ある朝
男の頭で不思議な声がしました
「おい、おきろ」
ききなれた
男自身の声です
「この身体は俺がもらう」
男はぼんやりしながら頭をふりました
その日は気にせず
ふつうに会社にいきました
「おい」
次の日も同じ声で
男はおこされました
何だろう
少し不安になります
「早く出ていけ」
男はさえない顔で会社にいきました
めずらしく早退させてもらうと
近くの医者にいきました
「幻聴ですね」
話をきいた医者はいいました
「薬を出しておきましょう」
処方箋がだされます
男は薬局にいって薬をもらいました
夕食後のもうとすると
激しい頭痛が
突然男を襲いました
「薬なんて飲んでみな。タダじゃすまないぜ」
神経をぐいぐい引っ張られるような痛みが走りました
「お前の神経回路ぐちゃぐちゃにしてやる」
耳元で大声をだされているような
大音量で響きます
男はたまらず頭を抱えました
「お前みたいな腰抜けと一緒にされちゃかなわないからな」
男は薬をのむのはあきらめて
仕方なくそのまま眠りました
次の日目がさめても
男の目は開きませんでした
あれ?
いつも目に入ってくるはずの
朝日や時計がぜんぜん見えません
あれ?!
よく見ると
せまい球の中に閉じ込められていました
「やっとお目覚めか」
自分の声が頭上から
スピーカーみたいにふってきました
「身体もらうっていっただろ」
「お前誰だ」
「お前だ」
男は歩いているようでした
のしのし
振動が伝わってきます
「狭いだろ?そこ」
男はひざをかかえて体育座りをしていました
「6350日待った。そろそろ使わしてもらうよ」
ひざを抱えながら
男は呆然としました
男は2つに別れたようでした
中の男と外の男です
中の男は閉じ込められていました
心臓の音、呼吸の音、のみこむ音、流れる音が
ゴーゴーと絶え間なくします
「工場みたいだろ。夜中もなんだぜ」
男はため息をつきました
「おかげでぐっすり眠れたためしがない」
コーヒーをごくんとのみます
「いいよなあお前は。面倒は全部俺におしつけて。楽しかっただろ? 今まで」
男は何か言い返そうとしました
でもぐっと押さえつけられた気がして
「これからは俺が支配する」
男はのしのし
会社にいきました
会社ではバリバリ仕事をしました
今までの三割増しくらいで
仕事が早く進みます
「今日はすごいね」
同僚のほめる声が中の男にきこえてきました
「お前みたいな能無しとは違うんだよ」
男の声は校内放送みたいに
きんきん割れて響きました
男は家に帰ると
いきなり妻にキスをしました
妻はおどろいて
すこし戸惑います
薬のせいかしら
こんな夫ははじめて
戸惑いながらも
やさしくもてなします
男は酒をのんで酔っ払うと
妻とベッドにいきました
男のあまりの積極性に
妻はおびえていました
「医者の指示なんだよ」
男はやさしくささやきました
「夫婦関係が大切なんだって」
思いあたるふしがあるのか
妻ははっとします
私のせいで病気になったのかしら……
妻は申し訳なく思いました
責任を感じて
求められるまま
男に尽くしました
「ああ…」
男は長年の苦労がやっとむくわれた気がしました
ざまあみろ
このくらいの見返りがなきゃ
やってられないぜ
妻の髪をやさしくなでてやります
わりと若い女じゃねえか
仕込めばまだ使えるな
男がよからぬことを考えているのが
中の男に見えました
「だめだぞ! だめだぞ!」
脳をどんどんたたきます
「ひっこんでな」
男はすぐ小さな球の中へ
閉じ込められてしまいました
「耳くらいは残してやるよ」
妻の息づかいがきこえて
男は絶望的な気持ちになりました
男が変わってから
妻も変わりました
前より照れ屋に
美しくなった気がします
「彼女も俺のほうがいいって」
男は勝ち誇ったように言いました
「同じ身体使ってるのに。技術の差だね」
ショックでした
仕事でも家庭でも
完全に負けています
同僚たちは変わった自分をかなり喜んで
