「さて、こっからだな」
光《ひかる》は盃を置くと真剣な顔をした。
「来年から心して行かねえと」
「来年何があるの……?」
俺は嫌な予感がして尋ねた。
「俺の最愛の妻が重病になんのよ。兄貴の五十の賀のせいでさ」
「また俺」
薄々予想はしていたがやっぱり俺なのかと、俺はただでさえ小柄な肩身が更に狭くなる気がした。
「兄貴の五十の賀に三宮さんの七絃琴を聞かせなきゃって、俺が手取り足取り教えるわけ。それで試楽した夜から紫《むらさき》が寝込んで、一時は仮死状態になるんだよ」
「そんなに重く……」
予言ではまさに親代わりになって三宮を育ててくれたんだなと俺はありがたく思った。光のその丹念な世話が奥様を苦しめてしまったのだろうか。いや、三宮が降嫁した時から彼女の心身には負担がかかり続けていたに違いない。
「紫を二條院に移して俺もつきっきりで看病して、六條院が手薄になったすきを柏木にやられる」
「ひどい……」
いつもながら厳しい筋書きだと思った。それで子ができたら光の子と偽ることも難しいだろう。
「つまり兄貴の五十の賀がなければ、紫は病にならないわけ」
「そーかあ?」
蛍は強引なこじつけだと思ったのか、光の論に疑問を呈した。
「五十の賀なんてしなくていいよ」
俺は本心からそう言った。もうすぐ五十だってこと自分でも忘れてたくらいなのに。そのお祝いに奥様の命まで懸けてもらってはあまりに申し訳ない。
「兄貴が絡むと俺が苦しむわけよ。俺を苦しめるために兄貴は存在してるわけ」
「まあ仕方ねーよ。天下無敵のお前に意見できる存在なんて父上かすー兄《にい》しかいねーんだから。父上はお前のこと溺愛してんだし、すー兄しか悪役いねーじゃん」
蛍の意見は優しくて俺は救われる気がした。俺は悪役として生を享けてたのか……。
「生まれながらの悪役なんだよなあ」
「格好良いですね!」
冷泉さんは微笑んで褒めて下さる。
「いや俺も褒めてんだよ? 悪役の魅力が物語の魅力なんだからさ」
「嬉しくないなあ……」
俺は苦笑しつつ、光の指摘はもっともだと思った。母が桐壺更衣を死なせてしまったという一事からして俺は悪役側だし、俺たちの深い因縁を示しているのだから。
「そんな悪役の俺をよく仲間に入れてくれたね」
俺はそれが一番すごいことのような気がして光を敬愛の眼差しで見つめた。
「監・視・して懐・柔・するために決まってんじゃん」
光は至極当然といった顔で言う。
「ただ想像を絶するくらい善い人だから躊躇したよね。兄貴と並ぶと俺が悪人みたいに見えるもん」
「オメー善人のつもりだったのかよ鏡見ろ」
「お前それ冷泉さんに失礼だからな」
「私は善人じゃないですよ」
冷泉さんはニコニコされてこの会話が楽しそうだ。
「話が進まない」
夕霧くんが鋭い瞳で注意するのでいったん仕切り直しになった。
「柏木の病も防ぐ」
夕霧くんは決意したように言うが、光は腕を組んで考え込んでいる。
「もちろん俺はいじめねえけど、それだけで防げんのか? 柏木の様子は?」
「いたって元気そーだぜ。この前も一緒に蹴鞠したし」
「あの若い柏木がなんで死ぬんだろ」
俺も理由がわからなくて首をかしげた。
「来年に入ってすぐなの?」
「いや。紫の病が先で、柏木が忍び込むのが四月、俺が文を発見するのが六月、柏木は俺にバレたことを知ってずっと具合悪そうにしてるけど、十二月俺に睨まれてトドメだね」
「怒涛の一年だね……」
そんな恐ろしいことが次々起こるのか……。俺は三宮を光にあげなくてよかったと改めて思ってしまった。柏木くんの人生はすでにあの予言から外れているのでどうなるかわからないが、皆の無事を祈るばかりだ。
「奥様は今どこかお悪いの?」
「いや、全然平気そう。そもそも三宮さんは俺の嫁じゃないから、五十の賀をやるとしても柏木んちなんだよ」
光は思案しながら言った。
「柏木からもその相談が来ててさ。紫が悪くならなければ二月の予定だから、そのままやってもらおうと思って」
「やっぱりやるんだね」
「しょうがないよ。俺の反対で中止したら帝や三宮さんに悪いし」
「祝い事はガツンとやった方が良さげだなー」
蛍も光の予定に賛成していた。
「もう後はさ、柏木の体調に変化ないか皆で見張るしかなくね?」
「そうだなー」
「私も注意しておきますね」
「兄貴は三宮さんや帝と頻繁に文しといてよ。俺も一応見とくから。夕霧も見張れよ」
「うん」
俺が緊張してうなずくと夕霧くんも鋭い目で光を見た。心配だな……。あんなに元気な柏木くんが本当に亡くなってしまうのだろうか。俺は京を離れて西山へ帰るのは不安な気がしたが、柏木くんのためにも身を入れて祈ろうと決めて六條院を後にした。