「なにか、お話をして下さいませんか。」
少し夜ふかしして月を眺めていた夜、葵さんからこんな文が届いた。葵さんも寝られないのかな。葵さんも同じ月を見ているのだろうか。
「どんな話がいいでしょう。異国の話でも構いませんか。」
俺はのんびりした気持ちで書いて使いに渡した。すでにある話をそのまま書くのもつまらないかな。俺の手元にある面白そうな書物はだいぶ葵さんにお貸ししてしまい、彼女の女房たちが写して返してくれた後だった。
「春宮さまにおまかせします。」
葵さんもゆったりとした筆致で書いてくれて。
「では海の国に住む姫君のお話をいたしましょう。」
俺は話にきくだけで見たことのない海に憧れていたので、そんな書き出しで物語を始めた。
「昔むかし、海の国に一人の姫君が住んでおられました。海の国に住む人はみな泳ぎが上手くて、海の底でも息ができます。姫君は親きょうだいに可愛がられ幸せに暮らしておりました。しかしあるとき、地上の男に恋をしました。」
書いてから大丈夫だろうかと不安になってきた。俺に恋の話なんて書けるのだろうか? でも葵さんは好むかもしれないな。昔読んだ物語をいくつか織り交ぜながら筆を進める。
「男は乗っていた船が難破して浜にうち上げられておりました。このままでは死んでしまいます。姫君は海の王様にお願いしました。どうかあの方をお助けくださいと。ですが王様は悲しそうにおっしゃいました。
『あの者ひとりを助けることはできない。命に特別はないのだよ。だがどうしても助けたいと言うならお前を陸へあげてやろう。そこで介抱してやりなさい。そのかわり、一度陸へあがるともう海へは戻れない。彼らのように海で溺れる体になってしまうが、それでもよいか』
『はい、よろしゅうございます。ありがとうございます、王さま』
姫君はよろこんで陸にあがりました。そしてうち上げられたいとしい人を一生懸命介抱しました。」
俺は考え考えそこまで書くと、くるくる巻いて葵さんへ送った。どうかなあ、これは。葵さんのお気に召すだろうか。俺は返事を待つつもりがついウトウトしてしまったらしく、気づくと夜明け前になっていた。俺のそばには青い巻物がひとつ、そっと置かれてあって。中を開くと美しい姫君、果てなき海、打ち上げられた難破船など、俺の話にあわせた絵が描かれていた。
「面白いな」
俺は嬉しくなって葵さんの配慮をありがたく思った。葵さんもこの話を楽しんでくれているのかな。俺は次の夜も同じような時刻に話を書いて、葵さんへ送ることにした。
「男はやがて目を覚まし、姫君に礼をしたいと言いました。彼は地上の国の王子だったのです。姫君はうれしいけれど、じっと見られるのが恥ずかしくて思わず逃げようとしました。ところが王子は姫君の手を取り片時も離してくれません。王子は姫君を迎えの船に乗せて自分の国へ連れ帰りました。」
なんだか好色な展開になってきたなと俺はヒヤヒヤした。
「王子の国では彼の帰りを皆が喜びました。彼は長い間行方不明で亡くなったのではないかと思われていたのです。王子は姫君にきれいな邸を与え召使いをつけました。たまに会いにきますが一緒には住みません。実は王子には先に結婚していた妃がいたのです。この方は若く美しくとてもやさしい方でした。だから王子も大好きで、生還した喜びをまず彼女に話して聞かせました。
『この子が僕を助けてくれたんだ。とてもやさしい子でね。くにがないというから可哀想で連れてきた。世話をしてもいいかな』
『あなたの命の恩人ならそれは歓待しなくてはなりませんわ。明日にも宴を開きましょう』
海の姫君は困って顔を赤くしました。お妃さまはとても美しく、若いのに品があります。自分のことを大切にしてくださるのもひとしおでした。ですが海の姫君にはそれがだんだんつらく、苦しくなってきました。王子と妃の幸せそうな姿に、姫君は人知れず涙がこぼれました。」
一息に書いてしまってから、さすがにこれはまずかったのではないかと俺は思った。この姫君は幸せになれるのだろうか。海の国にはもう戻れないのに……。
これを送るか書き直すかかなり迷ったが、結局このまま送ることにした。いくら作り話でも綺麗事だけではつまらないだろうから。
葵さんはしばらく返事をくれなくて、俺はついに怒らせてしまったかなと思った。ところが数日後、たくさんの挿絵が入った返事が返ってきて俺はほっと胸をなでおろした。妃が主人公の姫君以上に美しく描かれているなあ。葵さんのお邸ではお妃さまは葵さんのことだと思っているのかもしれない。
「女房たちまで読みたいと申しますので、皆に回していたら時間がかかってしまいました。遅くなりましてすみません。」
美しい挿絵の横に小さく、申し訳なさそうに説明してくれるところに葵さんの優しい人柄を感じた。女主人として皆に慕われているんだろうな。俺はつい嬉しくなってきて、次の夜もまた書き進めた。