もう夕方近くになってしまって、私はそろそろ帰らなきゃと思った。帰りたくないけど、帰らなきゃ、宿へ。生まれ故郷の、息の詰まるようなあの家へ。ふーと息を吐くと、お茶のカップをテーブルへ置く。
「サーシャ、お願いがあるのですが」
「はい」
不意に名を呼ばれて。私は何だろうと思ってルースタッド殿下を見つめた。
「今夜もここに泊って下さいませんか。できれば、これから先もずっと」
私は何を言われているかわからず、しばらく殿下を見ていた。
「私と結婚して下さい」
あまりにも突然の告白に、息が止まりそうになる。
「私はあなたほどくつろいで過ごせる人と出会ったことがありません。あなたといると地位や立場を忘れて、自然体の自分でいられます。とても安らぐ」
ルースタッド殿下はそう仰ると、私の手に自分の手を重ねた。
「あなたのつらい体験を聴いた後、このようなことを言うのは軽率に聞こえるかもしれませんが。あなただけを終生大切にすると誓います」
その言葉と態度があまりにも誠実に見えるので、逆に不安になってしまって。私はせっかく止まった涙がまたぽろぽろ流れ出すので困った。
「やはり、私が信用できませんか」
「いえ、あの、私……。今まで男の方と付き合ったこともないので、どうしたらいいかわからなくて」
この方と結婚してしまっていいの? 私は不安だった。私の何を気に入って下さったんだろう。その気持ちは今後も変わらないと言えるの……? 怖かった。この方と結婚するのが。この方をこれ以上好きになるのが怖い。
「では、私と結婚前提で付き合って下さい。私をよく吟味して、その結果断って下さっても構いませんから」
「殿下……」
ルースタッド殿下は私の目を見ながら真剣に仰って、私の手を離してはくれなかった。
「私のことはルースと呼んで下さい」
そう言うと私の手を掴んだまま立ち上がり、私を強く抱きしめて下さった。あったかい……。昨日もだけれど、この方の胸は本当にあたたかくて心地いいと思った。
「すみません、急にこんなことを言い出して。戸惑いますよね」
ルースさまは私を抱く腕を少し緩めると、あのホッとする笑顔で私に笑って下さった。
「結婚を申し込むのに、もっと手順を踏むべきなんでしょうが。今を逃したら、もうあなたに会えない気がして」
「私もそんな気がします。何件かお見合いの話も来ていたので」
義母が私を早く片付けようとしていることはわかっていたので、私は家出しようかとすら思っていた。
「それは危ないところでした」
ルースさまがそう仰るので、私も思わず苦笑する。
「私もルースさまと一緒だととても落ち着いて安心できます。こんな素敵な方とずっと一緒にいられたら、と思ったりはしましたが……まさか現実になるとは思っていなくて」
私はそう言った後、少し悲しくなって尋ねた。
「あの、舞踏会で一緒だった方とは付き合っておられないのですか?」
彼女の、大聖堂のドアからルースさまを見つめる瞳は確かに恋する女性のものだと思ったのだけれど。
「シシリーですか」
ルースさまはふっと寂しそうに微笑なさると、
「シシリーとは昔付き合っていたことがありますが、今はいい友人です」
と遠い目をして仰った。その言い方がどこか切なげで、何かのっぴきならない事情があったのだろうと私は察した。これは、深入りしてはいけないと思う。
「シシリーのことを気にして下さるのですか」
ルースさまは穏やかな瞳で私を見つめられた。
「あっ、はい。ちらとお見かけしただけですが、とても素敵な方だと思ったので」
「ありがとう。サーシャは優しいのですね。ますますあなたが好きになりました」
ルースさまはホッとしたように笑うと、もう一度私を抱きしめて下さった。優しいのに強くて、抗えない気がして。私はルースさまの体温を感じて、そっと目を閉じた。