翌朝顔を洗っても左目は開かないので、俺は白い布を巻き付けて左目を覆った。女房たちが心配して祈祷を頼もうかと言ってくれたが丁寧に断る。
「みかど、大后さまがひどくお悩みのご様子です」
母付きの女房からの報せをうけ局《つぼね》を覗くと、母は珍しく苦しそうに伏せていた。俺は母が病に罹ったのを初めて見た気がした。
「祈祷をさせましょうか」
「頼む」
俺は女房たちに頼んで僧を呼んでもらった。母の隣に座ってしばらく様子を見守る。
「背を、さすってくれぬか」
「はい」
俺は苦しそうに上下する母の背をさすった。
「そなた、目が……」
母は俺の目に初めて気づくと心配そうな顔をしたが
「平気です」
俺は微笑んで、母の気が済むまでその背をさすっていた。
「太政大臣がお隠れになりました」
その夜届いた知らせは母をより不安にさせたが、俺にはどこか当然の成り行きに思えた。亡くなられたか。ついに身内の死を願うまでに成り果てた己が虚しかったが、是非もなかった。俺は祖父の喪に服し、これで光《ひかる》を呼び戻す障害が一つ減ったと思った。
「それがすごい嵐だったんだよ。三月|朔日《ついたち》の晴れた日に浜辺で陰陽師呼んで御祓してたら、急に空が真っ暗になって嵐になったんだ。ひどい雨風に雷、波も高くて。毎日毎日荒れ模様でよほど京に帰ろうかと悩んだけど『波風におびえて戻ってきた』と言われるのも癪だしと思ってたら邸に雷が落ちて焼けちゃって。俺もう死ぬんだと思った。そしたらウトウトした夢に父上が出てきて『住吉の神の導くままに舟出して浦を去れ』って言うんだよ。舟って言ってもと思ってたら翌朝ちょうど向こうから舟がきて明石に招かれたんだよね。不思議な夢だった。」
光は明石入道という人の邸に招かれたようだった。明石は須磨の浦より住みやすく賑やかな場所らしい。俺は自分も父上の夢を見たことを書こうかと思ったがやめておいた。
「無事に落ち着けてよかったね。こっちも三月はひどい雷雨でみんなこの世の終わりかと心配してたよ。母は珍しく病にかかるし祖父はこの前亡くなったんだ。重しになる人が減ったから帰ってきやすくなったよ。ただ風光明媚なところならゆっくり楽しんできてね。」
勝手に京を追い出しまた勝手に連れ戻すというのも失礼なので、俺は光の予定をきいておこうと思った。いつでも帰れるなら無理に急ぐ必要もないし。
俺はわざわざ明石から来てくれた光の従者に京の家に寄ってから帰るよう伝えて、衣装や酒などを褒美に持たせた。光が少しでも京落ちから長期滞在の旅人気分に変わってくれるといいんだけれど。
「光る君《きみ》をそろそろ呼び戻しましょうか」
「まさか……罪に落ち京を去った人を三年もたたずに許すなど」
母は忌々しそうに唸っていたが、肩を上下させ息も切れぎれでつらそうだった。
「罪と言っても冤罪ですから。光る君が戻られれば母上の体調も良くなるかもしれませんよ」
俺がそう言うと母はむっとして黙ってしまった。そんなに無理して恨まなくても。俺は母に呼ばれて看病したり回復を祈ったりしながら日々を過ごした。