俺の子である春宮は即位して今上帝となられた。今を保たれる帝という意味でこう呼ばれる。冷泉さんより八つ下なので今二十歳だった。例の予言書では最後まで今上帝の御世が続くらしく、長く帝位につかれるようだ。
「謹んで御即位のお慶びを申し上げます」
俺は息子を帝と呼ぶことに慣れないながらも嬉しい気がして、彼を応援した。冷泉帝は御所を去られ院に移られた。帝の重圧から解放されて、ゆっくりお過ごし頂ければと思う。
俺は冷泉さんの譲位を惜しみ、息子の即位を祝ったその足で西山へ帰ろうと思ったが、冷泉さんからの使者に呼び止められて短い文を受け取った。
「夕霧くんと六條院に伺っています。朱雀さんもぜひどうぞ。」
俺にはつい先日冷泉さんと夕霧くん兄弟の真剣な対話を見てしまった罪悪感があったが、直々の仰せなので伺うことにした。
◇◇◇
「こんばんは」
冷泉さんは夕霧くんの居所である夏の町でのんびり座っておられた。白い直衣に紫苑色の指貫をお召しになられて。結われていた御髪も解かれ、とてもリラックスした表情でくつろいでおられる。
「やっと譲位できました」
そう仰るので、俺はこれまでのご苦労を思って胸がいっぱいになった。
「降りてこそわかる重圧ですよね」
「ですね」
二人してまた帝あるあるに頷いてしまう。
「今日は父上が譲位をお祝いして下さることになりまして」
「譲位って祝うことなんですか」
俺は思わず苦笑してしまったが、冷泉さんの責任感の強さを思えば解放を祝すのも当然のような気がした。
「祝いではなく慰労です」
しっかり者の夕霧くんが正確を期すために訂正してくれる。
「院になると身軽になりますね!」
冷泉さんはそれがもっとも嬉しいことのようで、微笑んで仰った。
「六條院にも来ていいとお許しを頂きまして。とても嬉しいです」
ずっと御所に縛られていた冷泉さんが光や夕霧くんと、家族と自由に会えるようになったんだと思うと感慨深い。
「俺は居ない時もありますから。連絡は下さい」
冷泉さんの隣に座る夕霧くんはいつものように鋭い目をしていたが、その青瞳の奥に泉のように尽きせぬ優しさを湛えているのがわかった。
「はい」
冷泉さんは素直にうなずくと微笑まれて。夕霧くんに会いやすくなったことが何より嬉しいんだろうなと俺は思った。
「おりゐのみかどー。あ山のみかどもいるー」
蛍は俺たちの部屋をひょいと覗くと声をかけてくれた。
「大納言大将、手伝ってー」
そう呼ばれて夕霧くんが立っていく。ここは人払いしているので今夜は蛍自ら宴の準備をしてくれているようだ。二十五歳で大納言と呼ばれるのはなんだか大げさな気がするが、いつも堂々として落ち着きのある夕霧くんに似合っている気もした。
新帝が即位されて髭黒さんは右大臣に、夕霧くんは大納言になった。玉鬘さんは夫の加階を喜んでおられるかな。夕霧くんもそのうち大臣になるんだろうか。太政大臣だった柏木くんのお父さんは冷泉帝の譲位に合わせて辞表を出し、致仕大臣と呼ばれた。
「院が増えたなあ」
光も夏の町に来て、揃って座る俺たちを見て苦笑したが嫌そうではなかった。
「父上こんばんは!」
「こんばんは」
二人はやっぱりそっくりだけれど光のほうが父の顔をしていて。冷泉さんを見守る眼差しが優しい。光はしばらくじっと冷泉さんを見つめていたが、急に彼に近づくとひざまずきばっと音が立つほどの勢いで正面から抱きしめた。
「……!」
不意に強く抱きしめられ、冷泉さんは珍しく驚かれていた。
「おかえり」
ため息交じりにつぶやいて、光は目を閉じた。
「ごめんな、つらい思いをさせて」
両袖で包み込むように冷泉さんを抱きしめながら、声を震わせている。
「本当に……すまない」
必死に涙をこらえる光の姿に俺も胸が詰まった。全て背負わせてしまったという思いは俺も同じだった。子に罪はないのに。結局冷泉さんお一人が除け者になられ、他の皆は救われて。皇統が続いていく。
冷泉さんはゆるく御首を振られると
「……ただいま、戻りました」
ホッとなさったように御目を閉じられ、微笑んで仰った。俺は二人が父子に戻れた十四年前を思い出していた。「一人ではあまりにも重い」と仰っていたのに。俺たちだってできることは何でもしたかったのに。どうしてあの予言書は冷泉さんにばかり厳しかったのだろう。どうして俺たちに何一つ背負わせてくれないのか。光だって見ていることしかできないのは相当つらかったはずだ。信頼して任せてはいても、やはり心配で仕方なかったんだと思う。
蛍を手伝い酒を持ってきた夕霧くんが戻ってきてもまだ光は冷泉さんを離してくれなくて。夕霧くんは、抱きしめられて身動きが取れないながらも嬉しそうな冷泉さんを優しく見守っていた。
「休めてる?」
「はい」
光は冷泉さんのお体を気遣うとようやく腕を離し、冷泉さんの隣に座った。夕霧くんも冷泉さんの隣に座って。光と夕霧くんで冷泉さんを囲む。
「支えて頂き、ありがとうございました」
「それはこっちの台詞だよ」
冷泉さんがおもむろにお礼を仰ると、光は強く答えた。光の栄華はすべて冷泉さんの御蔭だった。夕霧くんも見違えるほど加階して。御子が春宮に立たれたことで、妹である明石女御も中宮になられるだろう。弟妹にすべてお与えになって。何も残さずいってしまわれた……。
「ありがとう。俺たちと共に生きてくれて」
光が差した盃を、冷泉さんは感慨深げに受けられた。
「こちらこそ。皆さんがいて下さったから、頑張れました」
すっと一息に飲まれると、夕霧くんに盃を渡して酒を注いで下さる。
「大臣へ。頼りにしています」
「はい」
夕霧くんは冷泉さんからの盃を慎重に受けると、謹んで口をつけた。
「源氏の栄華ここにありー」
蛍は自邸から琵琶を持ってきたのか、月明かりにベベベンと弾き遊んでいる。
「絵になるなあ」
俺は出家していたのもあって酒は辞退して、皆を見ていた。良い親子だな。冷泉さんがまだ幼かった頃のことを思うと、しみじみとした感動があった。このまま皆が無事に暮らしてくれたらいいのに。こうしている間にも柏木くんの死がひたひたと迫ってくるようで、俺の心は常に祈りを唱えていた。