水が好きでした。
ぬるくなっても飲めるからです。
被害者が加害者を作るという言葉を思い出していました。
被害者がもっと強くて賢かったら
犯罪を未然に防げたら
誰も傷つかないのに
「四百万はとっくに使ったんです。もう返せない」
久は申し訳なさそうでした。
「兄は人を使うのが上手い人間です。もし兄がこれからもあなたを利用しようとするなら、俺は」
そこまで言って久は黙りました。
何と言ったらいいのか
「お兄さん想いですね」
随はまぶしいものを見るように、目を細めて笑いました。
「あの金は俺には、持ってるのも使うのもつらい金でした。あなたの兄さんに使ってもらえたら助かると思った。俺もあなたの兄さんを利用したと思います」
随は姿勢を正すと隣の久を見つめました。
「俺のしたことがあなたやお兄さんを傷つけたなら、本当にすみませんでした」
深く頭を下げました。
俺が親父に斬られずに
止めることだけできてたら
誰も悲しまずにすんだかもしれない
何万回も考えていました
もう無駄なのに
「俺がここに居ないほうがいいなら、出ていきます」
引越し先のあてはありませんでした。
保証人なしOKの物件をまた探さなくてはなりません。
「いえ、そういう意味じゃないんです」
久は強く打ち消しました。
「ここには好きなだけいてください。ただ兄には注意してほしいんです。悪人じゃないけど、利口な人だから。あなたが不利益にならないように」
「ありがとう」
誠実な人だと思って随は礼を言いました。
「俺は皆と会えてすごく楽しいよ。今が一番幸せです」
それは本心でした。
今まであまり自分に近寄ってくれる人がいませんでした。
これが詐欺なら
一生騙されていたい
久は一礼して帰っていきました。
周りの人を傷つけないように
役に立てるように
楽しくやっていけたらいいと、随は思っていました。