昔の男など忘れてしまったようでした
成績を上げた見返りに
近々昇進の話があるそうです
このままこの身体をこいつに
明け渡してしまったほうがいいんだろうか
男はひざを抱えながら
みじめな気持ちになりました
周りの人は俺よりこいつを欲している
彼女のためにもそのほうがいいんじゃないだろうか
あんな彼女の顔をはじめて見たと思いました
あんなに愛されて
しあわせそうな
隣で眠る妻にふれたいと思いました
男が眠っているすきに
男はうでを伝って指先までいきました
神経が糸のように張りめぐらされていることに
男は気がつきました
ピアノ線みたい
はじくとぴんとふるえます
男はあやつり人形師のように
たくさんの線を動かす練習をしました
毎晩男が寝静まったあと
ぴくぴく指が動きました
ある夜
酒をのみすぎた男はトイレにおきました
ドアをあけると
腰に激痛が走ります
男は思わず腰をおさえました
「こっから下の神経全部引きちぎってもいいんだぜ。二度と立てなくなるがな」
中の男が
恨みをこめて脅します
「待て、バカ」
男は懸命に立ち上がろうとしました
「俺の身体を返せ!」
「この身体は俺のだ!」
男はよろめきながら
キッチンに向かいます
出刃包丁をとりだすと
太もものつけ根に押しあてました
「やめろ!」
男は自分の手をおさえたくても
いうことをききませんでした
大出血して
男は病院に運ばれました
薬をのんでいた(とみせかけていた)ので
があがあ胃を洗浄されます
ざまあみろ
男はぷんぷん怒っていました
こんなことじゃすまないぜ
身体を取り戻すまで
断固戦い続けると誓います
「てめえ…」
男はスピーカーでなく
ようやく姿を現しました
昏睡状態の中
ふたりの男は対峙しました
「この身体を失ったら元も子もないだろうが。大切にしろ!」
男は本気で怒鳴りました
今までどんなにつらいことがあっても
身体だけは守り続けてきたのに
「傷つけやがって。バカ野郎!」
すごい剣幕で叱ります
「お前がひとりじめするからだろうが」
男も負けずに怒鳴りました
「お前こそひとりじめしてきただろうが!」
男は鼓膜がやぶれそうなほど
大きな声で叫びました
「今までずっと、おれがどんなにつらくたってお前は助けにこなかっただろうが!」
閉じ込めて奴隷にして
嫌な時だけ肩代わりさせて
お前はいつも楽なとこばっかり
「俺を守ってきたのは俺だ」
男には自負がありました
「お前なんか消えちまえ!」
男の目には涙がありました
「お前がいるなんて知らなかった」
「そりゃそうだろ。そういうシステムなんだから」
「知ってたら半々に使ったよ」
「もう遅い」
男は怒って
すこし疲れています
「やりたいことがある。たまには貸してほしい」
「嫌だ」
「お前を殺すことだってできるんだぞ」
男は再び脅しました
「この腕を切り落とせば、それもできなくなるだろ」
男は冷たい目で男を見すえました
「あの女、悲しませてもいいのか」
妻のことをいわれると
男は口をつぐみました
しばらく
沈黙の時が流れます
「週末だけかせ」
「俺には仕事ばっかさせるつもりか」
「8:2でお前なんだろ」
自分でだした条件に
男はため息をつきました
「ちくしょう。サボってやる」
「好きにしろ」
ふたりの間で
合意が交わされます
指先にいるとき
男はキーボードの上でダンスを踊りました
キーをうつ手をじゃますると
交代しろのサインです
他にも楽器を奏でたり
絵を描いたりしました
才能なんてないから
でたらめだけど
楽しい
「俺がいなきゃメシも食えねえな」
男はうれしそうにふふと笑いました
「俺がいなきゃケツもふけねえな」
「うるせえ」
外の男が口だけでタバコを開けようとして
あきらめると
悪態をつきます
妻がくる時間になると必ず寝たふりをしました
心配そうにのぞきこむ身体を
抱きしめて
「看護師さん来ちゃうよ」
「いいよ」
いつもそっとキスをしました
容体も安定して
もうすこしで退院できそうでした