この年の秋、十七歳の光《ひかる》は重い病にかかって十日以上寝込んだ。命の危険もある状態ときいて父上はたいそう心配なさり、生きた心地もしないような青ざめたお顔で毎日ご祈祷を命じられた。「あのように飛び抜けて美しく優れた方は薄命なのだろう」と噂する人もいて俺も心配した。文や使いはあふれるほど来ているだろうから控えて。祈る以外方法がないのがもどかしい。
やっと病が癒えて御所に参内したとき、光は面痩せて疲れて見えた。それが美しいと囃し立てる人もいたけれど。物の怪に憑かれたのではと噂する口の悪い人もいた。
光はこの頃フラッと梅壺に来て俺も知らぬ間に帰ることが多くなった。女房たちも慣れたもので、光が来たから、帰るからと騒がず、とても自然に光の存在を隠してくれる。光は人気者でどこに居ても誰かが尋ねてくるからゆっくり休めないんだろうなと俺は思った。
「塗籠かりてます。」
ある日俺が用事から戻るとこんな書き置きがあって。俺は自分の荷物を片付けていたかなと、個室として使っている塗籠が気になってそっと戸を開けた。
「ごめん、狭くなかった?」
「おかえり」
光は仰向けに寝転ぶと天井を見ていた。いい匂いのする雅な扇をパチン、パチンとゆっくり鳴らして。何か考えているようだ。
「ごめん、勝手に使って」
「いいよ」
俺は読みかけの書物や手習いを片付けようと中に入って戸を閉めた。塗籠は三方を壁に囲まれているから暖かく、扉を閉めれば密室として使うこともできる。
「鍵かけてくれる?」
光が何気なく言うので、俺は扉の内側から閂をさした。光の手元には小さな灯りが置いてあって。天井からの光も入るが、部屋の中は薄暗かった。
「兄貴さ、物の怪って信じる?」
光は俺に問いかけながら、天井を見ていた目を苦しげに閉じた。
「俺、取り返しのつかないことをしたんだ……人をひとり、死なせた」
俺は光の足元にそっと腰を下ろして。何も言うことができなかった。物の怪が人を殺したということだろうか。
「恨むなら俺を恨めばいいのに、どうして……」
光は声をつまらせると横を向いて、背を丸めた。声を殺して泣いている。俺は下手な慰めの言葉をかけられる気がしなくて。小さな机の前に座ると、墨をすって写経をはじめた。
「兄貴……きいてる?」
「うん」
俺は丁寧に、でも急いで写した。光の灯りを借りると机上におかせてもらって。
「四十九日は過ぎた?」
「いや、まだ」
「間に合うように写すね」
まだ魂はこの世におられるのかな。俺は名も知らぬその人の冥福を祈った。光はここにいます。貴女を思って泣いています。救えなくて、すみません。
「俺も祈るよ。微力でも」
俺は区切りのいい所まで書いてから光の方を向いた。光はもう寝転がる姿勢から体を起こしていて。
「物の怪にも鎮まってもらえるように、俺も祈る。光のぶんまで祈るよ。毎日書く」
光はしばらく黙って俺を見つめていたが
「強いね」
淡く笑って俺を見た。俺は物の怪が見えたことはなかった。だから怖くない、ないがしろにしていいとは思わないが。元が人なら説得する術もあるかもしれない。魂でぶつかり合えば止められるかもしれないと思っていた。
◇◇◇
「もし兄貴に年の近い継母がいて、美人で慎み深くてすごくタイプだったら、どうする?」
光は俺の方を向いて座り直すと変わったことをきいた。
「どうも、しない」
「だろうね」
兄貴は冷たいからなと言って、光はこった首を左右に伸ばした。
「その継母が兄貴に気があって、内心結ばれることを期待しているとしたら?」
俺は写経の手をとめてしばらく考えていたが
「そんなこと、ありえないって思うかな。現実的じゃない」
声を落として答えた。
「どうして? 父親はだいぶ年上なんだから待ってればそのうち死ぬんだよ。そしたら二人の天下だ。それまで隠れて付き合えばいい」
「でもきつくない? 父にも子にも迫られるというのは。バレたらどうしようと常に悩むだろうし」
「そこは男がフォローするんだよ」
光は少し不機嫌そうに答えた。
「女一人に全て背負わせないように男が守って支えるんだよ。バレそうになってももみ消して、誰にも文句を言わせない権力を保って、世間に認・め・さ・せ・る・んだよ」
「……そこまでするなら、いいかもね」
俺はそんな強権的な人物を想像した。
「そこまで貫けるならカッコいいと思う。ついてきてくれる女性もすごい。女傑だね」
「褒めんの?!」
光は自分から言い出したくせに俺が賛同すると驚くので、すこし笑ってしまった。
「そこまでの絆があるなら引き裂くのも罪かもしれない。神仏はお認めにならなくても。俺は良いと思う」
俺は写経に目を戻しながら答えた。
「俺自身はできなくても、その人のために祈る。その人のぶんまで。応援する」
俺は分を知るということが好きで。英雄には英雄の役割があると思っていた。俺自身が籠中の鳥であるせいか。他の人には大空を飛翔してほしいと願っていた。
「兄貴って結構進歩的なんだね。絶対止めると思ってた」
「自分ではやらないけど。人は止めない」
「冷てえ」
光は苦笑して、でも少し元気になったようだった。
「皆が兄貴みたいに強い人なら、世の中平和なんだけどね」
光は可笑しそうに髪をかきあげて。前を見ながらしばらく黙っていた。