光《ひかる》から「二月十日に来て」と呼ばれたので俺はまた六條院へ伺った。春雨が上がった後だったので、草木に柔らかな水滴が乗っている。紅梅も盛りに咲いていい香りを放っていた。
「こんにちは。春だね」
「いらっしゃい」
俺が光とのんびり話していると
「兵部卿宮様が来られました」
取次の女房が教えてくれて、それとほぼ同時に蛍は入ってきた。
「いとけぶたしやー」
「早えんだわ。まだしてねえから」
「だって煙たいことわかりきってんのに」
「???」
蛍は未来を知っているせいか、変わった台詞を言いながら俺の隣に座った。
「さて、俺とお前の仲良し巻なわけだが」
光が蛍を見ながら言うと
「めっちゃ嫌」
「俺も嫌」
蛍と光はほぼ同時に声をそろえて顔をしかめた。
「仲良いね」
俺は昔から相変わらずな二人に思わず苦笑する。この二人は本当年取らないな。
「でも薫物《たきもの》合わせはしような。うちの娘のために」
「娘さんのためならしょうがねえなー」
蛍の優しさも相変わらずで、俺はこの二人といると安心するなと思った。
「沈《じん》の箱見してー」
蛍がそう言うと光は早速雅な手箱を取り出して俺たちに見せてくれた。瑠璃の杯が二つ据えてあって、大きく丸めた香が乗っている。箱を覆う布も綺麗だ。
「綺麗だね」
俺が思わず感嘆すると蛍に注意された。
「すー兄《にい》それ俺の台詞ね」
「ごめんごめん」
台本を読んでいないから難しいけれど、今日ここに本当は俺はいないはずなのでなるべく黙っておかないと。廊下の方では夕霧くんが誰かからの文の使いに酒を勧めている。
「そうそう、朝顔さんに返事しないと」
「お前まだ付き合いあんの?」
「文通相手さ」
光は俺をチラと見て微笑むとサラサラと文を書いた。
「この年になるとさ、清い男女交際もいいもんだよね」
「相手にされなくなっただけだろ」
「まあね」
蛍の悪口も聞き流しつつ、今日の光は機嫌が良かった。
「裳着の腰結は中宮様で決まりか」
「うん。あの子は将来后になるからね」
「さすがだなーおい」
自信満々の光を尻目に、蛍は軽く肩をすくめる。臣下の娘さんの腰結に中宮さまなんて普通はありえないことだけれど。光は普通の貴族ではないし、中宮さまの親代わりだから実現したのかな。
◇◇◇
「夕暮れに薫物合わせするね」
光が女房を介して六條院に住む女性たちにそう知らせると、かねてから準備してあったのかいろんな薫物がぞくぞくと集まってきた。複数の香を上手く調合して作られたものらしい。
「俺香なんて気にしたことねーんだけどな。俺判定でいーの?」
蛍はそう謙遜しているが、蛍の衣からもいつもいい香りがするので嗜みとして自然と身についているのだろうと思った。彼は絵合のときと同じく、今日の薫物合わせの判者を任されているようだ。集まった薫物は火を付ける前からほのかに良い匂いがしていて、温めて香りを比べるのが楽しみだった。
「夕霧、あれとってきて」
光が頼むと夕霧くんが即座に指示を出し、惟光さんの息子さんが渡り廊下の下辺りから何か掘り出してきたので俺は驚いた。
「土に埋めて隠してたの??」
「匂いがバレるからね」
光が得意げに言うので俺はすごいなと思った。そこまでして秘匿してたのか。その掘り出された物を夕霧くんが受け取り光に差し出した。相変わらず鋭い目つきで無駄のない動きだった。
「夕霧くん、光の側近みたいだね」
俺は思わず感心してつぶやいた。あの光に反抗していた夕霧くんが……。どこか隔世の感がある。
「背後から刺してきそうな側近だけどね」
光は苦笑しているがやっぱりどこか嬉しそうだった。あの鋭い目で自分を見張っててくれるの、嬉しいだろうな。俺も見張られたいなと思うくらいだった。
「やりにくいなー。どうやって決めんだよ」
薫物が温まり室内に香りが広がると、蛍は涙目になりながら言った。
「全部いいに決まってんのに……。この黒坊《こくぼう》はいいな。あと侍従《じじゅう》」
決められないと言いつつも、クンクン匂ってすぐ判断している。
「梅花《ばいか》はまさに春って感じだな。荷葉《かよう》はあっさりしてて夏向きだし」
蛍は最後に残された一つに少し目を見張った。
「なんか凄そうなのきたな」
百歩《ひゃくぶ》という名の通り、しつこくはないがだいぶ遠くまで届くような香りで、俺も面白いなと思った。
「こんなのつけたらすぐバレるな」
「忍び歩きには向かなそうだね」
俺も苦笑して、でも素敵な香りだと思った。
「みんな違ってみんな良い! これで満足か」
「雑だなあ」
光は蛍のざっくりした判定に苦笑しつつ、どの女性の作も褒められて嬉しそうだった。
「さ、さけさけー」
月が昇ると酒が出されて皆で飲んだ。夕霧くんのそばには柏木くんも来ている。
「柏木くん」
俺は思わず声をかけたが、柏木くんはいつものように優しく笑って頭を下げた。予言を読んだはずだがそれほどショックは受けてないのかな。何か打開策が見つかったのだろうか。俺は期待と不安の入り混じった複雑な気持ちだったが、今日の宴に相応しくないと思いできるだけ隠した。
春の夜空に月が霞んで涼しい風が花の香を運んで来る。光のいつもしている甘い香も相まって酒席はいい匂いがした。
「合奏やろー」
光より先に蛍が言い出して得意の琵琶を取った。光は箏、柏木くんは和琴《わごん》、夕霧くんは横笛だ。俺はこの場に居ないはずの人で良かったと思いながら皆の演奏を聴いた。柏木くんの和琴は父内大臣さんを超えるような腕前で俺は聴き惚れた。夕霧くんの横笛もキリリとした横顔によく似合っていて、ずっと聴いていられる。柏木くんの弟さんが上手に歌うので蛍と光はしきりに褒めてあげていた。
「こういう平和がさ、ずっと続くと良いよねー」
光が蛍に盃を差すと、蛍は美味そうに飲んだ。そうして隣の光に盃を戻すと、すぐ酒を注ぎ返す。
「つかの間の休息ってやつよな」
光は盃を干すと次は柏木くんに差した。
「いつまでも片付かない奴もいますしね」
柏木くんも美味そうに酒を飲むと、今度は夕霧くんに盃を差す。
「……俺?」
夕霧くんはキョトンとすると、ぐいと酒を飲んだ。飲む姿も一人前だなあ。俺が微笑んで皆を眺めていると
「どうぞ」
夕霧くんが飲み終わった盃を俺に渡して酒を注いでくれた。嬉しかった。夕霧くんと酒が飲めるようになったなんて……。俺は飲み干すのがもったいないような気もちで、しみじみと味わって飲んだ。