「本当にごめん」
盗み見てしまったことについて申し訳ない気持ちでいっぱいで。俺は蛍に謝罪した。
「構わないよ」
蛍は優しく微笑んでいる。
「どうして逃がしたの」
俺が尋ねると、蛍は歩きながら答えた。
「ホタルって寿命短いんだよ。あいつらなりに必死に生きてんだと思ったらさ。逃がしてやらなきゃ可哀想じゃん」
当然のように笑って。やっぱり蛍は優しかった。
「ねみーから帰ろうか」
歩く蛍と俺に物陰から現れた夕霧くん、柏木くんも合流して。俺たちはそれぞれの車に乗って帰路についた。もう真夜中で。
「あの本、変えらんねーのかな」
蛍が前を見ながらつぶやく言葉が忘れられなかった。
「俺たち結局、決められた筋をなぞるだけの人生か」
今夜の蛍の言動も予言通りだったのだろうか。あの予言書の前に俺たちは無力なのか。俺は何も貢献できない自分が腹立たしく、悲しかった。俺はあんな本なんかに頼りたくないし、負けたくもない。俺は俺にできることを探そうと思う。
◇◇◇
この日の朝、夕霧くんが文をくれた。
「六條院の馬場《うまば》の殿《おとど》で競射をするので、見に来て下さい」
馬場の殿というのは、馬に乗りながら弓を射る騎射を見物する場所だった。御所にはあるけれど六條院にもあるのか。さすが広大な邸宅だな。夕霧くんは御所で行われる競技の後六條院にも寄ってくれるらしい。昨夜も遅かったのに大変だな……。貴族って体力勝負だなと思う。
五月五日で、六條院には邪気を払う薬玉《くすだま》が飾られていた。光《ひかる》って即位したことはないけれど既に帝だった感があって、俺が法衣で六條院に伺っても女房たちがいい意味で気を使わないでいてくれるから楽だった。毎回女装じゃ大変だからなあ。話は通してあるんだろうけれど、彼女たちは光と俺をかなり同等に扱ってくれる。こんな巨大な邸に住んでいる貴族は京じゅうでも光だけなので、仕える女房たちも誇りに思っているのだろう。
夕霧くんは今年から近衛中将になっていて、柏木くんは衛門府の中将になっていた。近衛府は御所を護る官職で、衛門府はその外側、役所の建物が立ち並ぶ区域を護る官職だった。両方武官なので装いも勇壮だ。廊下には見物の女童や女房たちが綺麗な衣で集い興味津々の眼差しで見つめるので、若い公達はやる気に燃えている。
親王たちも来ていたが、蛍は見物ではなく競技者として馬上にいた。何本もの矢を身につけ、袖を押さえた騎射用の衣装を着ている姿は矢を射る前から格好良い。午後になると光も現れ競技が始まった。
「わあ、すごい……」
蛍の競射はとても上手かった。疾走する馬上で矢をつがえ放つまでに迷いがない。夕霧くんや柏木くんと競っても引けを取らないのですごいと思った。年齢は十以上違うと思うのだけれど。若いなあ。日頃から鍛えているんだろう。
今は戦のない時代で良かったけれど、戦乱の世なら間違いなく立派な武将になるんだろうなと思った。矢が的に当たるたび応援する人たちは楽器を吹いてわあわあ騒ぐ。蛍は人馬一体となり何度的を射ても得意がることなく、どこか遠くを見ていた。
「楽しかったー」
「お疲れさま」
俺が声をかけると、蛍はニコッと笑った。
「やっぱいいなー馬は」
蛍は馬とも仲良しなのか、蛍が首を撫でてあげると馬はとても嬉しそうにしている。
「御所にも行ったの?」
「あー、夕霧たちがね」
蛍は何かを思い出したようにフフフと笑うと
「冷泉さんめっちゃ喜んでた」
愉快そうに目を細めた。
「そんなに喜ぶ冷泉さんも珍しいよね」
「夕霧大好きだからねあの人」
蛍は甥っ子たちの成長を愛おしむように微笑んでまた遠くを眺める。
「馬に乗っけて散歩に連れてってた頃が懐かしいわー」
「本当だよね。すっかりご立派になられて」
俺もつい年寄り臭いことを言いながら、過ぎていく年月を思った。ここまで育って下さったことに感謝だな。葵さんを亡くし光も須磨に行ってしまって、冷泉さんの成長だけが救いだった時代もあったなと俺は切なく思い出していた。
「今でも乗馬の時はいい顔されてるよ」
蛍にそう教えてもらえると俺はいくらか安心できた。馬といると癒されるよな。堅苦しい公務の中で少しでも気の休まる時間をお持ち下さるといいのだけれど。
冷泉さんは十一で即位されて今十八歳だから、そろそろ俺の在位期間を超えることになる。途中お母上を亡くされてつらいこともあっただろうに、よく耐えて下さってるな……。
俺がそんなことをぼんやり考えていると、馬に水を飲ませてやっていた蛍に女童が近づいた。何か渡しているようだ。蛍は受け取って中身を見ると、少し困ったように首筋に手をやった。
「どうかした?」
「いや」
蛍はどう答えたらいいか迷うような顔で俺を見ると、それ以上何も言わなかった。夜になると競射は終わり、光は皆に禄を渡して今日来てくれた労をねぎらった。