ある夏の夜、蛍が一緒に酒を飲もうと誘ってくれた。俺は酒ってそれほど好きじゃないんだけれど。宴の雰囲気は好きなので、例のようにこっそり、蛍いきつけの局《つぼね》にお邪魔する。
「すー兄《にい》遅いよー」
「ごめんごめん」
蛍と光《ひかる》は先にきていて、外を見ながら甘い酒を酌み交わしていた。二人とも目が少しとろんとしていて。今夜はペースが速いのかな。
「ふたりとも元気そうだね」
「元気だよー。元気も元気。光なんか人妻に手出すくらい元気だからねー」
「なんだよ」
突如人妻という単語が出てきて俺は面食らってしまった。とりあえず蛍の横に並んで座る。
「この前|方違《かたたが》えに行ったらさ、小柄でタイプの子がいたんだよね。だから一緒に寝ようかって誘ったんだけど、断られちゃって」
「軽く言うけどかなり迷惑だぜ?」
蛍は心底呆れたという表情で光を睨んだ。
「親ほど年の離れた爺さんに嫁がされた苦労人の子でさ。可哀想だから慰めてあげようと思ったんだよ。でも狭い邸《やしき》で、女房やら何やらがそこらじゅうびっしり寝てんの」
「それはお前が急に押しかけて部屋が減ったせいもあるからな?」
「誰かに見つかったら悪いと思って、抱き上げて俺の寝所に連れて行ってあげたんだけど。よほど嫌だったのかな、その子汗びっしょりかいてさ。断固拒否って感じでついに朝まで何もさせてくれなかった」
「かわいそうすぎる……」
蛍は本気でその女性に同情している様子だった。汗びっしょりというのは、たしかに相当怖かったのかな。
「光のこと拒む人っているんだね」
俺はそれだけが意外で、つい口に出してしまった。
「それなんだよ。俺もあれほど拒否されたのは初めてで。なんか新鮮だった」
「新鮮ってなんだよ。お前と密通したのがバレたらその子がどれだけ困るかわかんねーのか?」
「何お前、妬いてんの?」
「常識的に考えてんだよ」
蛍は真剣に怒っていて。蛍は女性に優しいと聞いていたけどこういう所なんだなと俺は思った。
「俺と寝て迷惑な人なんているの?」
「そりゃいるだろ。自惚れも甚だしくてこえーわ」
今日の光はどこか寂しそうで。潤んだ瞳から涙が零れそうに見える。飲むと泣いちゃうタイプなのかな。
「あんな爺さんにも勝てないのかなって、俺ショックで……」
「独身ならまだしも、結婚しちまってる子を食おうってのが間違ってるよ」
「結婚なんてそんなに大事か?」
「大事なんだろ、その子にとっては」
俺は怒った蛍に注いでもらった酒にそっと口をつけた。蛍は飲むと怒るタイプなのかな。でも指摘はいつものように的確で。口調だけがキツくなるみたいだ。
「俺三回も行ったんだよ。最初はその完全拒否で、二度目は会ってもくれなくて、三度目は間一髪のところで逃げられた。あんな執念深い人もいるんだね」
「執念深いのはお前だよ」
蛍は盃をぐっと干すと自分でもう一杯注いだ。二人ともペース上がってるなあ。気の利いた女房がおかわりの酒を持ってきてくれて、俺はそんなに飲んで大丈夫かなと少し心配になった。
「その子が逃げる直前に脱いだ汗ばんだ小袿《こうちぎ》を形見にさ。独り寂しく寝たよ」
「形見にって、持ってきちゃったのかよ……盗みまで働いてるよ」
「途中何度も使用人に見つかりそうになってさ。ああいう狭い邸は危ねえなって反省した」
「反省点はそこじゃねーからな」
俺は女性のところへ忍び込むという経験をしたことがないので、光の話を興味深くきいた。たしか何度か歌を詠み交わして脈がありそうだったら……みたいな流れだったと思うけれど。光の行動は突発的でマナー違反だから、蛍はこれほど怒っているのかな。
「もう忘れたほうがいいのかな。あの爺さん、早く死なねえかな」
「なんつーことを願ってんだよ」
「だって惜しいじゃん。宮仕えしないかって話も一時はあったらしいのにさ」
光はふと飲む手を止めると、虚空を見つめた。
「この程度の女なら何をしても構わないとお思いなんでしょう、って言われたんだよ。俺そんなこと考えてないつもりなのにさ」
「歌も交わさずいきなりってのは失礼すぎるよ。しかも方違えのついでって。一夜限り感満載じゃん」
「まあそうだよね。たまには高貴じゃない人にも触れてみたかったんだけど。難しいわ」
光はそのうち盃をもちながらこくり、こくりと舟を漕ぎ始めて。蛍はそんな光の手から盃を奪うと、残った酒を飲み干してしまった。俺は黙って二人を見つめていて。今夜は晴れて月が綺麗だ。
「こいつ最近疲れてるよね」
「そう、みたいだね」
「だからあれほど危ない橋は渡るなっつってんのに……」
蛍は苛ついた様子で目を赤くするとそれきり黙ってしまった。蛍も光を心配しているようだ。俺はつい何も言わず見守ってしまうけれど。蛍は親身になって忠告してくれるからありがたい。
「春宮様、お強いんですね」
ついに蛍まで眠ってしまって手持ち無沙汰の俺に、優しい女房が声をかけてくれた。
「俺は飲むの遅いから」
俺は照れて笑ったけれど、たしかに飲んでもあまり酔えない性質《たち》らしかった。ちょっと損かな? 酒でヘマしないのは長所だけれど。そもそも酔ってなくてもヘマするからなあ。俺はいつ二人を起こそうかなと考えながら、月影さす夏の庭を眺めていた。