父上が亡くなられて二度目の新年も酷いものだった。中宮さまは位を去られ入道宮と呼ばれた。御所ではまるで彼女の出家を喜ぶかのように華やかな内宴、踏歌が行われた。司召があったが入道宮さまへの加階が止められ、出家を理由に俸禄も減らされた。無茶苦茶だった。前例も何もあったもんじゃなかった。
父上のご遺志もあって俺は何度も留めたが左大臣は辞表を出した。光《ひかる》も左大臣も邸にこもっていた。この年の夏頃、朧月夜さんは里に帰り光と会っていた。それを右大臣が見つけて激怒し、母に言いつけた。
母は実家で二人に密会されたのがよほど気に食わなかったのか、「帝を廃し春宮の世を望んでいる」と光にありもしない罪を着せて京から追放しようと画策した。俺が事の次第を知ったのは年が明けてからだった。この新年もどうしようもない、右大臣側に偏った任官がなされた。俺の意志も父院のご遺志も当然のように無視された。俺は御所に来ていた母を御前に呼んだ。非礼は承知の上だった。
「祖父《おおじ》上の面前で悪びれもせず寝転がっていたのが罪なのですか」
「それだけではない」
母は苦々しげな顔で答えた。
「母上のお側でそのような振る舞いをし、侮辱した罪ですか」
「そなたへの侮辱もある」
「俺は侮辱とは思っておりませんが」
俺は呆れた。年頃の娘の居室にそこまで躊躇なく踏み込むものだろうか。男が女に会いに行き、雷雨で帰れなくなった。それだけのことだと思うが。
「むしろ尚侍の面目が丸つぶれだと思いますが」
あんなに陽気な人が涙も枯れるほど泣いていて。俺は腹を立てていた。妹をかばわないのか。俺と同じで所詮権力を握るための駒扱いか。
「男女の恋が謀・反・の・罪・とは。聞いて呆れます」
「帝になった途端口答えか」
「いけませんか」
俺も母に似ているのかもしれなかった。むしょうに腹が立って仕方ない。
「目的のためには手段を選ばず、妹の不始末をだ・し・に私の臣を脅すんですね。院のご遺言を違えるんですね」
母は何も言わなかった。昼御座は静まりかえって俺の声しかしなかった。
「わかりました。お下がり下さい」
母は忌々しそうに立ち上がると去っていった。俺はため息をついて。この国の行く末を案じた。
◇◇◇
「帝がお怒りになった」という噂は燎原の火のように一夜にして京じゅうへ広がった、と蛍は言うのだけれど大げさだろうと思う。三月のある日、俺は被衣をして顔を隠すと、蛍の車に同乗させてもらって二條院へ行った。光と話すためだった。
「減らされた入道宮さまの禄は俺から補っておくね。冷泉さんを通せば文句も言えないだろうから」
収入を減らして困窮させようなんて浅ましい了見だと思った。恥ずかしくて俺が宮さまに顔向けできない。
「左大臣家にも酷い処遇をして申し訳ありません」
三位中将さんがいたのでこの場を借りて謝る。
「あれほど露骨な任官は亡き院も帝の俺をも愚弄するものです。報いは必ず受けさせます」
「いえ」
三位中将さんは京を離れるという光を見送りに来ていた。二條院を訪問すると母から重・い・咎・め・を受けるらしく、蛍と中将さん以外誰も来てはいなかった。
「俺、そろそろ帰るな。失礼します」
三位中将さんはこの場に帝がいるということ自体に危機感を持ったのか、俺に礼をして帰っていった。
「すー兄《にい》、怖い……」
「中将さんまで引いてるじゃん」
蛍と光は少し遠巻きに俺を見ている。
「普段怒らない人怒らせたから……。お前のせいだぞ、ヘマして見つかりやがって」
「だから悪かったって」
「光のせいじゃないよ」
俺は静かに言い切った。
「彼女と付き合ってもいいって俺・が・言ってるんだから。泣いてる妹を庇わないどころか処罰に利用するなんて。度し難いよ」
許せないと思った。身内を私物化するにも程がある。
「本当に行くの?」
「うん。このまま京にいても良いことなさそうだし。朧月夜にも悪いしね」
光は面痩せて疲れているように見えた。
「海への遠出ってしたことないから気分転換にいいかなって。まあ旅人気分で行ってくるよ」
俺に気を使ってか、わざと明るい調子で話す。
「必ず呼び戻すから。元気でいてね」
俺は光に約束した。こんな放縦な時代が長く続いていいわけはない。国が滅びると思った。
「冷泉さんのこと、頼むね」
「うん。必ず帝になって頂くよ。それまでお守りする」
身辺警護の実行部隊を持てないところが残念ではあった。冷泉さん付きの女房たちなら聡明だし、だいぶ守れるとは思うが。
「俺がいない間に京で戦《いくさ》が始まってたとか、やめてね?」
「大丈夫だよ」
光が不安そうに俺を見るので俺は苦笑した。
「戦は起きようがないよ。俺には兵も人望もないし」
こうやって鉛を呑むように今までの帝も我慢してきたのか。帝になるってことは耐え忍ぶってことなのか。俺は苦しかった。苦しかったが、この苦しみを忘れないと思った。
「父上もお怒りだと思うよ。こんな時代、一刻も早く終わらせるから。冷泉さんを帝に戴く日が必ずくるから。それまでどうか、生きて下さい」
俺は深く頭を下げると光を見つめた。冷泉さんの御世を邪魔するいかなる者も排除しなければならない。譲位の時は俺という船が沈む時だ。乗員もろとも引きずりおろす。
「ありがとう。かたじけないです」
光も俺を見て。
「さっさと帰ってこいよ」
蛍も光を見て。俺たち三人は右手を伸ばして重ねると、拳にしてガッと突き合わせた。