三月二十日は夕霧くんの祖母である大宮さまの命日で、極楽寺で法要が営まれた。大宮さまは父上の妹で俺の叔母にあたる方だが、俺まで行くと大げさになってしまうので葵さん在世時お世話になった女房へそっとお悔やみの品を贈る。俺たちはたいてい一生京から出ずに生活するので、長生きするほど親類は増えていく。おじおばや甥姪、いとこまで数えだしたら京じゅう親類だらけだ。
葵さんが亡くなられてから、祖父の大臣とこの大宮さまが夕霧くんを育てて下さったんだよな。俺は帝だったこともあり遠くから見守ることしかできなかったけれど、夕霧くんが無事に育ってくれて本当に良かったと思った。葵さんのお力添えもきっとあったと思う。俺は皆様に感謝しながら西の空へ手を合わせた。
そして玉鬘さんに続いてまた祖母の大宮さまがご縁を結んでくれたらしく、この法要で内大臣さんは夕霧くんに接触し、和解の気持ちを伝えたらしかった。
「夕霧くんは殴られたこと怒ってるの?」
「いえ、全く」
いつか尋ねたら、夕霧くんは澄んだ瞳ではっきり否定してくれた。
「むしろ殴るのが正しいと思います。俺が同じことされても殴ります」
夕霧くんは内大臣さんのように派手好き、競争好きではないが内面は通じるところもあるようだ。内大臣さんは葵さんの兄で夕霧くんの伯父だから、意外と似ている部分もあるのかな。夕霧くんには何の遺恨もないが内大臣さんのほうで立派になった夕霧くんに遠慮して、出方を見ていたのかもしれない。
四月になり藤が美しく咲く頃になった。俺は朝晩仏間にこもって亡き方々へ祈った。夕霧くんのお祖父さんお祖母さん、葵さん。夕霧くんが無事結婚できますように。お力をお貸し下さい。そんなふうに祈っていたある日、
「宰相中将殿がお見えです」
取次ぎの女房に言われて俺は視線を上げた。振り向くと凛々しく、いつもより輝いて見える夕霧くんが立っていた。
「お久しぶりです」
「こんにちは」
俺は頭を下げると夕霧くんの席をもうけ、一緒に座った。
「この前雁と結婚しました」
「おめでとうございます」
ついにこの日が来たかと俺は感慨深い気持ちで胸がいっぱいだった。
「三條殿を修理して、雁と住むつもりです」
「お祖母さまの住んでおられたお邸だね」
「はい。俺も雁もそこで育ったので」
俺は何も言えずにしばらく言葉を止めた。顔を両手で押さえて。言葉が見つからない。
「良かったね……」
何か言えば涙がこぼれてしまうのに、お祝いを述べたくて仕方なかった。
「お祖父さまもお祖母さまも、葵さんも……喜んでおられるね」
ぼろぼろ、ぼろぼろあふれる涙を手で拭って、俺は今まで生きてきた中で一番の喜びを感じていた。童殿上姿の夕霧くんに初めて会ったときのこと、彼が光に内緒で俺の家に来てくれたこと、彼の成長を今まで見守ってこられた幸せを痛いほど感じる。
「本当に、ここまで苦労したね……よく耐えて」
生まれてすぐ母と死に別れ、六位から始めさせられ、大学寮で勉強して。夕霧くんには他の貴族にはない苦労が山のようにあった。父である光との確執も。俺がしたことのない苦労ばかりを重ねてきたこの若者を、俺は心の底から尊敬していた。
「夕霧くんは俺の自慢の甥です。俺は誇りに思います」
俺は涙を拭くとはっきりした口調で言った。
「ありがとうございます」
夕霧くんは落ち着いた声で礼を述べて。俺の涙が乾くまで、しばらく待っていてくれた。
「冷泉さんにはお会いした?」
「これから行くところです」
「先に来てもらってすみませんでした。冷泉さんにもよろしくお伝え下さい」
俺は頭を下げながら、誰より早く伝えに来てもらったことに驚き感謝した。
「柏木くんは元気かな?」
「ええ。最近釣りをしています」
「釣り?」
俺は少し驚いてしまったが、夕霧くんは鋭い目の奥に笑みをたたえて言った。
「狩衣で馬に乗って。川で釣り糸を垂らしているようです」
「すごいね」
京の外でそんなことができるのかと俺は驚いた。川で釣りかあ。魚を釣り上げる手応えはどんなものなんだろう。俺は体験してみたい気がしたが、泳げないのでやはり怖い気もした。柏木くんは冒険心があるな。許可なさる冷泉さんもお優しいなと思った。
「妹の入内は四月二十日頃です」
夕霧くんはそれだけ教えてくれると去っていった。入内か……。春宮は光のお嬢さんに優しくしてくれるだろうか。こういうことは親子でも話すものではないので俺は再び祈るしかなかった。
二人はとても仲良しで孫が生まれると光は言っていたっけ。春宮が元服してお嫁さんをもらってから、俺はあまり会うのも迷惑かと思って御所へは通わないようにしていた。あの子も夕霧くんと同じで確実に親離れしてきていると思うし、俺がいては邪魔なこともあるだろう。これからは若い人たちに任せて、彼らの活躍を楽しみにしながら年寄りは静かに生きようと思う。