柏木くんに貸し出された予言書は数日で写して返却されたそうだった。柏木くん大丈夫かな……。俺は不安だけれど何もきけずにそのまま新年を迎えた。光《ひかる》三十九歳、冷泉さんは二十一歳になられる。夕霧くんは十八歳。皆俺よりしっかりした大人になられた。
「兄貴久しぶり」
「あけましておめでとうございます」
新年の忙しい行事も終わった一月後半、光が招いてくれたので俺は六條院にお邪魔した。
「兄貴さ、俺たちが玉ちゃんに何かいかがわしいことしたと思ってるでしょ」
「えっ……思っ、てないよ」
俺は思わず目を泳がせながら答えた。
「わかりやすいなーもう。俺たちはや・さ・し・く・してあげただけだよ。まあ内容は言えないけどね」
「そっか」
俺は顔が赤くなるような気がしたが、なんとか聞き流した。玉鬘さんが幸せになられるといいが。
「お子さんが生まれたのは、よかったんだよね」
「もちろん。玉ちゃん今頃可愛がってるよ」
「良かった……」
俺は思わず涙がこぼれるので、恥ずかしくなって拭った。
「なに泣いてんの。年取るとこれだからなあ」
光は呆れたように苦笑している。
「今年はうちの子の裳着だからね。春宮様の元服と一緒にやるから」
「そうなんだ。おめでとうございます」
俺は早いなと思った。もうそんなに大きくなられたのか。
「裳着が終われば入内させるからよろしく」
「うん。こちらこそよろしくね」
春宮にお嫁さんがくるのかと思うと感慨深い気がした。俺より優秀な子だとは思うけれど。女性に優しくしてくれるといいなと思う。
「春宮様とうちの子は仲良しで孫もたくさん生まれるからね」
光はそれが楽しみのようでニコニコしながら話した。
「へえ、おめでとうございます」
「いや兄貴の孫でもあるからね」
「あっそうか」
孫がたくさん……。何か想像できない気がした。
「たくさん生まれても、お嬢さんは平気なんだね」
「うん。平気平気」
「よかった」
体の丈夫な方なのかな。俺は葵さんと夕霧くんのことを思っていた。お母さんのいない子が珍しい存在になってほしい。今の夕霧くんがダメなわけじゃないけれど。葵さんが生きておられたら、今とは違う夕霧くんが見られたのだろうか。
「最初に生まれる孫が男の子で次の春宮になるんだよ。うちの子は后になるんだ」
「そう。おめでとうございます」
俺は光が未来の春宮の祖父になることを祝ったが、ずっと気になっていたことをつい尋ねてしまった。
「冷泉さんにお子さんはできないのかな」
「在位中はね」
「在位中はって……」
俺は驚いて光を凝視した。
「院になると娘ができるんだ。息子は遅くて。五十代」
「五十代……」
冷泉さんを深く傷つけた予言の正体はこれではないか。怖い本だと思った。十一から即位している若く健康な帝に一人の子もできないなんてことがありえるだろうか。あれほど仕える女性たちがいながら皇女すらお生まれにならないなんて……。
俺は今まで大きな勘違いをしていたのではないかと悲しくなった。女性を選り好みされないのは、彼女らが最も欲しがる子を授けられない運命をご存じだったからではないか。誰か一人でもお気に入りを作ってしまえば、その人が責められることにもなりかねない。すべてを女性たちに合わせ別け隔てなく付き合うことで、子ができないのは彼女たちのせいではないと伝えたかったのではないか。「誰の子かは選べるかもしれない」というお言葉も。ご自身のつらい運命に抗いたかったのかもしれない。
「後嗣《あとつぎ》が生まれてほしいんだけどね」
光もかなり残念そうにつぶやく。
「俺が悪かったのかな……」
光はかすれた声で言うと悲しげに目を伏せた。冷泉さんは帝の孫だが、子ではない。血筋としては直系なのに。続いてはいけないのだろうか。
「俺が帝になるのは良くないって昔|相人《そうにん》に言われたことがあってさ。気が進まなかったんだ。でも俺が帝になってたら……変えられたのかな」
光が即位したとして冷泉さんの運命を変えられたのかどうか。俺にはわからなかった。ただもし藤壺さんが入内されず、光と普通の恋人同士になれていたら。冷泉さんは即位なさるよりずっと幸せだったのかもしれない。
「俺が何とかするから、つらかったら譲位しようと前から伝えてるんだけど。冷泉さん『最後まで予言通りにしたい』ってきかないんだ。『私のことは気にされなくていいですから』って」
そのお言葉に俺は胸が塞がる思いがした。譲位しても権力を失うだけで何も残りはしない。それならせめてご自身の役割は全うしたいお気持ちなのかもしれない。
「冷泉さん、つらいだろうね」
俺は冷泉さんの御胸中を推し量ろうとしたが、到底無理だと思った。苦しかった。彼の子は譲位後にしか生まれない。「帝としては」残せぬ血だと告げる予言に思えた。その運命をご存じの上で、十四歳から生きてこられたのか。
「冷泉さんの御世も終りが近いの?」
「あと八年だね」
「八年……」
もっと長くいて頂きたいけれど。俺たちは冷泉さんのご厚意に甘えすぎたのかもしれない。子を残すことが全てではないと俺は思っているけれど、これではあまりにも彼の存在を否定して、繋ぎとして利用し使い捨てている感じがした。彼に守られて平穏無事に暮らしている俺たちには孫まで生まれるのに……。
尽くすだけの未来を知りながらこれほどの治世を下さるなんて、俺ならとてもできないだろう。なぜ彼一人がそこまで背負わなければならないのか。そんな運命を見せられたらバカバカしくて、俺なら間違いなく即出家する。誰の指図も受けないし後のことなんて知るもんかと思う。
「もっと楽になってもらえるように、何か考えるわ」
光は前を見据えながらつぶやいた。あと八年、どんな恩返しができるだろう。俺も何かお力になりたい。冷泉さんがお喜びになられることって何だろう。俺は夕霧くんの幸せしか思いつかずに。改めて冷泉さんの偉大さを思った。