冷泉さんに入内している女御は三人おられたが、六条御息所さんの娘である梅壺女御が中宮になられた。お母様が后になれなかった無念を晴らした形だろうか。
俺は嬉しく思ったが他の女御は悲しんだだろうなとも思った。特に一番先に入内していた弘徽殿女御はガッカリしただろう。母も弘徽殿女御だったが、后になるには縁起の悪い局なのかもしれない。
この年|光《ひかる》は太政大臣になり、右大将さんは内大臣になった。そして光は内大臣さんに政務を譲ってしまった。内大臣さんは昔から光と競う気持ちの強い人だが、娘である弘徽殿女御が后になれなかったことは相当悔しかったようだ。もうひとり娘さんがいるようで、その子に望みをかけているらしい。
俺はこの頃、冷泉さんに言われて箏を練習していた。
「夕霧くんの加階のために見せ場を作りたいので。朱雀さんも協力して下さい」
冷泉さんはいつも微笑んで有無を言わせぬ指示を下さる。どうも来年にも朱雀院へ行幸があるらしい。うちに皆が来てくれるのは嬉しいけれど緊張する気がした。大勢の来客を楽しませることができるだろうか。俺は大規模行事は苦手なので、かなり前から心構えが必要だった。
「私が教えてさしあげましょうか」
いつも俺にくっついている朧月夜さんが、必ず同じ調べでつまずく俺を見かねて言ってくれた。
「箏・を・教えて下さいね」
「もちろんです♡」
琴柱の位置や指の運びなど、まさに手取り足取りだった。朧月夜さんが師匠になってお手本を弾いて聴かせてくれる。
「お上手ですね……」
箏は女性に似合うなと思いながら、俺は朧月夜さんのお手本を見て聴いていた。
「さ、もう一度」
俺が真剣に箏に向かっていると
「朱雀様」
取次の女房がいつになく困った顔で俺のところへ来た。
「冠者《かんじゃ》の君《きみ》が来られていますが、お顔が」
冠者の君というのは最近元服した夕霧くんのことだった。俺が急いで廊下に出ると、ちょうど向こうから歩いてきた夕霧くんと出会った。
「夕霧くん、どうしたの……?」
夕霧くんは口元に濃いあざを作っていた。
「内大臣に殴られました」
夕霧くんは何事も無かったかのように答える。俺は近くの部屋へ夕霧くんを招いて座った。
「殴られたって、どうして」
「雁に手出したと思われて」
雁というのは内大臣さんの娘さんの雲居雁さんのことだろうか。雲居雁さんと夕霧くんは従姉弟同士で、幼い頃から同じ邸で祖父母に育てられた仲だった。
「思われてというのは、実際には違うの?」
「はい。雁がそうしてほしいと言うので」
俺はよくわからなくて、首をかしげた。
「春宮様に入内させられる前に、俺が手出したことにしてほしいって」
俺はそこでやっと事情がわかってうなずいた。
「内大臣さんが雁さんを春宮にあげようと思ってたけど、雁さんは嫌がったってことだね」
「そうです」
「そのために……」
俺は夕霧くんの痛そうな口元を気の毒に思った。女房に水を入れた桶を頼み、浸して絞った布を夕霧くんへ手渡す。
「ごめんね。春宮のせいで」
「いえ」
夕霧くんは濡らした布で傷口を冷やしながら淡々と話した。
「俺は雁が春宮様へ入内しても良いと思ってます」
「そうなの?」
「后になれるかもしれないし」
夕霧くんは俺へ布を返しながら少し遠くを見る。
「夕霧くんは優しいね。彼女のためにそこまでして……痛かったでしょう」
俺はしみじみ感心して言った。無実の罪を被って女の子のために殴られるなんて凄い。内大臣さんのような体格の良い人に殴られたら怖かっただろうに。
「光も夕霧くんのこと褒めてたよ。真っ直ぐで賢い、さすが葵さんの子だって」
俺の言葉を聞いても夕霧くんの表情は変わらなかった。やっぱり俺の口からじゃ伝わらないかな。
「あの本が全てじゃないことはわかってます。あれには母さんと朱雀さんのことも書いてなかったし」
夕霧くんは鋭い視線で前を見つめると、真っ直ぐに俺を見た。
「どうしても未来を変えたくて。足掻くつもりです」
それだけ言うと一礼して、夕霧くんは帰っていった。