午後、急ぎの書類を印刷しているときだった。
「やべえ、A4切れた。どこにあったっけ?」
「キャビネットの一番下の段。ないか?」
「空っぽだよ」
「仕方ねえ。倉庫まで取り行くか」
忙しいのにって顔で小萩くんが舌打ちした。
「私、行きましょうか?」
私は自分も印刷したいものがあったから、控えめに手をあげた。どうせ紙がなくちゃ、先に進まないし。
「いいか? 重いぞ」
「台車借りて行きますね」
私は配送業者の人みたいに、銀の台車をゴロゴロ押してエレベーターに乗った。
たしか、地下1階だよね……。
あまり行ったことがないから、すこし迷ってしまう。
備品置き場、備品置き場……。
人通りのない廊下をゴロゴロ、台車を押して進んだ。ここらへんかな。
コピー用紙が積んである部屋があったので、台車を押して入る。
A4どのくらいいるかなあ。あまりたくさん持って行っても、しまえないし……。
100枚の束をひとつずつ、7個台車に積んだ。こんなもんかな。
ふうと一息ついて、台車だけを廊下に出した。部屋を見渡して、すこし片づける。
これでいいかな。
そろそろ戻らなきゃと振り向こうとした時だった。
……っ!
突然後ろから口を押えられて、声を失った。つよく抱きしめられて、身動きがとれない。
「やっと会えたね」
地の底から響くような声だった。
「会いたかったよ、ハルカ」
昔はもっとやさしかった気がするのに。今はもう、何をしてもおかしくないような、遼くんの声だった。
◇◇◇
「しばらく、だーれも来ないよ」
遼くんは警備員の服をきていた。白い手袋で私の口を押える。
「監視カメラ見ながら、ずっと待ってたんだ。ハルカが一人になるのを」
遼くんは昔より力がつよくなった気がした。密着しすぎてて、怖い。
「ハルカ、男と住んでるの?」
「寝られるようになったら、俺を呼んでって言ったよね?」
「ずっと待ってたのに」
遼くんはつづけざまに話すと、すこし笑った。私の耳元に口を近づけて囁く。
「許さないから」
私は金縛りにあったような、絶望的な気持ちがして、動くことができなかった。
スマホがあれば、助けを呼べたのかな。
ちょっと紙を取りに行くだけだからと思って、スマホはデスクに置いたままにしていた。
「あの男とは寝たの?」
遼くんは私を振り向かせると、制帽の下から睨むように見つめた。
「気持ちよかった?」
部長とは寝てないんだけど。何を言っても怒らせる気がして、怖くて声が出ない。
「俺にもしてよ」
遼くんは懐から鋭いナイフを取り出すと、私にちらつかせて笑った。
腰から首にかけて、私のブラウスの背中をツツ―っと、ナイフの刃先を這い上がるように動かす。
「キスして」
私はあまりの怖さにただ固まっていて。遼くんに刺されても、仕方がないと思った。
遼くんは右手でナイフを動かしながら、左手で私の頬を撫でる。
そっと唇が近づいたとき
「香住!」
大きな声がして、私は我に返ったようにビクッとした。
アキノくんが私たちを見下ろしていて
「あんた、何してんの」
遼くんの右手を鋭くつかむと、アキノくんは凄みのある声で言った。
抱きしめながら背中にナイフを当てる、という姿勢に無理があったのか、遼くんは右手をひねられると、あっさりナイフを落とした。
アキノくんが革靴でナイフを廊下に蹴って。遼くんを取り押さえる。
私は呆然として、自分のことじゃないみたいに二人を見ていた。
「香住。通報して」
アキノくんが目で示すので、私はアキノくんのポケットからスマホを取り出すと、警察に通報した。
◇◇◇
できるなら警察沙汰にしたくない気がした。
でもアキノくんは毅然とした態度で、遼くんを取り押さえているし
「アキノー! さぼりかー?」
あまり遅いから小萩くんも見に来てくれたみたいだった。
「お前……何してんの」
「そのナイフさわんなよ」
アキノくんは怒ったように言うと
「部長呼んで。ケーサツ来るから」
小萩くんはアキノくんと遼くん、呆然と座り込む私を順に見つめると
「お、おう」
急いで知らせに行ってくれた。
「ハルカ!」
部長の声が聞こえたとき、凍っていた心が溶け出すように涙があふれた。
どうしよう。今まで何も考えられなかったのに。
心配そうな部長の顔を見たら、泣けて泣けて、涙が止まらない。
パトカーのサイレン音がやんで、警察の人がやってきた。
他のフロアの人も何ごとかと覗きに来ている。
「背中……血出てるぞ」
部長は青ざめた顔で、私の肩に背広をかけてくれた。
ナイフで切れたのかな。私はショックで痛みがわからなかった。
「無事ですか」
警察の人にきかれるけど、涙で何も答えられなかった。
アキノくんが代わりに話してくれる。
遼くんは警察の人に手錠をかけられ、静かに連行されていった。
私の横を通り過ぎるとき、薄く笑って
「また会おうね」
ちょっと出かけてくるような、気軽な調子で言った。