予言に縛られない空白の間、冷泉さんはいろんなことをして下さった。蛍が希望していたのに俺の代で実現できなかった蹴鞠大会をはじめ、競射会、相撲天覧、歌会、楽の催しも開かれた。過去に例のない提案でも冷泉さんは進んで聞き入れ、許可して下さる。長期休暇が取りやすくなったことで貴族たちの間で有馬温泉へ行くのが流行したし、柏木くんの好きな釣りも真似する貴族が増えて、京にはだんだん皆の多彩な個性が現れ始めた。
娘を立派に育てあげ入内させるか良い婿を取ること、良い女を妻にすること。京の貴族はいつも女性のことで頭を悩ませていたが、空白期間にいろんな経験をしたことで息抜きになったと言うか、「人生色恋だけじゃないな」という雰囲気になり、皆どこか陽気になった。冷泉さんの御世は革新的、合理的でありながら平和で、幸せだった。
俺は西山の寺も完成していたのでいつ出家しても良かった。
「紫《むらさき》も柏木も調子良いみたいだし、いつでもいいよ」
光もそう言ってくれていたが、冷泉さんの御世を最後まで見届けたいという欲が捨てきれず、俺は朱雀院で祈る日々を過ごしていた。
ところが春宮が帝位に就くより前に、母である承香殿さんが亡くなられてしまった。あまりの衝撃にしばらく立ち上がることができない。長く患っているわけでもなかったが、彼女は安らかに逝ってしまった。俺は彼女の寝顔と春宮の泣きはらした目を見てその場で出家を決めた。
「父上まで世を離れてしまわれるのですね」
春宮は名残惜しそうにしてくれたが、俺は強いて微笑んだ。
「春宮のぶんまで祈るよ。春宮は帝をよく見ていたから大丈夫。春宮の御世が来ても自信を持って下さい。本当に、惜しい方を亡くしたね」
俺は長い髪を下ろして出家した。春宮を産んで下さったのに中宮にすることもできなかった承香殿さんを、せめて帝の母にして差し上げたかった。誰より尽くして下さったのに……。目を閉じて彼女を想うと、俺たちを包みこむような優しい笑顔しか思い出せない。本当に、ありがとうございました。俺はもっと早く出家して彼女のぶんまで祈るべきだったのかもしれない。
◇◇◇
そうして、冷泉さんが十一歳から帝位につかれて十八年目になった。まだ二十八歳で、若々しく盛りのお姿に見える。
「本当に、降りてしまわれるのですか」
俺は西山の寺にこもり祈っているはずがこの日だけはどうしてもこらえきれず、法衣姿に帽子を被って御所に伺った。
「五十代で皇子がお生まれになるまで、おられては」
「それはちょっと長いですね」
俺の強引な願いにも、冷泉さんはいつものように微笑んで下さる。
「春宮さんと明石女御に申し訳ないですから。若宮も六歳ですし、立派な春宮になられるでしょう」
そう仰って俺の子を帝に、光と俺の孫を春宮にして下さった。
「本当に……ありがとうございました」
俺は深く頭を下げて感謝申し上げた。一代限りの幻という思いが胸を衝いて、涙がにじんだ。無念だった。結局冷泉さんの御子を見ることは叶わずこの日を迎えてしまった。もっとこの御方をお支えしたかったのに。
俺の斜め後ろには夕霧くんが座していた。夕暮れの最後の光が伸びて御所の庭に長い影を落とす。清涼殿は朝日を望む東向きの座所だ。夕日の美しさを見ることは叶わない。帝と臣下を隔てる御簾も今日は全て巻き上げられて室内は閑散としていた。御前は人払いをして俺たち以外誰もいなかった。
「こちらこそ。助けて頂きありがとうございました」
冷泉さんの丁寧な挨拶にも、夕霧くんの鋭い瞳は動かない。夕霧くんがあまりに何も言わないので俺はこの場を辞そうと思った。俺がいたら話せないことがあるような気がして。
俺は今いる席を夕霧くんに譲るため、部屋の端に退いた。そのまま去るタイミングをうかがっていると、冷泉さんの前に座り直した夕霧くんがおもむろに口を開いた。
「帝は、楽しかったですか」
「うん。おかげさまでね」
俺はこの二人の会話を聞くのは初めての気がした。
「楽しかったなら、もっと居て下さい」
「気持ちは嬉しいけど」
冷泉さんは微笑んだまま少し言いよどまれた後、
「父上を春宮の祖父にして差し上げたいからね」
重要なことほどあっさりした口調で仰る。
「あなたの人生は、あの人のためにあるわけじゃない」
「優しいね」
夕霧くんの目はいつもよりきつくて、怒っているように見えた。
「何も残さず、去っていくのですか」
「偽・物・の私でも、系図には載れたからね」
冷泉さんは少しおどけた調子で仰ると、静かに微笑まれた。偽物……。
どんなに素晴らしい治世を行われても、比類無き美をお持ちでも、自分は偽・の・帝・だ。そう思ってこれまで生きてこられたのだろうか。どんなに美しく完璧でも本物じゃない。何をしても、本物にはなれない……。
俺はあまりの申し訳なさに身を切られる思いだった。でも一番おつらかったのは冷泉さんだろう。どれほど苦しくても、真実を明かすことは絶対できないのだから。
「私にないものを夕霧くんは持っている。私にできないことも、夕霧くんは叶えてくれるから……救われたよ」
冷泉さんは微笑んだまま昼御座から立ち上がられると帝の御笏を置かれ、傍らの床に下りられた。十八年間過ごした玉座を去られるには、あまりにもあっさりした所作に見えた。
「兄上」
夕霧くんがはっきりした口調でそう呼ぶと、冷泉さんは一瞬驚いてこちらを向かれた。
「どうしたの? 急に……」
そう呼ばれたのは初めてなのか、少し戸惑ったように微笑まれる。
「親父が死んで予言が絶えても、俺達の人生は続いていきます。この後のほうがもっと楽しいかもしれない」
夕霧くんの瞳は真っ直ぐで、冷泉さんを射抜くように見つめていた。
「あなたは俺の兄です。誰も知らなくても、歴史にそう残らなくても、俺はあなたの弟です。そのことをずっと誇りに思ってきた。これからも、死んでからもずっとそう思ってます。あなたを、かけがえのない、ただ一人の兄だと」
時が止まったかのように誰も動かず、何の音もしなかった。冷泉さんもまばたき一つしないのに、その白い頬に流星のように一すじ、涙が落ちて。冷泉さんは少し眉を寄せると、苦しそうなお顔をなさった。片手で顔を押さえて。涙をこらえている顔だった。
「……ありがとう」
それでも夕霧くんに微笑んで仰って。俺は部屋の端でうつむき存在を殺していた。こんなに余裕のない、仮面を剥がされた冷泉さんを見るのは初めてで。見てはいけない気がした。