「もう行くわ。あんま待たせるのも何だし」
蛍はそう言うとおもむろに立ち上がった。
「お前、あんまキツいこと言うなよ」
光《ひかる》の方が不安になって頼むように声をかける。蛍が席を立つと夕霧くんと柏木くんも無言で立ち上がってこの場を去ろうとした。と思ったら
「朱雀さん」
俺の袖が夕霧くんに引かれて。俺もつられて立ち上がる。
「来て下さい」
俺は蛍の後を追うように、彼らについて歩いた。
「あの、どこへ……?」
「蛍さんがどうするか見ます」
「覗き見するの?!」
俺は人の恋路を盗み見るのは大いに抵抗があったが、夕霧くんは有無を言わせぬ態度だった。
「蛍さんには言ってあります」
「そうなんだ……」
人に見られながら女性と話せる蛍もすごい。どうなってしまうんだろう。
俺は玉鬘さんが居るという夏の町の西の対へ連れてこられると、薄暗い部屋の柱の陰に身を潜めた。ここからは蛍の様子はよく見えるが、彼女の姿は几帳に隔てられていて見えない。先に到着していた蛍は入口の女房に取次を頼むと、席を作ってもらい御簾の前に座っていた。
「文をありがとう」
御簾の内にいる人に話しかける蛍はとても落ち着いていた。長い付き合いだけど、恋人と話す蛍を見るのも初めてだな。いや恋人ではないのか……。彼の声の調子はいつもと同じで。ただとても優しくて温かかった。
「あいつ変なことしてないすか」
相手の女性は少し笑うと、微かな声で答えた。
「抱き寄せて髪を撫でては下さいますけど、それ以上は……」
よくそれ以上行かないなと思いながら俺はヒヤヒヤして聞いた。俺にどんな未来を変えられるっていうんだろう。覗き見なんてして大丈夫だろうか……?
二人はしばらく黙っていて。闇に目を凝らして見ると、俺をここに連れてきた夕霧くんや柏木くんはいなくなっていた。二人に気を利かせて立ち去ったのかもしれない。
「貴女を好きですって言いたいんすけど。俺、長年連れ添った妻亡くして、子供らもいて。難しいです」
蛍は正直だった。玉鬘さんを絶望させるなと光は言っていたけれど、結局正直に話すのが一番傷は浅いのかもしれない。
「誠実な方ですね」
中の女性は残念そうに、でも少し微笑みながら言った。
「どんな未来を夢見て京に来たんすか」
「何も……ただ、強引に言い寄ってくる男から逃げたくて来ました」
「そうですか」
蛍は残念そうにうなずくと
「すいません、あいつが迷惑かけて」
光の言動について謝罪した。蛍って光の弟なんだけれど、しっかりしているから兄みたいに見える。
「私を愛してくれる方は、この京にはおられないのでしょうか……?」
彼女が悲しげに尋ねるので、俺は胸が苦しくなった。
「旦那様も私を弄ばれるだけで。夫にはなって下さらないと思います」
彼女は鋭くて。光の最・愛・の・妻・にはなれないことを見抜いているようだった。
「現れますよ、必ず」
蛍も苦しそうだった。でもできる限り優しく答えている。
「こども、好きですか」
蛍がおもむろに尋ねると
「はい」
彼女は嬉しそうに答えた。
「でも、私にできるのかしら……恋人すらできそうもないのに」
俺は彼女が寂しそうにつぶやくのを聞いていられなかった。こんなに苦労しているこの人をどうして天は救わないのだろう。筋書きにない人が現れて、彼女を救い出してはくれないのだろうか。予言書に書いていない奇跡は起こらないのか……。
蛍も俺と同じ気持ちなのか、だいぶ長い間黙っていた。そこにふわりと黄緑色のひかりが現れて。彼女の周りを明滅して飛び違った。ホタルか……? 女房か誰かが帷子《かたびら》に包んだホタルを放したようで、その淡いひかりに照らされ、彼女の影が浮かんでは消えた。
「……」
蛍はホタルたちのひかりを見ると、悲しそうにため息をついた。
「下がって」
彼女を部屋の奥へ下がらせると、目の前の御簾を少しだけ持ち上げる。ホタルたちは外の空気につられたのか、次々と蛍の方へ舞い集ってきた。呼吸するような明滅に合わせて、蛍の姿が幻想的に浮かび上がる。
顔や肩の周りを飛ぶのを追い払うでもなく、蛍は小さな虫たちを外へ逃がそうと立ち上がった。暗い廊下に黄緑色のひかりが揺らめきながら反射する。点いては消える蛍火は一晩だけ黄泉帰った死者の魂のようだった。ホタルたちは蛍の優しげな横顔を照らして。
「綺麗だなー」
蛍も小さくつぶやいて微笑む。まとわりつくホタルたちは蛍の周りをなかなか去ろうとはせず、久しぶりに会えた人と懐かしく話しているようにも見えた。蛍は沓を借りてホタルたちと共に外へ降りると、一匹ずつ空へ帰しながら
「……さよなら」
彼女にそっと別れを告げた。