光《ひかる》を失ったまま年が明けた。光二十七歳、冷泉さんは九歳になられる。京はひっそりと寂しく、何をしても華がないように感じられた。光は本当にひかりだったんだと誰もが思った。
二月末には南殿の桜も咲き誇り、数年前父上在りし日に催された花宴が懐かしく思い出された。院となられた父上が嬉しそうに笑っておられたこと、光の作った句を帝の俺が誦んだことが遠い昔のように感じられる。
「宰相中将さんがわざわざ会いに来てくれたよ。俺が黒駒を贈って、中将さんが笛をくれたんだ。」
光からの文には厳しい生活の中にも少し希望の見える様子が垣間見られた。いつ呼び戻そうかな。母はあれから冷泉さんが散・歩・に行っても何もしなくなっていた。このまま大人しくしておいてくれるのかな。まだ祖父の右大臣がいるし、気は抜けないけれど。
この年の三月、京の空が荒れた。風が吹き嵐を呼んで、激しい雨あられが幾日も降り続く。こんな空は見たことがないと皆が口をそろえ、このまま世が尽きるのではないかと恐れる者もいた。俺は仁王会《におうえ》を開き聖《ひじり》たちに仁王護国般若経を読誦してもらった。京じゅうが手を合わせて天の怒りが鎮まることを祈った。誰も参内できないので政《まつりごと》も止まっていた。
俺は嵐の吹きすさぶ中御所で静かに祈りながら譲位の時が来たかと考えていた。冷泉さんが元服なさるまでは難しいか。だいぶしっかりした方ではあられるが……。冷泉さんも連日の荒天に不安そうな顔をなさっておられた。
「大将は大丈夫でしょうか」
「ええ……文も出せないので、無事を祈りましょう」
これが天地の怒りなら光を殺すことはないと思うが、ただの災害ならと考えると恐ろしかった。須磨の空は晴れているだろうか。光を亡くすということは俺には国難を意味した。
◇◇◇
三月十三日の夜だった。稲妻が閃き風雨が吹き荒れる夜、俺は父上の夢を見た。父上は南殿の階《きざはし》に立たれ、俺をじっと見つめておられた。俺は父上のそばに畏まりながら妙なことに気づいた。いつの間にか左目が閉じて見えなくなっていた。
「朱雀、そなた、わしに隠し事があるな」
「はい」
俺は下を向いたまましばらく黙っていた。
「それについて、何か申すことはないか」
「ございません」
「後悔もな」
「はい」
左目は痛くはなかったが開くことはできなかった。もう永遠に見えないのかもしれない。俺はそれでもよかった。この程度の罰で済むなら僥倖だろう。
「先程光に会ってきた。須磨で酷い目に遭っておったぞ。そなた、わしの遺言を違えたな」
「申し訳ございません」
俺は不思議と静かな、落ち着いた気持ちになっていた。
「父より母を取るか」
「俺の力が及びませんでした」
父上は俺から目を離すと、しばらく彼方を望まれた。
「時期を見て光を京へ呼び戻すがよい。父・と・子・を離すのは酷であろう」
「……はい」
俺は深く息をついた。父上は怒ってはおられないようだ。
「ずいぶん春宮のために戦っておるようだな。見直したぞ」
「恐縮でございます」
「朱雀、そなた……相貌《かお》が変わったな」
父上が不意にそう仰るので俺は今まで伏せていた面《おもて》を上げた。父上は微笑んで俺を見ておられる。
「眇《すがめ》のほうが良いでしょうか」
俺が尋ねると、父上はフフと笑って消えてしまわれた。目が覚めた後も俺の左目は開かないままだった。