御所に行く用事もないので院でゆっくり祈っていた午後。取次の女房が少し困った顔をして俺の所まで来た。
「内大臣のご子息がお一人で来られていますが」
「夕霧くんが?」
とりあえず通してもらうと、たしかに夕霧くんが一人で来ていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
いい天気だったので、俺は庭の見える縁に夕霧くんを誘った。夕霧くんは軽く礼をして座る。しばらく二人並んで互いに何も話さなかった。何も話すことがなくても、俺は全く苦痛ではなかった。
「あなたは俺の本当の父さんなんですか」
夕霧くんが唐突にきくので、俺はちょっと驚いて言葉を選んだ。
「あの、えっとね、それは誤解で……。君は正真正銘、光《ひかる》の息子だよ」
「なあんだ」
夕霧くんは前を向いたままつぶやくと
「あなたが父さんだったらよかったのに」
残念そうな声で言う。
「どうしてそう思うの?」
「だって、あの人は俺のこと好きじゃないから」
あの人というのは光のことだろうか。
「うちに来るのだって俺目当てじゃなくて、気に入った女房たちと話すためだし。あの人が好きなのは女だけだから」
夕霧くんは前を向いたまま、寂しそうに話した。
「あなたは母さんの恋人だったんですか」
「恋人ではないかも……友だちくらいかな」
「文をかわしてたのに?」
「恋文じゃなかったんだ」
夕霧くんはよくわからないという顔でしばらく考えていたが
「母さんのこと好きじゃなかったの?」
静かな声できいた。
「ううん、好きだったよ。すごく好きだった」
「じゃあなんで恋人にならなかったの」
「光と引き離したいわけじゃなかったんだ。光と葵さんと夕霧くん、三人で幸せに暮らしてくれたらと思ってた。葵さんが幸せになってくれたら」
心の底からそれが見たかったと俺は思った。
「そうなんだ」
夕霧くんは目を伏せながら、自分の膝を見つめる。
「母さんが生きてたら、あの人はちゃんと来るの」
「来ると思うよ」
「一緒に住んでる人がいるのに?」
鋭いなあと思って俺は困ってしまった。まだ九歳だと思うけれど。夕霧くんは鋭い。
「もし母さんが生きてたら」
夕霧くんは前に視線を戻すとハッキリした口調で言った。
「俺はあなたを母さんに会わせる」
「どうして?」
「新しい父さんになってもらう」
「……そっか」
俺は胸がいっぱいになって何と答えたらいいかわからなかった。ずいぶん長い間俺たちは黙っていて。俺だって良い夫でも親でもないのだから、何も言う権利は無いのだと思った。
「今日来たことはあの人には言わないで」
「うん。秘密だね」
「また来てもいい?」
「いいよ」
夕霧くんは鋭い瞳でじっと俺を見ると、すっと立って帰っていった。俺はまだ春宮だった頃、光が梅壺の隠れ家に来た時に似ているなと思ってその背を見ていた。