「部長、やっぱり私、引っ越してもいいですか」
翌日も晴れていい天気だった。
海辺の道を乗せてもらいながら、私は前を見つめて言った。
「いいよ。いつ来る?」
「あ、いえ。私一人暮らしします」
部長はしばらく黙って走ったあと信号待ちで停まると、私のほうを向いて尋ねる。
「俺んち、嫌?」
「いえ、居心地がよすぎて。ダメになると思いました」
「ダメになれよ」
「奥さんが」
私は、人の家庭に口を出すのはこれで最後にしようと思いながら言った。
「別れた奥さんから、連絡来てますよね」
昨日のベッド。おうちのテーブル。
私が泊めてもらうようになる少し前から、部長のスマホはよく鳴っていた。
全部が奥さんとは限らないけど。
スマホを持ってさり気なく部屋を出て、真剣な顔で話していることが何度もあった。
「奥さんが何かに困って部長を訪ねてきたとき、私がいたら迷惑でしょうから」
誰より私自身が気まずいなと思っていた。
「俺のこと、嫌い?」
「逆です。別れた奥さんとお子さんをいつまでも気にかけてくれる人だったら。一生愛します」
私はつい宣言した。
「言ったな」
部長は長い直線でギアを上げるとニヤと笑った。
「誓えよ」
今度こそ怖くても逃げずに、行けるところまで行こう。私は部長とアキノくんに誓った。
◇◇◇
部長にああは言ったものの、すぐに引越し先が見つかるかなあ。
今は月の終わりだから。来月までに見つかって引っ越せるといいけど。
私は帰り道、部長のお家に寄って今までの荷物をまとめると、自宅まで送ってもらった。
久々に帰る、自分の部屋。
「おじゃましまーす」
荷物を持つという名目で、部長が部屋までついて来て下さった。
一人で入るのはやっぱり怖かったので、心底ありがたい。
「サッパリしてんなあ」
部屋にはベッドとこたつ、テレビくらいしかめぼしい家具はなかった。
何も、変わってないよね……。
遼くんが入った痕跡がなくて、とりあえずほっとする。
「今日泊まっていい?」
「駐禁取られますよ」
「電車で来なおすよ」
部長は私の荷物を置くといったん帰っていった。
もう来ない気がするなあ。
案の定後から「ごめん、今日無理になった」という連絡が入る。
奥さんの用事かな。
私は寂しかったけど、これでよかった気がした。
「本当に、いろいろありがとうございました」
お礼のメッセージを返して。
今まであまりにもお世話になってしまったから。
部長が自分の時間を持って下さったことに、ほっとしていた。
「えーと、お部屋さがしお部屋さがし」
お風呂に入って一息つくと、パソコンで賃貸マンションを検索した。
どうせなら、今より会社のそばがいいかな。
部長の部屋のあたりは……ちょっと家賃が高いなあ。
引越しはけっこう好きだから、ワクワクしながら探す。
駅からの距離より、交番がそばにあることを優先しようかな、なんて思った。
本当は仕事を辞めて、どこか遠くへ引っ越すべきなのかな。誰も私を知らない、迷惑のかからない場所へ。
でも「そばにいてほしい」という部長の言葉が耳に残って、どうしても決断できなかった。仕事好きだし、生活もあるし……。
部長に抱きしめてもらった時の安心感が忘れられなかった。
私も、ズルくなってもいいかな。部長から別れたいと言われるまでは。そばにいたいと思った。
◇◇◇
「具合どう?」
月曜日出社すると、喫煙室から出てきたアキノくんが声をかけてくれた。
「大丈夫だよ。ありがとう」
アキノくんにもいろいろお世話になったなあ。丁寧に頭をさげる。
「私引っ越そうかなと思って」
「部長んち?」
「ううん、一人暮らし。今探してるんだ」
アキノくんはしばらく考えていたが
「俺の下、くる?」
ときいた。
「えっ?」
「俺の下の部屋空いてるけど。よかったら来れば?」
「いいの?」
私は驚いて、すこし身を乗り出してきいた。
「天井薄いから生活音丸聞こえだけどな」
いい。いい。神さまの生活音がきけるなんて。
私は自分の生活音を垂れ流す懸念も忘れ、うんうんうなずく。
「俺の飼ってるネコたまに預かってくれると助かんだけど。ネコ平気?」
「うん。大好き」
「じゃ大家にきいてみるわ」
「ありがとう!」
私はうれしくて、思わずニコニコしてしまった。
クールな上にネコも飼ってるなんて。やっぱり最強だなあ。
どんな感じで可愛がってるんだろう。みたいなあ。
アキノくんの真下に住めたら……
仕事終わりに一緒に帰ったりできるかなあ。遅くまで飲み会があっても平気だし。
あ、でも、あまりベタベタしたら嫌われるよね。
うれしいな。うれしいな。うれしいけど、もし遼くんに見つかったら……。
私はウキウキしたかと思えばふと落ち込んだりして、忙しなかった。
フロアのみんなはびっくりしたかな。金曜に襲われた人が、月曜にこれだから。
「ハルカ、なんかあったか」
昼休み、部長がみんなを代表して怪訝そうにたずねてくれた。
「アキノくんの下のお部屋が空いてるらしくて。大家さんにきいてくれることになりました」
「おおー、アキノんちかあ。一度行ってみたかったんだよな」
「いや、下の部屋ですよ」
「変わんねーって。どうせお前んちにも泊まりに行くんだから」
「そうなんですか?!」
「うん。月の半分は俺の部屋にきてよ」
部長はニコニコして言った。部長の用事も片付きつつあるのかな。
「アキノ大丈夫か? こいつ命狙われてんぞ」
部長はデスクに座るアキノくんにわざと冗談めかして言った。
「俺ああいうの許せねー性質《たち》なんで。望むところす」
アキノくんは口の端だけで笑って。メガネの奥の瞳がつよく光った。