結局若い柏木くんはちっとも病にはならず、元気なままだった。将来有望で人柄も優しい柏木くんに子が生まれたので、京じゅうがその誕生を祝福してくれる。帝は特に三宮の弟でもあるし、柏木くんのことは元からお気に入りなので機嫌が良かった。
「匂宮といい従兄弟になるね」
ひと月前に生まれた匂宮くんと比べたりして、二人の将来が楽しみなようだ。俺は三宮と柏木くんの幸せそうな姿が見られて安心したので山に戻ろうとしていたが
「柏木の死はもうすぐです」
夕霧くんがそう教えてくれたのでまた涙が出そうになった。
「もうなの……?」
厳しいな……可愛い息子が生まれて、人生これからって時なのに。
「でも、一度山には戻るね」
柏木くんの死を待つために京に留まるのは耐えられない気がして。俺は夕霧くんにそっとそう伝えた。
「教えてくれてありがとう」
夕霧くんは鋭い視線のまま無言で一礼した。
「俺が柏木のそばにいて、見張ります」
夕霧くんは最後の最後まで希望を捨てず、親友である柏木くんを救うつもりのようだった。
◇◇◇
柏木くんが川で溺れて亡くなったという急報を聞いたのは二月終わりのことだった。俺は急いで山を下りた。柏木くんの邸には致仕大臣さんや柏木くんの弟さんたちが大勢つめかけて泣いている。俺が伺うと夕霧くんが出てきて、経緯を説明してくれた。
「柏木が川で釣りをしていたら、周りにいた子どもの一人が溺れて。柏木が助けに入ったんです」
夕霧くんの目は鋭いままだが、泣き腫らし赤くなっていた。
「子どもは助けましたが柏木はだいぶ流されて。俺と柏木の弟たちでなんとか引き上げました。その時は多少水を吐いただけで、元気そうだったんですが」
柏木くんは「夕霧のおかげで命拾いした」と礼を言いながら帰路についたそうだ。
「その夜から酷い咳をしだして。僧たちも呼んだのですが、助かりませんでした」
夕霧くんは膝の上でぐっと拳を握りながら、悔しそうに言った。
「俺の責任です」
「そんなこと、ないよ……」
俺は悲しいがどこか納得した気がして。良い死因だと思った。好きな釣りの最中に溺れた子を助けて……。こんなに柏木くんらしい、優しい死因があるだろうか。
「三宮はいるかな」
「柏木の枕元に」
俺は大勢の人が嘆き悲しむ中を静かに歩いて、三宮のもとへ行った。
「お父様……」
三宮もぽろぽろ涙を流していて。その腕には薫くんが、何も知らずにスヤスヤ眠っている。
「柏木くん……」
柏木くんの顔はすこし微笑んで、ただ眠っているだけのように見えた。咳で苦しかっただろうに。溺れた子を救えたことに満足したのだろうか。柏木くんの足元には蹴鞠の時拾った唐猫が、主人を守るように香箱を組んでいた。
「……ありがとう」
俺は彼に出会えて、婿になってくれたことに感謝して。その手を握り、深く頭を垂れた。あなたの笑顔は太陽のように三宮を照らしてくれました。三宮にたくさんの幸せな思い出をくれてありがとう。予言を変えられなくて……すまない。
俺が柏木くんの枕上を去ろうとすると、薫くんを抱っこした三宮がそっと後をついてきた。心配そうな顔をした乳母に薫くんを預けると、俺の袖を引いて奥まった部屋へ誘導する。
「お父様、これを」
三宮は見えない場所から一通の文を持ってくると俺に差し出した。
「旦那様からです」
俺は白い綺麗な紙をそっと開いた。遺書だった。
「降嫁の夜はじめて彼女を間近で見た時、やはり俺は一目惚れをしました。緊張なさって伏し目がちな瞳、抱きしめると俺に包まれてしまうようなあえかなお姿、すべてが想像以上に愛しく、可憐で、この方を妻にお迎えしたということが奇跡のように嬉しく、溺れるほど深く愛しました。彼女は優しく誠実で疑うことを知らず、いつも笑顔で俺を待っていてくれました。彼女の笑顔は俺の生きる希望でした。彼女と話して笑いあえたこと、琴の音を合わせられたこと、心から愛し合えたことは、俺の短い人生の中でも最上の喜びです。本当にありがとうございました。また彼女に会えることを信じています。」
優しく美しい墨付きで、柏木くんの人柄が偲ばれるような字だった。柏木くんはどんな思いでこれを記し、三宮へ託したのだろう。俺はしばらく動けず、何も言えなかった。
「お父様、私を出家させて下さいませんか」
三宮はそんな俺を意を決した眼差しで見つめると、はっきり言った。その瞳は涙に濡れていたが、弱くはなかった。
「私も旦那様のもとへ参ります」
「……自死はいけないよ」
俺は文を閉じながら冷静に答えたが、三宮は柏木くんの跡を追うつもりではないようだった。
「旦那様の菩提を弔い、同じ蓮《はちす》へ参ります」
三宮の口調は静かだが迷いがなかった。柏木くんの最期について、三宮にも覚悟があったのかもしれない。
「出家すれば再婚はできないよ」
「はい。それを望んでおります」
三宮はまだ二十二だった。髪も艶々と長く美しい。
「もうどなたとも付き合うつもりはございません。旦那様の思い出を胸に、生きて参ります」
そのための出家かと俺は悟った。皇女でも望まぬ縁が付いてしまうこともある。母親が守っていないこの子ならなおさらだろう。柏木くんは三宮に一生分の愛をくれた。俺はそう解した。
「……わかった」
俺はうなずくと、柏木くんの回復を祈り、今は冥福を祈ってくれている僧たちの中で適した人を呼んでもらった。そして嘆く人々もいったん帰り邸内が少し落ち着いた夜明け、三宮の髪を尼削ぎに切って出家させた。