明け方近くになって蛍と俺が帰ろうとすると、光《ひかる》は俺たちにお土産をくれた。
「お前の服もらってもよー」
「文句言うならやらねえぞ」
蛍は悪態をつきながらも上等な直衣一式をもらっていた。息子さんへのお土産かな。新しい薫物《たきもの》も二壺添えてあって。
「俺はいいよ」
「裳着の前祝いさ」
光は予言にない俺にまでお土産をくれる。
「息子たちによろしくな!」
光は帰る蛍に手を振った。
「気張れよ政治家ー」
蛍もじゃあねと手を振って夜道を別れた。この酒宴からほどなくして光のお嬢さんの裳着は行われた。やはり腰結は中宮さまがして下さったそうだ。
「将来お后様になられる方ですから」
と冷泉さんも仰っていたので、中宮さまも信じたのかもしれない。冷泉さんも実の妹であるこのお嬢さんについて優遇してあげたかったんだろうな。
春宮の元服も二月二十日頃に行われた。彼は今十三歳だが昔の俺よりよほど大人びて頼もしく見える。ひとえに母である承香殿さんの養育の賜物だと俺は思った。彼女にはいくら感謝してもしきれない。添臥《そいぶし》には左大臣の娘さんが来てくれて、麗景殿女御となられた。
光はお嬢さんの局《つぼね》を桐壺と決めて内装を綺麗に新しくしていた。春宮は光のお嬢さんに早く会いたいようで気にかけていたが、入内は四月に決まったらしい。
光は普段亡きお母上のことを口に出さないけれど、やはり思い入れのある桐壺から后を出したいんだなと俺は光の執念を感じた。今思い出しても申し訳ないことだけれど。桐壺から后が出てくれたら、祖母である桐壺更衣も喜んで下さるだろうか。
◇◇◇
光は入内する姫君のために字の手本を集めているようで、綺麗な表紙で中身が白紙の冊子を皆に配ってくれた。
「自由に書いてね」
そう言われても、将来后になられる方のお手本になる字なんて俺にはとても書けそうにない。
「私が書きましょうか?」
「お願いできますか」
俺が困っていると朧月夜さんが助け舟を出してくれたので、お言葉に甘えることにした。
「お上手ですね……」
朧月夜さんはサラサラと、流れるような字体で歌を書く。
「何でもおできになるんですね」
俺は今更ながら感心して
「俺にはもったいない方でしたね」
離れて下さいと言ってばかりだったことを反省した。朧月夜さんはフフフと笑うと
「朱雀さまはとっても魅力的です♡」
筆を持ったまま抱きつこうとするので、俺は彼女の墨を避けるのに必死だった。
「すー兄《にい》あそぼー」
そこへちょうど蛍が誘いに来てくれたので、俺はそそくさと準備すると蛍と共に六條院へ向かった。
「荷物多いね」
「あいつにあげる本ね」
蛍は嵯峨帝時代の万葉集や延喜帝時代の古今和歌集など、装丁も見事で貴重な本を持ってきていた。
「すごいね」
「俺のご先祖が集めたみたいだね」
蛍は事も無げに言うと、
「たのもー」
六條院に着くなり光のいる寝殿まで歩いて
「ほいよ」
光にその貴重な本を惜しげもなくあげてしまう。
「本当にいいの?」
相当貴重な本なのか、光も遠慮がちにきいた。
「うちには手本が必要な娘もいないからねー」
蛍は気軽に言ったが、これも予言通りなのだろうか。
「お后様が持ってたほうが長持ちするでしょ」
蛍はこの本を長く保存してもらうために譲渡するようだった。
「ありがとう」
光は本をしっかり受け取ると嬉しそうに笑った。
「で、お前が書いた字は?」
「忘れたー」
「ウソつけ」
光が言うので蛍は薄い冊子をポンと床に置いた。光の部屋にはいろんな人の書いた冊子が所狭しと広げられていて、足の踏み場に困るほどだった。
「おおー」
光は蛍の字をじっくり見ていたが
「やっぱ上手えな」
感心して褒めた。
「こんな字書けるなら早く言えっつーの」
「男のお前に書く字じゃねーんだよ」
そのやりとりを聞いて俺は驚いてしまった。蛍は書く相手によって筆跡を変えているのか……。俺も光の横からのぞかせてもらったが、「どうだ上手いだろ」と主張する感じがなくて、あっさりと美しく余韻のある良い字だった。女性からもらったら嬉しく、もっと読んでみたいと思える字体だ。
「こんなことしなくても后になれんだからいいんじゃねーの」
「俺の娘として字が下手なのは嫌なんだよ」
光は父親らしいことを言って
「もらっとくね」
上機嫌に蛍の冊子を手に入れた。
「兄貴は持ってきた?」
「朧月夜さんに書いてもらったけど」
「だと思った」
光はそれも想定済みだったようで俺から冊子を受け取ると、パラパラとめくって見た。
「懐かしいなあ」
しんみりした表情でそう言うから、彼女が俺の邸にいるのが申し訳ない気持ちになる。俺出家するつもりだし、彼女を六條院に住まわせてもらえたりしないかな。俺がそんなことを考えていると
「これ誰の字よ?」
蛍は一冊の冊子を手に持って熱心に見ていた。
「夕霧だよ」
光が答えると
「すげー」
蛍はだいぶ気に入ったようで何度も褒めた。
「勢いがすげー。太政大臣感あるわ」
夕霧くんのは絵と一緒に歌も書いてあって、清らかでのびのびした字体だった。夕霧くんの真っ直ぐな性格がよく現れているなと俺は思った。
「妹向けっつってんのにこの字だからなあいつ」
光は苦笑しつつ、夕霧くんの字の良さを認めているようだ。
「お前息子さん来ないの?」
「あー遊びに行っちゃった」
「可愛いな」
光は用意していた唐の本を沈《じん》の箱に入れると、雅な高麗笛《こまぶえ》を添えて蛍に渡した。
「土産な」
「あんがとー」
「息子もいいもんだよな」
光がしみじみ言うので俺は嬉しく思った。娘さんがもうすぐ入内してしまうので少し寂しいのかもしれない。冷泉さんがおられるけれど、光が手元で育てられるのは夕霧くんと娘さんだけだから。その夕霧くんも十八歳になって、光を凌ぐほどの背格好になった。心はもう親離れしているのかもしれないな。黙って光に仕える夕霧くんは光より大人のようにも見えた。